ドクターミザワの異常な愛情
@shinjukumarunouchi
第一話
ミザワ博士はリー所長の助手である。資料の整理や官庁への申請、出張の手配、実験のスケジューリング、疲労で肩腰崩壊寸前の彼女のために深夜にコーヒーを淹れる等の庶務を担っている。博士、との肩書の割に随分な扱いではないか?とお思いになるかもしれないが、事実、ミザワ博士も少し前まではこの研究所の研究員だったのだ。ある日不幸な事故に遭い、足と頭をほんの少し怪我してしまって、その職任を十分には全うできなくなったので、リー所長とミザワ博士自身がよく話し合ってこうすることを決めたのだという。
「かわいそうなミザワ博士は、リー所長のために人体実験の実験体になったのだ」
という噂がある。噂に過ぎない。以前、ミザワ博士を心配した同僚が直接それとなく聞いてみたが、ミザワ博士は笑って首を振るばかりだった。「そんなわけがあるものか。今だってこうして働かせてもらえて、僕は国家の偉業に携わることができて嬉しいんだよ」と、穏やかにそれ以上の答えを拒絶し、事故以来悪くした足でびっこを引いて去っていった。そもそもリー所長の研究所は重大な国家プロジェクトの本営であり、申請さえすれば司法省から生きのいい受刑者を特別な許可の下「検体」として貸し出してもらえる。だからミザワ博士自身が馬鹿馬鹿しい噂を否定するのならみんな、それもそうか、と受け入れるしかなかったのだった。
リー所長は助手になったミザワ博士をよく気にかけた。ミザワ博士は足を悪くしたから、淹れたコーヒーを運ぶのにもびっこを引く。以前それで研究室で盛大に転んでしまったとき、真っ先に駆け寄ったのも彼女だった。即日研究所には配膳ロボットが一台導入された。コーヒーマシンの横に紅茶のパックを置くまでには二年かかったというのに、ミザワ博士の仕事に必要だというだけで実験機材の導入並に早かった。あの冷淡無情を絵に描いたようなリー所長がそんなふうに他人を気に掛けるなんて、研究員たちにとってはにわかには信じがたいことだった。ミザワ博士に弱みを握られているからだ、なんていう雑な邪推も生じ、結果先述のようなゴシップを呼んだのだった。
ミザワ博士は頭と足を少し怪我してからというもの、歩き方は少し下手になり、物覚えも少し悪くなったが、人当たりが少し良くなって、淹れるコーヒーも少しおいしくなった。しかし以前のミザワ博士のコーヒーの味を知っている人間はこの世に誰もいないから、おいしくなったなんてことも誰も知らない。
ミザワ博士がまだ両足で上手に歩けた最後の夜、彼はコーヒーを淹れていた。コーヒーマシンは使わず、自分で持ち込んだミルとポットを使っていた。その夜彼が淹れた最後のコーヒーは誰の口に入ることもなく翌朝清掃員にちゃっと流しへ捨てられたが、本来は彼とリー所長のために淹れられたものだった。リー所長はコーヒーも飲めないほどに追い詰められていたからだった。
「間に合わない」と、リーは噛み締めた奥歯の隙間から漏らすように言った。「あと一つ、一つでいいからデータを取りたいだけなのに」
リー所長の逼迫した状況を、当然ミザワ博士もわかっていた。今から申請したのでは「検体」の提供に二週間はかかってしまうこと、それでは到底間に合わないことも知っていた。
「……いっそ、私の脳を使うか」
リーが呟くのをミザワはぎょっとして聞く。リーは掻き乱した前髪の隙間からミザワを鋭く睨みつけた。
「少なくとも死ぬような実験じゃない。ミザワ。今なら君だけだ。内容は指示するから……」
「賛成できかねます。リー、あなたは所長だ」
「方法がないんだ!」リーは叫んだ。「今すぐこのデータが取れさえすればいい、だから……!」
ミザワ博士はリー所長の抱える幾人もの部下の一人に過ぎなかったから、このように一対一で対面することはたまたま今日が初めてだったのだ。初めてだったからこそ、労をねぎらいたくて彼なりに度胸を振り絞った一杯は、まだそこで湯気を立てていた。
ミザワ博士はおもむろにその場に跪き、リーの表情を覗き込んだ。ミザワの、木星の渦のようなヘーゼルの瞳に、憔悴しきって蒼白なリーの顔が映り込む。
「ドクター・リー。検体なら、僕をお使いください」
時はさらに遡る。これからするのはミザワ博士の半生からその最後にまつわる話である。
彼が十二歳の頃に生まれた妹は、六年も生きられずに病で死んだ。脳と神経系に来す異常から最後には呼吸器が麻痺して亡くなる病だった。入学試験の面接の際も、また誰かに「どうしてこの道を志すのか」尋ねられた時も、彼は妹のことを話した。「幼くして亡くなってしまった妹のような子供を救いたいのです」と言えば、およそ全ての人物は彼に同情し、共感を示し、敬意すら表するのだった。
やがて彼は優秀だが凡庸な研究者となった。ちょうどその頃、リー博士の論文を読んだ。『脳神経組織の人為的再構築による身体機能の再定義について』と表題されたそれは、彼の妹のような患者を治療しうる技術について記されていた。センセーショナルな研究成果は世界からの注目を受けたらしい。一般向けの雑誌にもリー博士へのインタビューが掲載されていたのでざっと目を通した。
「進行性の病を患う友人がいる。彼のために必ず実用化させたいんです。」
ミザワ博士が新設される国立研究所の研究員に応募したのはそれからすぐのことだった。
麻酔のマスクをかけられながら、ミザワは案外眩しくない処置台の照明を見つめた。「何を馬鹿なことを言う」「その馬鹿なことを先に言ったのはリーではありませんか」「側頭葉の一部を傷つけるんだ、後遺症が残るぞ」「それこそあなたに残ってはこの国の損失です」。十三分程度の押し問答の末にミザワは根勝ちした。むしろリーは負けたがっていることも、まだ聡明なミザワはちゃんと見抜いていたからだった。
「これから麻酔をかける。……何か、最後にあれば、私が聞き届ける」
逆光の中のリーが辛そうに目を細めた。何かあれば、とのことだったのでミザワは考える。
後悔は特にない。この先もきっとしないだろう。凡庸な自分が生きながらえたところで、歴史に名を残すようなことは万に一つもないであろうことは自分でもよくわかっていた。むしろあなたには感謝しているんですよ、リー博士。僕はあなたになりたかった。
あなたの論文とインタビューを読んだ時、「これは僕だ」と思ったのだ。実に滑稽だがそうなのです。これまで吐き通した嘘と欺瞞でできた理想の姿がそこにあった。実を言えば幼い妹の顔なんかとっくに思い出せないのだ。特筆するような思い出もない。年が離れすぎて、生まれたという実感もないままあの子は死んでしまった。かわいそうだとは思う。しかし僕は自分に都合の良いように妹の存在と死を騙ってきたに過ぎない。矛盾するのは苦しいことだ。騙り続けるうち、僕は自分が妹をどう思っていたのかすら忘れてしまった。僕の心は曖昧なその部分をとてつもない喪失だったことにして扱いはじめた。妹のことを思うと涙が出るようになった。あんなに可愛かった妹がどうして、と無念でやり切れない思いになる。可愛い、だと?そんな思い出もないくせに。顔も思い出せないくせに。今や僕の虚言を僕の記憶と連続性だけががなり責め立てる。僕は精神の分離に苦しんだ。立って息をしているだけで僕は嘘をついていた。そんな中であなたを見つけた。あなたはその怜悧な微笑をたたえて「自分の研究で友人を救いたい」と、なんの忌憚もなく言ってのけた。だって僕と違って事実なのだろう。ああ、どんなに羨ましかったことか!僕はしばしば一人夢想した。もっと明確に夢を見たくてあなたの傍に近づいた。あなたのその才能が、その生涯の道程が、もし僕のものであったなら。僕にも誰かを愛せたのなら。
僕はあなたになりたかった。僕の凡庸で鈍い生涯に命を賭すべき意味があればと切望した、僕の生涯がどうあってほしかったかなんていう過去仮定法のレトリックに過ぎなかったけれど。感謝します。リー博士。ようやく僕はあなたの一部になれる。僕の頭は傷ついて、きっと今の僕の意識との連続性は一度絶たれるでしょう。救いだと感じる。僕はこの醜く浅ましい僕をやめて生まれ変わることができるのだ。
「……ご友人が、どうかあなたによって救われますように」
ミザワは目を閉じた。
次に目を覚ました時には、彼はリー所長の自室のベッドで寝かされていた。朝の陽光は眩しく窓から差し込んで、部屋に漂う細かな塵を川底の砂金のように揺らめかせ、輝かせた。沈痛な表情でミザワを覗き込むリーの髪が、朝日で半透明に透けていた。混乱はおよそなかったが、彼の意識は常にどこか白いもやがかかったようで、最後の瞬間まで思っていたことも忘れてしまった。難しいことを考えるのもなんだか億劫になっていた。はて、自分はどうして、この実験に体を差し出したんだったか。
「ミザワ……」
リーは目覚めた彼の手を握り、縋るように俯いた。枯らしきった声で何度も小さく「すまない」と呟いた。彼の手の甲に人肌の温度の水が落ちるのを感じたとき、この女のことを愛していたからかな、と彼は思うことにした。
ミザワ博士の脳は傷つき、思考能力と記憶力と、あとは少しの歩行能力を失ったが、代わりにコーヒーを淹れるのが上手くなった。同僚にコツを聞かれたときは「お湯を丁寧に注ぐこと」だと答えた。「慌てないためには飲む人の顔を思い浮かべるんだよ。」とも付け加える。どれも今のミザワ博士には容易いことだった。
ドクターミザワの異常な愛情 @shinjukumarunouchi
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