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その瞬間、絵瑠沙が微笑む。久々の彼女の笑顔だった。
「正解よ。さすがね」
そう。
マクスウェルの悪魔は、19世紀のイギリスの物理学者ジェームズ・C・マクスウェルが生み出した架空の概念だ。彼は以下のような思考実験を提案した。
完全に閉じられていてエネルギーのやりとりがない部屋の中の空気はどこも温度は変わらない。この状態でエントロピーは最大となる。ここで部屋を真ん中から半分に区切り、壁に穴を開けたとしても、何もしなければどちらの気温も同じで、部屋の片側は気温が低くもう片側は高い、といった状態になることはあり得ない。それはエントロピーの減少を意味しており、熱力学の第二法則――エントロピー増大則に反する。もちろんクーラーを使えばそのような状態にすることもできるが、それにはクーラーを動かすためのエネルギーが必要になる。完全に閉鎖された系の中で、エネルギーを使わずにエントロピーを減少させるのは不可能とされているのだ。
しかし、そもそも気温が高い、低いというのは何を意味するのか。気温というものは空気分子の平均移動速度なのだ。その速度が速ければ気温は高く、遅ければ低くなる。
さあ、ここで悪魔の登場だ。この悪魔は、空気分子一つ一つの速度を把握出来る。で、速めの速度の空気分子が右から左に飛んできたら穴を開き、遅めの分子が左から右に飛んできても同じように穴を開く。その逆の場合は穴を開かない。これを何度も繰り返して十分時間が経つと、左側の空間は速い速度の分子が集まり、右側は遅い分子が集まる。ということは……
全くエネルギーを使うことなく、左は気温が高く右は気温が低い、というエントロピーの低い状態になってしまったのだ。これが「マクスウェルの悪魔」であり、その存在の是非を巡って、物理学者は長年議論を繰り広げていた。
「と言っても」絵瑠沙は続ける。「現代ではマクスウェルの悪魔は情報理論によって否定されている。だから厳密な意味では私はマクスウェルの悪魔ではないの。ただ、エントロピーを余剰次元に逃がす形で減少させているだけ」
「それにしたって、すごい能力じゃないか。だけど……その能力は、何のために与えられたんだ?」
「このまま寒冷化が進めば、いずれ食糧危機が起こるでしょう。それを回避するためには……多くの人間を冬眠させる必要がある。冬眠の状態ならエネルギー消費を最小に抑えられるから、食料もほとんど要らなくて済む。だけど、そのためには低温状態を持続させないといけない。それにもかなりのエネルギーが必要になる。でも……私ならほとんどエネルギーを費やすことなく低温状態を維持できる。だから……私は、その冬眠施設の一部になるために、ここに存在しているの」
「……!」
なんてことだ。
「それじゃ……人間を冬眠させるのが、君の使命だというのか?」
「ええ。実は、私のような存在は既に世界各地にいるの。そして、国連主導で各地に冬眠施設を建設する計画が水面下で進んでいる。その施設に必要な冷却を、私たちが行うことになるわ。おそらく、人間としての形は保てないと思うけど」
「……!」
そんな……
「それじゃ……本当に君は、施設の一部になってしまうのか? 僕と別れて……」
「そうね。残念だけど……」
「嫌だよ……たとえ君が人間じゃなくてもいい。一緒にいたい……」
「私もよ」絵瑠沙も顔を曇らせる。「だけど……これは人類を救うために、余剰次元の知性体に命じられたことなの。だから……私は行かなくてはならない。でも……私がどんな形になろうとも、私の記憶はそのまま保たれる。だから、いつか私がその使命から解放されたら……また、今の形に戻れるかもしれない」
「それは……いつなんだ?」
「そうね……寒冷化が終わるまで、だから……数十年、いや数百年はかかるかも……」
「そんなに待てないよ! そもそも僕の寿命が尽きてしまうじゃないか!」
「あなたも冬眠すれば、それくらいの時間は一瞬で過ぎるでしょう?」
「!」
そうか。そうすればいい。なんだ、何の問題もないじゃないか。
いや、でも……
何かが心に引っかかっている。なんだろう……
僕は考え続ける。そして……ふいに、結論に至った。
「……いや、やっぱり僕は冬眠できない」
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