第二話
演奏の余韻に浸りながらいつの間にか昔を思い出してたみたい。少女が我に返ったときには演奏は終わってた。けれど、いつも弾いているせいか、体が覚えてしまっている。
ピアノの前に座る少女の後ろでバイオリンを弾いていた男はバイオリンを仕舞ってソファーに座っていた。
「紅茶入れますね」
彼女はパタンとピアノを閉じ、キッチンへ向かって紅茶を入れる。二人分の紅茶を入れて男の前のテーブルに置く。
その隣に少女は座り、紅茶を十分冷ましてからいただく。
ほっと一息。夕方の演奏の後はいつもこうやって紅茶をゆっくり飲むのが習慣になっている。紅茶を飲み終わったら夕食の準備。
「だんだん上手になってるね。楽しく弾けてるみたいだし」
「おかげさまで。二ヶ月前よりはだいぶ弾けるようになりました」
「うん。楽しく弾くのはいいことだよ」
「たくさん練習しましたから」
二人は笑いながらゆっくりと紅茶を飲む。特別なことは何もない、普通の幸せな時間だ。
二ヶ月前、この家の窓を覗いたときからだ。それから彼女は男にピアノを教わり、いつの間にか彼女はこの家に住むことになった。いつの間にかこの家に住み、普通の生活を送っている。天界から追放され、この家に来るまでの空っぽな気持ちはどこに行ったのだろう? そんなこと、全部忘れてしまうくらいに満たされたゆっくりとした時間が流れている。
「あの時は……ここに住むなんて、考えられませんでした」
「ん? そう?」
「感謝してもしきれないくらいです。私をここに住まわしてくれて……本当に、ありがとうございます」
「僕からもありがとう。ご飯も作ってくれるし、一緒に音楽を楽しんでくれる……とても、楽しいよ」
ゆっくりとはいえ、時間は確かに流れていく。時計を見れば、夕食を作る時間だ。彼女は自分と男の飲み干したティーカップをキッチンに下げて、そのまま夕食の準備に取り掛かる。
日が傾けば二人で演奏し、ゆっくりと紅茶を飲む。夕食を取りながら二人で何気ない世間話。静かに流れる二人の時間。何も特別なことはない当たり前の幸せは彼女にとっての最高の幸せだった。
「あ、明日は町に行くからお昼ご飯はいらないよ」
「そうですか? 夕ご飯は?」
「なるべく早く帰ってくるからいつも通りの時間に作ってほしい」
彼女はうなずき、できた夕食をテーブルへと運ぶ。二人がテーブルに着いたところで「いただきます」。
「そういえば、そろそろ桃の季節だね」
「川原の桃も、山桜も蕾を付け始めましたね」
食べながら男はなんとなく口にする。
外はすでに暗くなっているが、日の出ている内に外に出るとあちこちで蕾のついた桃と桜を見つけられるようになった。だんだんと暖かくなっている。
すでに梅は咲き終わり、これからは桃や桜の季節。ピンク色に花が咲き、道や山を彩る春の季節が男は好きだった。
外を歩けば、公園の桜並木や遠くにある山の桜、川原の近くにある桃農園はほんのりとピンク色。蕾をつけて花を咲かす準備をしている。
桜や桃の花は春の合図だ。見栄えは桜のほうがいいが、桃の花は桜よりもいい香りがする。
しかし、二人が住む家の庭にある一本の桃の木は蕾一つつけていない。ピンク色になるどころか、ずっと枝だけしかない。
「あの……庭の桃の木は……枯れているのですか? 蕾がついてないので……」
「あの桃のこと? 確かずっと花を咲かせてないのぁ……」
「枯れているのですか?」
「いや。ちゃんと生きてるよ。咲かないだけだよ」
「ずっと咲いてないのですか?」
「うん。あの桃は
「……え?」
持っていた端が手から零れ落ちた。食器の下に引いたランチョンマットの上を転がり、茶碗にぶつかる。
耳を疑った。男の口から零れ落ちた言葉に驚きを隠せない。
あわてて箸を手に取り、彼女は話の続きを促す。
「三千年? そんなものがあるのですか?」
もちろんある。天使なのだから知っている。けれど庭の桃が本当に蟠桃かを聞くにはこんな言葉しか出てこなかった。
「僕が生まれたときにはあったらしいよ。けれど、今までに一度も花をつけたことがないらしいんだ。生まれる前からずっとあるらしいけど、ずっと咲かないみたい」
嘘じゃない。この人が嘘を言うはずがない。でも、とても信じられない。天界から持ち帰るように言われたものがこんなに近くにあるなんて思わなかった。
でも、蟠桃の木が必要なんじゃない。実が必要……それにいつ実をつけるか分からないなら、木だけあっても意味がない。無いのと同じだ。
それよりも、少女にとっては天界よりここのほうがずっと心地いい。展開に戻って桃園の仕事をするより、ここで男と一緒に暮らした方がずっと楽しい。家事をこなし、男と一緒に音楽の勉強をし、夕方は一緒に演奏をして一日をゆっくり過ごす。あったかい気持ちになれる、こんな生活がいつまでも続けばいいと彼女は本気で思った。
桃の花の見ごろはいつごろだろう? そんな話をしていたら夕食は終わり。男は満足そうに「ごちそうさま。おいしかったよ」と料理を褒めてくれる。彼女はにっこり笑って食器を下げる。
「何で笑ってるの?」
「なんでもありませんよー」
彼女ははにかみながら食器を洗う。料理を褒められたからってうれしくないもんねー。
やがて、時計の短針が十一時を指した。リビングの明かりを消して二人はそれぞれの部屋に戻る。成人男性が一人で住むには少し大きい家だったので、彼女が住む始めたとき部屋も割り当てられたのだ。
明かりを一つずつ消してお休みなさい。また明日。ドアを閉めて床に就く。
外は梅や桜のつぼみのピンク色を温かい風が優しく撫でる。ここで雨が降ったとしても、風が強くなったとしても明日はいい日になれると思える。
春は目の前だ。
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