第三話
翌日。朝ごはん食べたらすぐに男は町へ出かけて行った。
家にいるのは少女一人。
もうすでに昼が近い。洗濯や掃除は午前中に終わらせて、庭では洗濯物が風に吹かれて揺れている。
お昼が近ければ……お昼ご飯を食べなければならない。当たり前。彼女はスパゲッティをゆでながら午後の予定を考える。
はっきり言って……特に予定はない。音楽の勉強もそんなに急ぐことじゃないし、一通り家事はやり終えた。お昼寝? ……せっかくだからもっと他の事。
スパゲッティを茹でる鍋の横で細かく刻んだベーコンとにんにくと鷹の爪をオリーブオイルで炒める。メニューはペペロンチーノ。にんにくの匂いは気になるのだが、今日は彼がいないので気にしなくていい。
ぐつぐつと麺が鍋の中を泳ぐ。鍋の音しかしない静かな家。窓の外では蕾をつけない桃の木の枝が見える。蕾がなければ花は咲かない。この家でお花見はできないみたい。
庭の桃のことを考えていたら、昨日の会話を思い出した。桃や桜の見ごろはいつだろう? ……って。
そうだ。川原にある桃園を見に行こう。彼が教えてくれた。毎年あの川原は綺麗なピンク色になるって。
お湯から揚げたスパゲッティをフライパンのオリーブオイルで炒めて、お皿に盛っていただきます。そうだ、近いうち……彼の時間が取れたらピクニックに行こう。
スパゲティを食べ終わり、洗い物をすると彼女をすぐに外に出て自転車に飛び乗った。まだ寒いのでセーター着用だ。
彼から「いつでも使って良い」と言われている自転車をこいで、川原を目指す。
自転車を強く漕ぐたびに顔に空気が強くぶつかる。風に吹かれているためか、止まっていたときよりちょっぴり寒い。交差点の赤信号で立ち止まる。交通量が多い交差点では車やトラックが忙しなく走り、信号もなかなか変わらない。
信号が青に変わっても回りの車が止まっているのをしっかり確認してから渡る。
そこからしばらく走っていくと、川原が見えた。雪解け水で水量が増した川は透き通った色で青空を映し出している。そして、川に沿って植えられている桃の木も太陽の光を混ぜてきらきらと反射させている。
彼女は適当なところに自転車を止めて桃の木の根元から空に伸びる桃の枝を見上げる。所々がピンク色なのは、もうすぐ春の証。
見ごろは……一週間後くらいかな?
大きく息を吸ってだんだん近づいて来る春のにおいを胸いっぱいに吸い込む。……けど、まだだった。もうちょっと……そう、一週間位したら、桃の花がいい香りを運んでくれるだろう。
そうだ。天気が良かったら暖かくなるし、ここで彼と一緒にピクニックはいいかもしれない。桃のお花見かな? 時間が取れたらだけど……今夜、相談してみようかな?
しばらくまだ咲かない桃の木を眺めてから少女は家に帰った。ちょっと長く外に干していたためか、乾いた洗濯物が少し冷たくなっていた。若干肩を落としたが、まだ未定の一週間後を考えると自然と頬が緩むのだった。
そして毎夕やっている二人の演奏の後、少女は思い切って聞いてみた。
「いいよ」
夕食が並ぶテーブルで、味噌汁を飲みながら男はあっさりとうなずいた。
「……いいのですか?」
あまりにもお花見ピクニックがあっさりと決まったので、思わず彼女は聞き返してしまった。彼の予定は大まかにまでは把握しているので、断られることはないだろうとは思っていたが、こうもあっさりと頷いてくれるとは思わなかった。
「うん。だいぶ暖かくなってきたからね、確かに一週間後くらいには見ごろになると思うよ?」
「本当にいいのですか?」
「楽しみだなー。桃の花は綺麗だし、いい匂いもするからね」
「一週間後、お花見?」
「のんびりお花見」
「本当です?」
「約束だよ」
「はい!」
何度も確認してしまう少女に、男は何度も頷いてくれた。少女は男の言葉に胸を弾ませ、ついつい顔がにやけてしまう。
「去年は桃の花、見れなかったからなー。楽しみだ」
「桃の花が好きなのですか?」
「桜よりも華やかじゃないけどね。可愛くて、いい匂いもする」
「一週間後が楽しみですね。晴れるといいのですが」
「晴れた日にお花見はしたいね。雨が降ると花も散っちゃうし」
好きな桃の花を話す男の顔はとても柔らかく、バイオリンを弾いているときと同じように楽しそうだった。
天使の少女は胸に引っかかる気持ちを男のほころぶ顔に言ってしまいそうだったが、喉元で言葉が詰まる。「好き」という気持ちは、自分が天使だということに止められた。
まだ男には言っていない……自分の正体と、庭の蟠桃の実。伝えたいことを伝えられないもやもやした気持ちは、夕食の食器の汚れと一緒に洗い流した。
言えなくても……一緒に居る、君がいるだけで……とても幸せ。
それからの数日はとても落ち着かなかった。
時間の流れというものは天邪鬼だ。楽しい時間はあっという間に過ぎるのに、楽しみにしている時間まではとてもゆっくりと流れていく。
だけど、そんなゆっくりと流れていく時間も大切な二人の時間だ。つまらないわけがない。二人で音楽の勉強、演奏。他愛のない話で盛り上がったり、男の見た桃の花のことを話を聞いたりとして時は過ぎた。
その間も、天使の少女は家事は怠らない。というより、普段以上に張り切っている。もともと彼女のおかげでホコリ一つなかった床が、さらにキレイになったような気もする。それに、テルテル坊主を作るのも忘れない。雨が絶対に降らないように、大小合わせて二十ものテルテル坊主を見て、男はちょっと苦笑い。
毎夕の演奏会では、指が弾んだ。曲の途中のピアノのソロパートでも軽快に指が鍵盤の上をはねた。買い物以外で外に出ることなんてあまり無く、二人で外で過ごすことがあまり無かった。傍から見て、彼女は楽しみオーラ全開だ。
けど、それは男にとっても同じこと。二人の笑みが絶えることなど無かった。
お花見に行く前の日。
この日も男は町へ出かけた。だから今日も家には少女が一人。川原に行こうとしたが、それでは明日のお花見の楽しみが半減してしまう。だめだめ、明日のためにとっとかなくちゃ。
ふと、庭の桃の木に目を向ける。見た目はただの桃だが、蟠桃というなにやらすごい桃らしい。少女自身、蟠桃を持って帰れと天界から言われているが、なにがすごいのかは全く分からない。分かっているのは三千年に一度しか実を結ばないということ。そのときに咲かせる花はこの世のものとは思えないほど美しいということ。
……見てみたい。けれど、花が咲いたら実を天界に持って帰らなければならない。彼とさよならしなくてはならない。
どこかにずっと咲かないでほしいと思う自分がいた。私は天使で、彼は人間だ。ある意味……ずっと彼をだましている。心が痛むけど、このまま二人の幸せを失いたくなかった。
蕾一つない枝だけの庭の桃の木を見ていると、さっきまで晴れていた空が段々とねずみ色に変わっていった。薄い雲が流れてきて、弱い風も吹き始めた。
……まずい。雨、降るかも。
これじゃあ花が散ってしまう。……そうだ! 天使の力で雨雲を吹き飛ばして……って、だめだった。天界から追放されたから力は使えないんだった。
一人で肩を落とす天使少女は空を覆うねずみ色の空をにらみつける。けれど晴れる様子はない。
天使の癖に天使の力は使えない。力が使えれば雨雲を吹き飛ばすことができるのだが……なにもできない。
何もできないからといって、何もしないわけにはいかないと思った少女はテルテル坊主を作り始めた。まだ雨は降っていないし、風も弱いのだが心配ではある。備えあれば憂いなし。だからテルテル坊主。
雨雲をにらみながら、明日のためのテルテル坊主を作り続ける。
「…………たくさん作ったね」
少女は帰ってきた男が苦笑いするまで床を埋め尽くすテルテル坊主に気が付かなかった。
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