遊泳の終わり

遠原八海

遊泳の終わり

 彼女は余生をクジラとして過ごすことを選んだ。ひげをたっぷりとたくわえ、おおきな尾びれを持ち、なめらかな背中の曲線をゆるやかに折り曲げながら大洋を泳ぐクジラとして。

 彼女は海流に乗って旅をする。海面の近くで時折呼吸をし、弱いものたちを捕食する。時には深海にずり落ちる海流に身を任せて光の届かない海底まで潜航し、弱いものたちに食われゆく腐乱した同種の死骸を見る。彼女のヒトとしての人格はとうに希薄になり、その行動はクジラとしての習性に従っている。そうした彼女の姿は究極の安楽のかたちを体現しているようにも思われる。


 彼女が生まれ持った肉体はすでに滅びている。現在において厳密に彼女と呼称できるものは、生前の脳をスキャンすることで生成された彼女の自我、記憶、思考様式および行動規範を内包する個体情報子プロパティオブジェクトだけだ。

 構成されたクジラたる彼女が電子の海を泳ぐ一方で、現実の彼女は宇宙を遊泳する。増えすぎた人口問題を解決するため、政府は早期退星希望者を募った。希望者は脳のメモリマップのみを残して肉体を廃棄され、個体情報子プロパティオブジェクトとして電脳化される。この電脳化に伴い、彼らはいくつかの選択肢の中から第二の生を生きる舞台と分身アバターを選択できる。例えば、のどかな中世の農村。例えば、あらゆる物質が機械化された未来都市。例えば、極楽浄土をモチーフとした異方世界。例えば、すべての陸地が海に沈んだ統一海洋。

 さらに不測の事故や悪意の人災によるデータロストの恐怖から逃れるため、彼らは極小の計算資源と放射線由来の発電チップを搭載した親指ほどの宇宙船に乗り込み宇宙空間に旅立つ。こうして彼らは、スペースデブリとの衝突や星系の重力圏との不可逆な接触のないかぎり、電脳空間で半永久的に余生を送ることができる。


 彼女が手に入れた穏やかな余生はほとんど一つの色彩で成り立っている。

 それは一面の青。海水で満たされた青。高く手の届かない空の青。

 にわかに白い閃光。

 遅れて、下方からの衝撃。

 海中花火の爆発だった。それもかなり大規模な。誘爆に誘爆を重ね、億とも兆ともつかぬ数の微細な気泡が一斉に彼女に襲い掛かった。彼女の視界は慌ただしく点滅し、螺旋に連なる気泡が彼女の腹部に絶え間なく攻撃をくわえ続ける。彼女はそれを嫌がって巨躯をよじる。やっとのことで海中花火から抜け出たとき、彼女が見出したルートからは遠く離れてしまっていた。次のルートを再構築するため、落胆もせず彼女は周辺海域の調査に向かう。たとえ人格が希薄になろうとも、その目的意識は身体に染み付いている。


 彼女の旅は死に向かう旅だ。報酬は余生を満喫するための刺激となる。開発部は顧客の需要に応え、電脳空間内で特定の条件を達成することで個体情報子プロパティオブジェクトを含む記憶領域の初期化、すなわち自死が可能となる機能を設けた。彼女の場合は〈最果ての海〉と呼ばれる海域への到達が達成条件となる。その海域には決して偶然には辿り着くことはできず、複雑に絡み合った開放条件を大洋中に散らばったわずかなヒントから根気よく探し出す必要がある。それでも彼女が行動を続けるかぎりいつかは辿り着くだろう。さながら、あらゆるタスクが試行錯誤によって解決可能となるように。


 しかし、彼女が再構築したルートの先では、垂直に切り立った海面があらゆるものの侵入を拒んでいた。重力に逆らうことを試そうともせず、彼女は本来のルートを離れ再び別のルートを再構築することにしたようだった。だが残念なことに、ここから最も近いルートに続く海域には無数の暴力的な渦潮が発生していることを、彼女はまだ知らない。

 目の前を通り過ぎる瞬間に、彼女の巨大な瞳がわたしを見たような気がした。またいつもの錯覚だ。どうやらわたしも狂い始めている。


 ひとつの宇宙船、およびひとつの電脳空間に複数の個体情報子プロパティオブジェクトを内在させられることは、一般利用者には秘匿されているものの我々の開発部では周知の事実だった。

 同乗者に過ぎないわたしには、彼女自身に干渉することはできない。彼女を構成するプロパティオブジェクトには強力なプロテクトが施されている。(当然だ。彼女の命が攻撃によって危険に晒されてよいものか)

 だから、わたしが干渉ハックするのは舞台システムにすぎない。わたしは余生を現象として過ごすことを選んだ。それは彼女にとっての病であり、呪いであり、災害である。

 そうやって言い聞かせなければ、今にも愛と間違えそうになる。


 わたしの余生は二つの色彩で成り立っている。一面の青に閉じ込められた、ちっぽけな黒い生き物。

 わたしは細心の注意を払い、彼女が死なないように行く手を阻み続ける。彼女がヒントに近づいたなら、新たに海流を生み出し、渦潮を生み出し、海面と海底を生み出して彼女をそこから遠ざける。開発部では〈最果ての海〉への期待到達時間は五百年に設定されている。もうすでに何万年かが過ぎた。

 彼女の自我はすでに崩壊の兆しを見せている。それでもいい、とわたしは思う。彼女が死にさえしなければなんだっていい。このままわたしたちの旅が永遠に続いてもいい。もう二度と彼女が……わたしの最愛の娘が二度と黙っていなくなりさえしなければ、他には何もいらない。

 わたしの自死条件は設定されていない。

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