5.ただのアニス
アニスは体中が痺れて痛くて、酷く眠くてどうしようもなかった。ドゥオに支えられながら「馬車で熟睡するとこうなるんです」「不摂生が祟ったんですよ」と小言らしき台詞を言われた朧気な記憶がありはすれど。
ただ前後不覚のままどこかの邸に入ったのは間違いなく、実家と遜色ない柔らかさのベッドに運ばれたはずだった――そこはドゥオの実家だったはずが。
「な、な何故、君がここに……」
アニスさまお目覚め下さい。聞き覚えのある声に、彼はすんなりと目覚めた。次の瞬間、ベッド脇でよよと涙を拭う侍女の顔にギョッとした。その侍女は見たことがあるどころの顔ではなかった。もう決して会うことはないと思っていたひとり――。
「あぁぁ……アニスさま、またお仕えできて本当に嬉しゅうございます! 本当に、何度夢に見たことか! あぁぁぁあの美しかった女神さまの如き
「ちょ、待、ピケ……!」
(そうだったこうだった……!)
ベッドに乗り上げる勢いのピケに、アニスは既に負けが濃厚だ。ガッシィと腕を掴まれた。どうか夢であってほしいと内心で祈る。
「まぁ吹き出物まで! 一体ヘレンゲル家の侍女は何をしていたのでしょう! こんなに荒らすなんて許せない、わたくしが毎日どんな思いで美肌をキープしたか……! あぁそれにこんな乱雑な毛先では!(白目)……あと四人の増援が必要です、キャリ今すぐに!!」
「はい、今すぐぅー……!」どこかでキャリの声が遠ざかる。
(増援……!? 何をする気だ!)
ひぃぎゃぁぁ――!
扉の外に控えていた使用人たちは、あられもない客人の悲鳴にみな苦笑を漏らした。侍女が我先にと入室していく。四人でいいのに。
しかし誰もが
ラベリ侯爵領の西端に位置するラベリ侯爵夫人お気に入りの別邸は今、密かな興奮に包まれていた。
◇
増援は玄人集団――アニス
(髪だけならともかく、体……まで洗われるとは)
ぐったりとカウチに横になるアニスは既に散髪と
ここは何処だ! 何故、僕は風呂に! ぶくぶくと叫んだものの、「詳しいことは全てドゥオさまにお聞き下さい」と声を揃える女性達に、アニスは為す術もなかった。丸腰では勝ち目もない。
つい先ほどまでピケが甲斐甲斐しく、それはもう甲斐甲斐しくアニスに付きまとい世話を焼いていたが「お茶を」と唸ると風のように出て行った。(御髪が短くなって首から放たれる色気が常に放出されている状態なのよああぁぁぁ以下略)――そしてつむじ風の戻って来たらしいノックに、アニスはぞんざいに返事をした。
「おや、アニスさま髪を整えたんですか。まるで別人ですね!」
しかし入室したのは件の侍従。ドゥオが顔を見せたと知ると、彼の瞳は一瞬で怒りに染まった。眉間も露わな前髪は彼の表情をもはや隠しはしない。
「……話によってはお前を切り刻む。今すぐ詳しい説明をせよ!」
「説明も何もありませんよ。私がラベリ侯爵家に買収されてここに貴方を連れて来ただけのことです」
にこ、と真意の見えない笑顔。アニスは「買収だと?」と、目を細めた。腰に提げていたはずの剣はどこかへ持ち去られている。室内に刃物はない。
あの侍女達の様子なら危害を加えようとはしないだろうが、もはやこの男だけは信用ならない。油断なく立ち上がった。
「何が目的だ」
「私の目的はアニスさまをここに連れて来ることでほぼ果たされました。だまし討ちのようになってしまい、申し訳なくは思っています。でも私の実家だと寝る部屋もないので馬小屋に泊まるしかなかったんですが……本当にそっちが良かったですか? 冬の馬小屋で侯爵令息が藁敷きで寝られるかなぁ臭いですし」
「そういう話じゃない!」
全く緊張感のないドゥオに地団駄を踏みかける。そのとき、部屋のドアがまたしてもノックされた。あ、と裏切り者の侍従が「そうでした」と手を打った。洗練された仕草で礼をとる。
「先触れに参りました」
「……誰だ」
「貴方さまもよくご存じの女性です」
アニスの鼓動が逸った。
ピケの顔を見たときから、調度の趣味に見覚えがあると気づいてから――彼はこの邸が誰の持ち物であるか察してはいた。分からない訳がないだろう、と苛立ちすらした。そして胸を掠める仄かな期待に、何度己を切り刻みたくなったか。
返事を待たず、ドアが開いた。
内側に開いた隙間から落ち着いた色合いのデイドレスがのぞき、音もなくほっそりとした女性が入室した。厚ぼったい
ドゥオはその瞬間、アニスの琥珀色が翳るのを見た。
(やはり)
「ラベリ、侯爵夫人」
「半月ぶりねアニス。と言っても書簡では熱烈な遣り取りをしてましたから、それほどご無沙汰な気はしないけれど」
「ピケとの再会をありがとうございます。やはり彼女は優秀な侍女ですね、他の者たちも……そう、ラベリ家の使用人はみな献身的だ。もう決して会えないと思っていましたから、感謝申し上げます。ですが僕の侍従を懐柔し、誘拐を働くのは如何なものでしょう」
「あら」アニスの側に歩み寄ったラベリ侯爵夫人その人は、人好きのする笑みを浮かべた。
「カタリィと呼んで頂戴と言ったでしょう? お茶にしましょう、貴方にはスコーンも」
「カタリィさま、お茶は結構です。今すぐ説明を求めます」
「ラベリ領のお茶、お好きでしょう? 準備を」
うふふと無視するカタリィは視線だけで彼を促した。食い下がることを許さぬ姿勢。彼は慣習に則って彼女の椅子を引いた。
ドゥオが退室したらしいドアの音。
「どうぞ貴方も掛けて。アニス=ヴィンセント=ヘレンゲル……あぁいえ、もうただのアニスだったかしら」
カタリィの手の中で、薔薇の模様を施された茶器がかすかに音を立てた。アニスも眼力に押し負け、彼女の向かい側に腰を下ろした。しかし茶には手をつけられない。
(『ただのアニス』を侍従を買収してまで拐かす意図が分からない)
彼はカタリィが一筋縄ではいかない相手――もしかしたらラベリ侯爵その人よりも――。備蓄の配分も侯爵代行を務めたのは彼女だったことも理解を深めた一件だ。
『ただの』と揶揄され、彼は自分の身分を強く意識する。
ホセ国は伯爵以下から身分が剥奪されて久しく、侯爵王族の他は上も下もない。むしろ身分による差別を認めない風潮が強まっている。二十年前まで身分と呼ばれたものなどただの記号であり、前時代的だと批判する者も多い。
蚊帳の外の者はそれで構わない、自由に飛び回ればいい。権利を主張し、人生を謳歌すればよい。ただし内側に閉じ込められた
アニスは生まれた瞬間からヘレンゲル侯爵家の令息であり、絶対的な身分制度の中で育ってきた。
(僕はもう侯爵令息ではない)
改めて他人から突きつけられた刃は、彼の背をヒヤリと痺れさせた。そして目の前の女性に刃向かう気勢を削いだ。
「あぁ公務と言えど、舞踏会は疲れました。全く、どうして重いドレスを着ていかなきゃならないのかしらねぇ。もっと軽いデイドレスならいいのだけれど。貴方は不参加で楽だったでしょう? 良かったこと」
「……」
「それにしてもアニス。個人的にはちょっと胸板が薄すぎるけれど、男ぶりが上がったのじゃなくて? 長い髪のときは麗しいご令息って感じだったところが今は、軍属の一匹狼って感じですよ。もしその格好で舞踏会に登場していたら、大人気だったでしょうねぇ! その日の内に縁談が山のように来たでしょうね! 独身のジャノルド殿下も“最後の貴公子”の貴方も欠席でしたから、正直精彩に欠けた会だったもの。まぁわたくしも久しぶりで挨拶ばかりで踊るどころじゃなかったですけれど。ふぅん……やっぱりいいわねその短髪。侍女たちが半狂乱だったと聞いたけれど、わたくしは却って似合ってると思いますよ」
「……光栄です」
相変わらずの長台詞。そう思考を逸らしたアニスは伏せていた目をちらりと上げた。どこか冴えない顔色の彼女は隙のない笑み。
「あら、何か言いたげね。どうぞ仰って」
カタリィが取り澄ました。
掌で転がされているような不快さが滲んだが、彼は押し留めた。幾多の疑問が頭に浮かんでは消える。しかし結局、彼は浅い息を吐いてそのほとんどを胸の中から押し出した。
「何故、僕をここへ? もうご存じでしょう、僕が追われる身であることを」
「えぇ。舞踏会では持ちきりでしたよ、あの“冷然たる琥珀”が出奔したと」
「そうでしょう。国王に
「分かってますよ。舞踏会でもセルビオ候が激昂しておられて、貴方を見つかり次第手打ちにすると」
「父さんが……そんなことを」
「陛下が宥めてらっしゃったほどのお怒りだったわねぇ」カタリィはやけにのんびりと言った。まるで自分には何の関係もないような言い草。
アニスは父の怒りはそこまでか、と項垂れた。昨晩のやるせなさが体を駆け巡った。父に必要とされていなかった事実に打ちのめされる。
「セルビオさまがお怒りになるなんて、とみなが驚いてました」
彼は聞こえた言葉に、つと冷静になった。急速に頭が回り始める。再びカタリィに対する疑念が深まった。
(何故、ラベリ家が僕を?)
アニスは頭の天辺に、カタリィからの強い視線を感じた。観察されていると。
先ほどの『ただのアニスだったかしら』と愉快そうな視線を思い出せば、モニカと別れる直前の彼女と重なった。不意に思い出した泣き顔に顔を覆いそうになったが、堪える。
(やけに煽るのは、人を繰ろうとするときのやり口か……それなら誰の思惑が絡もうと、僕の目的は一つだ。誰の命令も、願いも今の僕にとってはもうどうでもいいこと)
腹に溜まる感情はそのままに、視界だけが少しく晴れた。
(今の僕は、そうしていいはずだ)
――カタリィは今、遠慮のない視線を以てアニスを観察していた。
アニスの髪はまるで少年のように短くなり、冬の弱い陽光にも一本一本が跳ねるようにしてきらめく。これまで長い前髪で目立たなかった眉は、銀色
毛並みの良さは際立って目立つが、何処から見ても男性。彼を知る者であっても『アニス』と断定することは難しいだろう。
好都合、彼女は心底愉しそうに微笑んだ。
「ねぇアニス。貴方」
「……カタリィさま」
アニスは話を遮った。本来、目上の者の話を遮るなど言語道断。カタリィは珍しい出来事にきょとんと声を止める。そしてすぐ、顔を上げた青年の瞳の強さに内心で息を飲んだ。
「僕はもはや貴方の知るアニスではありません。勿論、アニーでも。腹の探り合いをするつもりもない……用件があるなら、さっさと言って頂きたい」
「……」
「貴方に買収された侍従から聞き及んでいるかと思いますが、僕は一刻も早く
ちら、と彼は窓の外へ視線を遣った。二階だが、やってできないことはないだろう。
「貴方の目的が協力ならば話を聞きましょう。そうでないなら、ここで失礼させて頂く」
立ち上がる。
思わず、と言った風情の声が上がる。
「お待ちなさい」
「待ちません。なにせ追手が迫っています。それに僕は傲慢ですから」
流し目で捨て台詞を吐き、アニスは歩調を緩めず扉へと向かった。
(これで呼び止めるなら、あちらの負け。外に出られれば僕の勝ち)
精緻な装飾の施されたノブを掴む。ぐっと力を込めた――。
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