4.逃げるが勝ちだが宛はない
(頭が軽い……!)
大扉を開け放ち、誰もいない廊下を脇目も振らずに走る。赤絨毯を抜け、回廊へと差し掛かった。
ポカンと口を開けっ放しにする王族にも、長く共に生きてきた自分の髪に対してもアニスは何の未練もなかった。むしろ清々した心持ちに、視界すら晴れたように感じていた。
近衛の足音が追う気配にアニスは迷いなく回廊の柱の隙間から外へと飛び出した。頼りない冬の茂みに転がり降り、身を隠した。まさかヘレンゲル家の女の如きアニスが外へと身を躍らせたとは思わなかったらしい。近衛はあっけなく背を遠くした。
ホセ国の冬の昼は短い。安堵と共にそっと仰げば夕闇が迫っていた。彼の黒い軍服は夜闇に溶け込むのも時間の問題だ。
(お誂え向きだ。今日ばかりは正装に感謝しよう)
――舞踏会の始まりか、招待客の押し寄せるざわめきが寒風に乗ってアニスまで届いた。細く音楽が聞こえるからには、既に料理が運ばれ始めているはずだ。
(モニカは……)
アニスはぶるりと首を振り、その場から離れた。回廊の裏手はジャンとアニスのかつての庭。
王家の抜け道は全て把握していた。
王族しか知り得ぬ地下通路は王都の街中、そして門の外へと続く二本道だ。アニスは真っ直ぐ郊外へと進む。
(記憶よりすぐ、門を抜けられそうだ)
ジャンとここで遊んでいたのはもう十年も前のことだったが、銅箱に収めていた着火具は同じところに置かれていた。蝋燭に火を灯せば側に松明用の枝も置かれていて、逃亡は順調な滑り出し。
(問題は外に出てからだ。馬か馬車を用意できればいいが……足がつく可能性もある)
実家には帰れまい。父も恐らくそれを望まない。
胸が重く、息がますます上がった。運動不足の体が悲鳴を上げている。ラベリ家に滞在してから鍛錬らしい鍛錬をしておらず、輪をかけて寝不足。しかし足を止める訳にはいかなかった。
(見えてきた……!)
地上へと出る梯子だ。アニスは速さを緩め、呼吸を止めぬよう努めた。ひゅうと喉の奥が鳴った。これは本格的に運動をせねば、と決意しながら木梯子に手を掛けた。
――出口を張っている者はいないようだ。
草の覆う板戸から顔を出した彼は、周囲の様子を窺ってそう判断した。隙間から凍えるような空気が彼の頬を冷やす。外套なしでは寒すぎる夜だったが、今の彼には心地よい気温。
音を立てぬように外へ這い出た。夜目が利くまでは物陰に隠れて待つ。
「王都を離れるなら今夜のうちだ。舞踏会で王宮に人が集まっている間にできるだけ遠くへ」
しかし問題があった。アニスは着の身着のままで金銭の類を持ち合わせていなかった。
(『吠え散らかして』も一度家に戻るくらいの時間はあると思っていたからな。少し時間がかかってもヘレンゲル領まで行けば……いや、さすがに自領のことは父上に筒抜けか)
はぁ。息は白く丸く流れていった。今夜は雪のない、星の青く瞬く夜。
アニスは自嘲にもうひとつ白を吐き出した。髪のなくなった首から寒さが忍び込み、ゾクリと身が反る。ちり、とばらついた毛先が彼の冷えた頬を痛めた。
(とにかく王都から離れよう。どこかで馬を……)
歩き出そうとしたときだった。門の方から馬車がこちらへ向かってくる音が近づいて来た。
彼のいる場所は王宮の裏、北門の少し先。整えられた低木や茂みの中だ。この時間、北門から出てくるのは庶民ではありえない。しかし舞踏会はまだ宴もたけなわの頃合い、半端な時間に一体何者か、と身構えた。
(まさか追手か)
馬車はすぐに速度を緩め、丁度アニスの隠れる側で馬を止めた。息をしては見つかってしまう。彼は袖口を顔に当て、死角になるよう様子を窺う。
――中から人が飛び出してきた。男のようだ、どこかの使用人のような装いに見えた。何かを探すように地下通路の周辺をうろうろとし始める。
「ここだと思ったんだけどな……ちがうのか。それとももう……」
アニスは確かに聞き覚えのある声に思わず木の影から顔を出した。
ちか、と彼の銀がかすかに光を撥ね返した。ハッと男が振り向いた。その瞬間、アニスも相手を知る。
「アニス、さまですか……?」
「ドゥオか?」
「ああ良かった! 髪が短くて分かりませんでした! おっと……見咎められる前に馬車へ」
彼はごく身内の登場で、素直に胸を撫で下ろした。馬車へ促す侍従に礼を言い、素速く乗り込んだ。しかし明らかな不自然さに顔が強張る。
「一体誰の指示で来た? どこへ行く気だ!?」
既に馬車は出発していた。
「まさかお前……」
「いえ、勿論アニスさまを助けに来たんです! 謁見のあと大人しく舞踏会に行ったと思ったら、控え室で出奔したと聞かされるんですから! 近衛に詰め寄られたときには寿命が縮みましたよ!」
「では何故ここが?」
三十を少し過ぎた年のドゥオは、まるで少年のようにニヤッと口元を持ち上げた。
「私が殿下とアニスさまのかくれんぼに負けたことがありますか? 謁見室を出たあと姿を消したと聞いて……すぐに分かりましたよ」
アニスは驚きで目を丸くなる。同時、毎日側に仕えていたはずのドゥオの顔が酷く懐かしく感じ、ドッと体の力が解けた。
「済まない、助かったドゥオ」
「いいえ……私はアニスさまの侍従ですから」
窓にカーテンを引いた車内は暗かったが、アニスはドゥオが照れ隠ししたと分かった。
「それで、アニスさまはどこへお逃げになるおつもりですか?」
逃げる? 彼は眉を跳ね上げた。腹の底から憤慨がふつふつと音を上げた。
「
ドゥオはアニスの瞳がぎらりと光ったのを見た。
「そしてどんな手を使っても、あいつを連れて帰る!」
――車輪が石を踏んだか馬車が大きく揺れた。カーテンがずれて、一瞬だけ星明かりが窓から差した。ざんばらな髪がきらきらと輝いて見えた。
◇
「金がない」と眉を下げたアニスに、ドゥオは「そんなのは想定内です」と懐から充分な金を取り出した。更に近くの宿場街では食べ物や暖をとる毛布をごく僅かの間で調達してみせ、彼を更に驚かせた。
ドゥオはアニスが成人してからずっと、側近侍従として彼に仕えている。侍従見習いとして邸に出入りしてから二十年は経つ。ラベリ家に滞在の折にも書類を勝手に運び入れ、ロティアナへの言伝役をしたのも彼ではあったが。
(手際が良すぎる、罠では?)
そう初めこそ疑いが湧いたものの、アニスに戻れと説得するでもない。むしろ甲斐甲斐し過ぎるほど世話を焼かれ、緊張を解いた。
「……この肉はなんだ? 美味い」
「もしかして串焼き肉食べるの初めてですか? ここの宿場の味付けは評判なんですよ。ヘレンゲル領に行くには通りませんから……というよりも、串焼きなんて所望されませんからね」
「む、このパイは」
「中に野菜が入ってて美味いですよね。手掴みで食べられるので、馬で移動する人にも人気ですよ」
腹が膨れて毛布にくるまるとすぐに眠気がきた。アニスは抗えず固い座面に横になった。
「お疲れでしょう。ずっと引きこもってたところをこんなことになって」
「僕が、引きこもって……?」
「えぇそりゃ立派なもんでしたよ! さぁ、お休み下さい。明け方までには逗留先に着きますから」
「……分かった。何から何まで済まない」
ドゥオと合流した直後。アニスはすぐにでも国境を越えてマラバに向かうと主張したが、ドゥオは反論した。侍従が主人にはっきりと意見するのは珍しく、アニスは思わず眉根を寄せた。
「何故だ。追手が来る前に逃れてしまえばいいだろう。追いつかれては元も子もない」
「えぇ。ですが何事も準備が必要です。本来ならこういうものは国外から手引きする者や亡命先を手はずしておくものなんです。今日出ることにしたから出たいと言って通る訳ではありません。ましてマラバとは交戦寸前です、亡命目的だとしてもアニスさまが越境したとバレればあっちの王族も黙ってませんよ」
侍従から言い負かされるとは、と思いはすれど、正論だった。
(確かに。婚約の話もある……下手を打ってはジャンを探すどころではなくなるか)
アニスは納得し、顔の見えぬ侍従に向けて肯いた。
「分かった、お前の言う通りだ。では、その準備とはどこでする? ヘレンゲル領ではすぐに……いや待て、この馬車はどこに向かっているんだ?」
「……私の故郷です。マラバ国境からは一日の距離ですから、都合がいいでしょう。逗留先もすぐに用意できますし、伝手もありますからご安心を。まずは腰を落ち着けて計画を立てるべきです」
「尤もだ。しかし、お前の家はそれで大丈夫なのか……何日も逗留することになるが」
大丈夫です、とドゥオは胸を叩いた。
「ただ、名前だけは偽っていただくと思います。考えておいて下さいね」
「それは勿論だ」
――車輪のけたたましい音の中、アニスは幼子のように寝入っていた。ドゥオはカーテンを半分だけ開け、車内に夜明かりを招き入れた。毛布から出たアニスの頬が白く浮き上がった、短く乱れた銀髪も。
「……残念がるだろうなぁ。いや違うな、絶対怒る。まぁ予定よりは半月も早く事が動いたんだ、喜ばしいか」
呟き声はやはりかき消され、カーテンはやがて閉じられた。
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