3.何を捨てるか

 王宮は広大だ。

 正規の門を馬車でくぐり三つの関門を抜ける。徒歩で石畳と磨かれた床の廊を複雑に奥へと進み、回廊を渡って赤絨毯の敷かれた謁見室まで辿り着くのに半刻。

 アニスは底の厚い革長靴ブーツと軍服の暖かさに感謝しつつ、案内役の後ろを着いて歩いていた。カチャリ、と提げた装飾が歩みの度に鳴る。もうすぐ、赤絨毯が見えるはずだった。


 途中の回廊は白い稀少な石造りで、よく言えば開放的だが酷く寒い。床は地面から人の背丈ほど高さに造られており、春夏は目に鮮やかな花々をごく近くで見下ろすことができる。

 午前は晴れていたはずだが、昼を過ぎた頃にはどんよりとした曇り空に変わっていた。本格的な雪が降り出してもおかしくない気温。アニスは緊張か寒さかでかすかに震えた。

 この辺りは官吏も出入りできる区画で、幼い頃はジャンと駆け回って遊んだ場所だった。侍従を撒いて二人になっては叱られ、それでも飽きずに毎日。

 

 ――ジャンを想う。喪失感が風と共に抜けて胸を寒くした。


(王太子とか侯爵令息などと、関係のなかった頃に戻りたい)


 不意に昨晩の父の言葉が現実を思い出させた。彼は薄く笑う。


(廃嫡になれば令息ではなくなるか……)


 ひゅう、と回廊の最後、彼のマントが翻った。深い紺色が目蓋を掠める。あの夜の記憶がまた彼の胸を乱す。


(聖誕祭にジャンは戻って来るつもりだった。彼女はジャンのことを知らされているのか、それとも知らずに舞踏会に?)


 アニスは首を振った。

 僕にはもう、何の関係もない。想うのは勝手だが、考えてはいけない。

 例え今日ジャンが奇跡的に帰ってきて――幸せになろうとも、そうでなくとも。

『聖誕祭には戻れない、すまん』殴り書かれた筆跡が思い出される。


 足が分厚い絨毯を踏んだ。

 角を曲がった途端に大扉が見えた。睨みつける。


(僕ができることは)


 アニスは腰に提げた儀式用の剣をそっと撫でた。





 数人の衣擦れがアニスのつむじの先で静止した。彼は跪き顔を下げたまま、王の入室を待っていた。見つめる足元に夕方の赤い光が差していた。


「面を上げよ、アニス=ヴィンセント=ヘレンゲル」


 顔を上げると、真正面の一段高い場所に据えられた椅子に王はいた。赤味の強い金髪――ジャンと同じ色の髪、そして海のような青い瞳。豪奢な刺繍の重くて歩きづらそうな軍服とマントに身を包んだホセ国王は凪いだ色で静かに彼を見下ろしていた。

 その右側には父セルビオ、そしてその反対側には継承権第一位の王太子、カーランド=ホセが並び立っている。たった十歩ほどの距離。


 謁見室は国の伝統と贅を集めたような場所で、謁見客三十人ほどが入りきる広さだ。近衛の姿はないようだった。


「立ちなさい」


 アニスは令に従った。返事の代わりに最高礼を返す。

 王はそれに目尻を下げ、肯いた。老いたな、と彼は感慨なく見返した。


「ごく私的な謁見だ、肩の力を抜くといい」


(私的? 確かに近衛も他の官吏もいない)


 アニスは短く返事をし、夜会用のおざななりな笑みを浮かべた。“冷然たる琥珀デレない瞳”の二つ名を体現する如き態度だったが、王は満足したらしい。


「まずは王命を見事果たしたこと、礼を言うぞ。そなたにしかできぬ働きでラベリ侯爵家の懸案が一つ解消されたのだ、これは王としても喜ばしいことだ」

「もったいないお言葉を頂戴致しまして、恐れ多いことでございます」

「そしてヘレンゲル家に戻ってからは侯爵二家と協力し、率先して全領地に備蓄を配分したと宰相より聞いている。ラベリ家はもとより、クレナ侯爵家からも感謝状が届いたそうだな」

「はい」

「セルビオの所はいつまでも三姉妹のような気がしていたが、いつの間にか立派な青年になっていたとは。うちの息子達にも見倣わせたい功績だ」


(どういうつもりだ……? やけに持ち上げる)


 ふむ、と王は人好きする笑みを浮かべた。ちらりとカーランドと視線を交し、肯き合う。その途端、悪い予感に彼の背筋は伸びた。

 カーランドはアニスの一番目の姉、アナベルの夫。


(まさか、また姉さんの策略お遊びに……いや、まさかそこまで王もカーランドさまもそこまででは……)


「アニス=ヴィンセント=ヘレンゲル」正式な呼名にギクリと肩が揺れる。見返した青い瞳の色は深く、底が知れない。


「そなたももう二十五と聞いた。手段を選ばず侯爵家を繋ぎ、国の一大事を救わんとする気概には王家の者、皆が感謝し期待しておる。そして才能ある若者は力のある相手と縁づくべきだと思っておる」

「……陛下」

「既にそなたとマラバの姫の婚姻を進めておる」


 婚姻とは、と返そうとした。しかしカーランドが一歩前に出て言葉を継いだために叶わない。


「アナベルたちと『お姫さまごっこ』していた小さなアニーが結婚だなんて、おれも嬉しく思う。マラバの姫も乗り気とのことだ、美しい姫と聞いているから心配することはない」

「ヘレンゲル侯爵家の今度のことも王家に任せておけ。充分そなたの父とも協議した結果だ。なぁ、セルビオ」

「素晴らしい縁談に感謝申し上げます、陛下」

「よいよい。アナベルも喜んでたぞ」


 一体、何の茶番なんだ……!

 アニスは半歩後退あとずさった。しゃらと胸の装飾が、カチャと腰の剣が鳴った。


「アニス、陛下に何か言うことはないのか」


 セルビオが諭すように発言を促した。「よいよい。突然で驚く気持ちもあろう」満面の笑みで王が取り成す。


「それより何か相手の姫のことなど聞いておきたいことはないか? 必要なら手紙でも届けさせるぞ、なぁカーランド」

「ご名案です陛下」


 アニスは大人達の遣り取りを黙って眺め、ようやく口を開いた。


「陛下……マラバとは交戦の兆しがあると聞いております」

「うむ、知っておったか。そうだ、しかし問題ない。そなたとの婚姻がその証拠」

「つまり僕は人質ということですか」


 にこり、と王は微笑んだ。


「いいや、政略とはいえこれは正式で平等な婚姻となろう。ホセ国きいての“最後の貴公子”と名高いヘレンゲル侯爵令息の他に、誰を推す。しかも領地経営にも明るいとなればこれからの国交にもよき風を吹かせると太鼓判を押せる。……人質などと憶測が過ぎるぞ。第二王女ミーニャの夫としてホセとの架け橋となるのは間違いないだろうが」

「そうだアニー。あの気難しいラベリ侯爵を手玉……いや、認めた手腕を王家も期待しているまでのこと。喜んで受けてくれるな?」

「陛下……カーランドさま」


 アニスはカーランドを見、王を見、最後に父を見た。セルビオも彼を見ていた、ただ静かな眼差しで。


(なるほど、これは本当に『廃嫡』同然だ)


 今になって昨晩の呼び出しの意味を知る。心積りの時間を与えたつもりか。


「今は少々キナ臭いがそなたとの婚姻が進めば、和睦はすぐに成る。祖国が平和なのはそなたも嬉しいであろう?」

「ミーニャ姫とならいい夫婦になるだろうな」

「……もちろんですカーランドさま、陛下。ですが一つよろしいでしょうか」

「うむ? 聞こう」


 アニスは優美な仕草で跪いた。王の問いには答えず、一切の無駄のない所作でこうべを垂れた。年頃のご令嬢がいれば、熱いため息のひとつも聞こえただろう。


「ジャノルド殿下のことでございます」

「……ジャノルドか」

「ご無事であらせられるのか、そればかりが気がかりでございます。どんな小さなとこだけでも……一条ばかりの光でも構いませんから、僕に与えて頂けませんか」


 ジャンの話題に、さっきまで煩いほどだったカーランド相づちもやんだ。頭を下げたアニスにも重苦しい空気が降る。


「ジャノルドの行方はまだ知れぬ」

「身分の隔たりはあれど、私は殿下を友と思っておりました。それは陛下もご存じのはず。殿下が理由もなく姿を消すなど信じられず……どうか」


 真摯な声は、部屋に悲痛に響き沈んだ。さすがの王も目を伏せる。

 しばしの沈黙を破ったのはカーランドだった。


「アニー、お前が心配することはない。あのバカ弟、和睦を果たすという使命を投げ捨てるばかりかマラバに許可もなく入国したらしい!」


 アニスは勢いよく顔を上げた。

 入国? マラバ兵に捕縛されたのではなく?


「市民に目撃した者がいた。軍装を解き、着崩した格好をしていたと。ジャノルドの風貌はマラバでは目立つだろうから、覚えている者もいよう。しかし……」

「しかし?」

「それからの足取りが掴めぬのだ。マラバの先も隈なく探させてはいるが」


 カーランドの言葉をセルビオが引き取った。


「もし殿下がこのまま見つからなければ、二月ふたつき後、殿下の葬儀を執り行う予定になっている」

「葬儀……!?」


 セルビオ、と諫める声が王から掛かった。「口が滑りました」とその場で白々しく頭を下げる様子を見遣り、アニスは悪態を吐きかけたのをすんでのところで飲みこんだ。自然と、声は押し殺したようになる。


「死体の確認もなしに、葬儀などと。それは余りにも」

「アニス、そなたがマラバに行く前には国政について学ばせなくてはならぬようだな」

「……」

「ジャノルドは王の器ではなかったが、よく軍を率い、国を盛り立てた王太子だった。三番目で甘えが過ぎることもあったが、明るく愉快な息子だった。……しかし、あのような愚でも他国に渡れば国の為にならぬ火種となろう。ようやく取りつけた和睦を台無しにしたのだ。ジャノルドも王族の末席ならば自分の罪を分かっておろうよ」

「そんな! ジャンが死んだことになれば……モニカは」


 知らず彼女の名が口を突いて出た。謁見の場で呼ぶ名ではなかった。

 顔色が変わったアニスを前に、しかし王は気にした様子もなく笑んだ。


「うむ、モニカ=ラベリ嬢か。侯爵からは姉妹のように懇意にしたと聞いていた。そなたの心配もひとしおだろう。ジャノルドが戻らなければ、然るべき相手との婚姻を世話しようと思っておる。王家の権威を以て幸せにすると誓おう、我が国の優秀な官吏とでも他国の男と縁づけてもいい」


(ジャンではない……他の?)


「そなたの尽力で随分元気になったそうではないか。まぁ、ラベリ嬢が結婚するのはそなたよりも遅くはなるだろうがな。作法は申し分ないとのことだから、取り立てたい官吏の妻に据えて王宮に」

「もう結構です、王よ」


 アニスは言葉を遮った。もう結構だ。

 立ち上がり、腰に佩いた剣を抜いた。ざらりと柄と刃が擦れた音の刹那、切っ先は王へと向いた。


(どうにかなりそうだ)

 

 侯爵令息のアニスにも僅かには理解できた、施政者としての判断が。いいや、以前ならば国の決定には涙を飲んで従っただろう。例え行方不明の親友の葬儀であっても、想い人の結婚であっても。己の意に沿わぬ婚姻であっても――それが王命であれば当然と身を捧げただろう。

 ラベリ家に赴く前であったなら。


(ジャンは死地に赴く覚悟だった。国の為に、それが父王の為と分かっていたからだ。モニカも妃教育に苦しみながらも、ジャンとの結婚を受け入れていた……それをこの仕打ち)


 青い月影に照らされた、黄銅色の巻き毛が浮かんだ。胸を張って結婚を『楽しみ』だと話すモニカの横顔が。


(いいだろう、父さん。お望み通り、尊大で浅慮な反抗期をお目にかけようじゃないか)


 アニスはわざと目を眇め、王を強く睨みつけた。

 カーランドが慌てて腰の得物を抜く。しかしそれは明らかな儀礼用で刃は潰れている。


「アニーお前、国王に反逆するか! 刃を下ろせ!」


 カーランドが吠えた。第一王太子は知に長けた人物と知れていたが、どうやら武の心得もあるようだ、とアニスは冷酷に笑んだ。持ち方がそれなりに様になっている。


(とは言え、やっぱり吠え散らかすのは趣味ではないな)


「いいえ、そんなバカなことはしませんよ。カーランドさま」

「近衛はどこだ!? セルビオ、やめさせよ! お前の息子だろう」


 ホセ国王が喚いた。唾を飛ばし血圧が上がったような顔をしていたが、腰は完全に退けていた。もはや王の威厳もへったくれもない。


「陛下、そこにいるのはもう僕の父ではありません」


 言い放つ、微笑みすら優美。

 カーランドは言が一致しない顔貌に持ち慣れぬ剣を強く握った。まるで自分の妻と同じ笑い方にぞっと背筋が反ったのだ。


「な何を言っている、お前はアニスだろう!? アナベルの弟だろう、こんなことはやめるんだアニー」

「その呼び名は金輪際、聞きたくありません。……もうアニーはいない。そう、ヘレンゲル家のアニスも今いなくなるのです」


 アニスは切っ先を自分の喉元に向けた。刃越しに王達の青ざめた顔が見えた。鈍く光る刀身は少し触れただけでも切れるよう、丹念に研いである。


(茶番は終わりだ。こんな……生きていても仕方ない)


 まさかやめよアニー! カーランドが叫んだ。アニスは手に力を込める。


 ザァッ――!

 アニスの振るった剣は彼の項を横切った。

 ――銀が散った。


「やめ……!」王か、王太子かが声を引き攣らせた。噴き出す血と穢れを避けようと身構え、数瞬、目を背けた。

 静寂――。


「……アニス、それがお前の答えか。これまで生まれ育ったヘレンゲル家に……ホセ国にあだ為すつもりか」


 セルビオの声に恐る恐る顔を上げた王たちは、アニスが何かを絨毯に放るのを見た。それは見事な銀の尾。編まれた髪は、力なく横たわっていた。

 ――彼は襟足に刃を立て、髪を一気に切り落としたのだ。


「これでヘレンゲル侯爵家の嫡子、アニス=ヴィンセント=ヘレンゲルは死にました。さぁ、あとは如何ようにでもお望み通りに!」


 ざんばらな髪が彼の放つ言葉の度、軽やかに揺れた。

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