2.反抗期はお気に召すまま

「ロティアナを追い返したそうだな、アニス」

「……お説教ならお断りです、父さん。書類で埋もれてるんです話は端的に願います」


 夜の更ける深夜、向かい合った親子はお互いに疲れの濃い表情をしていた。アニスは眉根を寄せるものの、まるで幽霊のような儚さ。

 さすがの反抗期も当代当主の呼び出しは断れなかった。しかし心底面倒だったので、おざなりに調えた衣装での対面だ。髪は雑に一つに束ね、三日は変えていない服――以前のようなたっぷりのフリルや明るい色のものではなく、当たり障りのない地味な出で立ち。おおよそ侯爵に面会する格好ではなかった。


 しかしセルビオはそれにも、ただ可笑しげにただ口の端を上げただけだった。


「私もお前の母親に小言を言われたものだが……どうやら息子も大概のようだ。仕事はほどほどにせよ」

「月に三度帰って来ればマシな宰相閣下に言われたくはありませんが」


 ほう、とセルビオは感心したように息を吐いた。深く刻まれた眉間の皺が珍しくも伸びる。機嫌がいい、とアニスは胡乱な目で見返した。


「お前が私にも憎まれ口も叩けるようになったとは」

「何か問題でも? 真実でしょう」

「いいや。その調子で明日の謁見でも子犬のように吠え散らかしてみよ」


 謁見? アニスは眉をひそめた。そして次の瞬間、凶悪に顔を歪めてセルビオを睨みつけた。


「ラベリ侯爵家の件で褒賞を賜れるそうだ」

「は? 今更褒賞?」


 琥珀色が夜影に翳る。


「そんなもの願い下げだ。お望み通り吠え散らかすのはやぶさかではありませんが、ヘレンゲル家の爵位は地に堕ちるでしょう。父さん、どうせ朝には王宮に戻るんですよね? 宰相殿のお力でお断りして下さいよ」


 ――依然として、ここホセ国と隣の西国マラバとの緊張状態は続いていた。春を待たずに両国が刃を交える可能性もある、と内々に報じられている状況だ。


「王命だ、私がいくら宰相でも拒否権などない」

「なら、バカげた舞踏会など今すぐに止めるべきだと王に食ってかかってもいいんですね?」


 二週間前。通常の知らせよりも遅く、王宮から届けられた招待状には間違いなく“舞踏会を盛大に執り行う”と記されていた。アニスはその高価な箔の押された王家からの招待状をすぐに破り捨てなかったことを今でも後悔していた。血相を変えた侍従たちが彼の怒りを察し、何処かへ持って行ってしまったので叶わなかった。


「第三王太子が行方不明のままで、お祭り騒ぎ。そうだ、王家は気が狂ってると騒ぎ立てましょうか! ハハハ、その場で手打ちになるでしょう!」


 以前の彼なら絶対に口にしなかったろうヒステリックな皮肉――自棄な口調にセルビオは僅かに眉を動かした。

 対して、アニスは苛立ちのままフンと鼻を鳴らす。鉄仮面の宰相の眉を動かせたことが少しばかり愉快に思えたのだ。酒に溺れて気が大きくなった者のような心持ちでいた彼は、しかしぎくりと動きを止めた。

 父は笑っていた。口の端を上げて。


 不自然な沈黙が二人の間に降りた。

 アニスは父のおかしな態度に少しく冷静になり、頭が回り始める。


(待て、褒賞など送り届けさせれば済むことだ。何故わざわざ謁見など)


 更けた夜の闇が僅かな燭台の炎を責めるようにして、冷えをも忍ばせ這い回る。

 黙り込んだアニスに、セルビオはゆっくりと目を細めた。

 

「……正義の諫言は勇ましいが、よく考えてから物を言え」

「僕はそのつもりですが」

「よく吠える犬は怖がりという」

「賢い犬も怒れば牙を剥くでしょう」


 セルビオは声を上げて笑った。くくく、と可笑しそうに喉を鳴らして彼を再び見据えた。「もっと早く送り込むべきだったかもしれぬ」


「なんですって?」

「……お前が謁見でどんな振る舞いをしようとヘレンゲル家に何の影響もないと断言しよう。例え、お前の言うように手打ちになるか廃嫡となっても問題はない」

「……は?」

「それに言っておくが、私は舞踏会開催に真っ先に賛成した。浅慮をひけらかす大言壮語も休み休み言うように」


 サッとアニスは蒼白になった。叱責のせいではない、聞き逃せぬ言葉のせいだ。


(廃嫡だって……!?)

  

 彼は遂に黙った。混乱で全く頭が回らない。血が引いたまま戻らず、指先が冷たくて肩が震えそうになるのを我慢した。目の前は井戸の底を見たように昏く霞んでいた。下手な冗談が突いて出る。


「父さん、まさか再婚の予定でも?」

「そんなものはない」

「では、僕はヘレンゲル家の唯一の嫡男でしょう。何故突然、廃嫡にするなどと! 冗談でもやめて頂きたい!」


「構わないからだ」宰相の顔でセルビオは息子を見据えた。肯定は矢のように彼を貫き、見えぬ血を流させた。はくっと呼吸が途切れた。


「明日、謁見は舞踏会の一刻前。……お前が国王の前で吠え散らかしたいならば好きにすればいい。私は止めぬ」


 父の瞳には理性の光しかない。

 呆然とするアニスにじわりと一つの疑問が浮かぶ。


(何故だ。まるで焚きつけるみたいだ)


 しかし口から出たのは当たり障りのない問い。


「謁見の、目的は……?」

「謁見に目的も何もない、あるのは王の意志のみ。……アニス=ヴィンセント=ヘレンゲル。お前は明日、王命によりヘレンゲル家の嫡子として王との謁見に臨むのだ、否やはない。これで話は終わりだ」


 もはや有無を言わせぬ声色。机上の呼び鈴がけたたましく鳴った。

 ノックと共に家令が入室し、佇んだままのアニスを気遣わしげに見た。取り繕う余裕もなく、彼は覚束ない足取りで背を向けた。

 何もかも分からなかった。ただ爪を立てられたように心臓が軋むように痛んで、却って掻き毟りたい衝動に駆られる。駆け出したい。


(僕は……廃嫡になっても問題ない?)


 重い敗北感が胸にのしかかる。必死に縋っていた全てを奪われた気分で、彼は執務室へと戻った。



 ◇◇◇



「まあぁぁぁ! アニス、何てこと! そんな地味な格好で何処に行くつもりなの!?」

「煩い。……黙って下さい」

「黙りません。えぇ、いくら遅く来た反抗期だからって黙れるものですか! 謁見だというのに!? こんな似合いもしない上衣シャツなんて!」

「どうせ上着で見えないんですからどうでもいいでしょう」


 どうでもいい訳がないでしょう! そう奮然やるかたない姉を一瞥し、アニスは侍女に髪を任せた。煩わしくないように、と。そして目を瞑って物思いに沈んだ。

 

(もう……どうでもいいんだよ、姉さん)


 アニスは、昨晩の会話を何度反芻したかもう分からなかった。そして考えることを諦めた。

 あの敏腕なホセ国宰相があれだけ辛辣に言うからには何か理由があるのだろうと考えは着地した。しかし、


(僕なりに頑張っていたつもりだった。評価を求めていた訳じゃなかったが)


 動機が不純だったからか。恋患いで生活を乱すような僕は侯爵家に必要ないと言うことか。それとも初めからそのつもりだったのか?


 ――やるせない。

 一夜明けてアニスを襲ったのは絶望ではなく、諦観だった。濁流の中、縋りついていた細い枝さえ奪われては何もかもどうでもよくなると知った。


(……彼女も同じような気持ちだったのだろうか)


 考えないようにと努めていた心も一緒に、何処かへ行ったようだった。


『嫌いなんでしょう、要らないんでしょう!』


 闇に溶けた泣き声が甦る。すぐに抱きしめて落とした、触れるような頬への口づけを思い出す。あのくすぐったい巻き毛に頬を寄せることもできないと。

 最後に交した身勝手な口づけでさえ遠い――。

 アニスが苦しい思案に暮れる間に、侍女は髪を結い終わったようだった。目を閉じたまま大人しくなった彼の頬の保湿を始めた。他の侍女も爪の先を丹念に調えていた。


 彼はされるがまま、思うがままにモニカのことを想うことにした。それだけが自分に許されるたった一つの自由のような気がしてきたからだった。


 貝殻のような小さな耳を。

 毎夜、愛を落とした丸い額を。

 鈴の音を鳴らしたような声を。

 悪戯に光る瞳を。


(今朝は……夢を見なかった)


 昨晩のこと、執務室に戻ると机の上は空っぽで書類は全て父の部屋へと運ばれていた。そうして彼は私室に戻るしかなくなり、八日ぶりにベッドに横たわった。深く寝入ったが、モニカは夢に現れなかった。目覚めたときの空虚は白々しい陽光に晒されて、彼は体を起こすことも億劫だった。

 会いたかった。

 だからだろうか、白昼夢のような鮮明さを以てモニカはアニスに喚く、微笑む、語りかける。 


 不意に、昨夜の粉雪が嘘のように晴れた外の景色から柔らかい陽光が差した。目蓋の裏が明るくなった気配に、彼はそっと目を開けた。その瞬間、窓際のカウチの細工が、黄銅色が眩く輝きアニスの目を灼いた。

 アニスはその光を閉じ込めた。金は瞳の中で闇に馴染んで色を鈍くした。最後に見た、真っ赤に溶け出しそうなヘーゼル色へと。


(モニカ。泣いていないだろうか)

 

 そう思った刹那、彼はやはり自嘲に口元を歪めた。


(僕の傲慢は果てしない)


 今更なのだ何もかも。

 現実的な自分がどこからか戻り、哀しみを八つ裂きにした。

 ぐ、と息を詰めて沸き上がる感情を腹に収める。そうでなければ、この瞬間にでも叫びだしてしまいそうだった。

 そして衝動に違わず立ち上がった彼は「もういい」と窓際へと逃げた。そう、逃げたのだ。久しぶりの香油はべたついて不快だと理由をつけて。


(……謁見だと? 受けて立とう、お望み通り吠え散らかしてやる)


 焦点の合わない琥珀色の瞳は、空っぽの庭の景色を映して揺れた。 



 情緒の乱れるアニスを余所に、彼の支度は完璧に完了していた。優秀なヘレンゲル家の侍女達は「これで妥協しましょう!」と、喚いたロティアナに従って、少しの合間ぼんやりしていたアニスの髪結いと肌の調整を迅速に済ませた。

 そしてやつれて顎が尖った、窓際に立つどこか退廃的な美貌に皆が息を漏らす出来上がりとなっている。 

 ――ホセ国の謁見正装は軍服。元は軍事大国だったことの名残で今では王宮内の謁見のみで許される正装だ。


 細く固い三つ編みにされた銀髪は、上質な濡れ羽色の軍服を濃く見せた。

 詰め襟には銀と黒の刺繍、身頃の袷は黒ボタンと一見地味。しかし胸を横断する金細工がいくつも揺れ、彼の髪に負けじと光る。

 肩口に留められた漆黒のマントは、青みを帯びた裏地にヘレンゲル家の紋章が浮き上がり、革長靴ブーツ革帯ベルトの留め具に至るまで全て揃えられた意匠は、彼の細身に合わせたか繊細ながら主張がある。


 見る者が見れば彼の身分と着用先が知れる代物。いやどこの国の使者でも、その立ち姿を王族と見間違うかもしれない。

 ちなみに上着で見えない上衣シャツもそれなりのこだわりで、痩せた首回りに合わせた襟高、細い青のタイで留められていた。


 出来上がったかと様子を見に来たロティアナは、窓際に立つアニスに目を丸くした。弟と分かっていても頬さえ染めた。


「な、なんだかアニー、貴方まるで男の」

「その呼び名は嫌です」


 すぐあと、鏡で全身を確認したアニスは『まるで男の格好』に目を細めた。これならば誰が見ても男に見えるだろう、と。

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