Ⅲ.好きな令嬢と結婚する方法
1.決して絡まぬと知りながら
聖誕祭を明日に控えた前夜。清らかな少女がそっと口づけを落とすような、初雪の降る夜。アニスは寄せる波のような眠気に逆らえず、ペンを取り落とした。
「アニスさま、お休みになっては……明日は」
「構うものか」
「しかし……」
側近の侍従――ドゥオが労しげに声を掛けた。もう何度目かは分からぬほど。
食い下がる彼に、ようやく「もう少しだ」と返事をしたアニスはやはりしばらく立ち上がろうとはしなかった。
何かに取り憑かれたようにして書類に齧りつく主人を見守るままのドゥオは、痛ましげな瞳を隠しもせず嘆息を吐いた。しかしアニスはそれに気づかない。
自分の髪の一房をくるりと指に巻き付ける。
「本当に、すっかりお変わりになられて」
その声も彼の耳には届かなかった。銀の睫毛は紙を佩くように時折震えるだけで、夜が更けるまでしばらく持ち上がることはなかった。
◇◇◇
ヘレンゲル侯爵家へと帰ってきてから半月、アニスは昼も夜もない書類仕事に明け暮れていた。風呂どころか食事も怠っている始末には、家令も侍女頭も頭を抱えている。私室に戻ろうとせず、頑なに執務室で過ごす日々。
「アニスさま。もう七日もベッドでお休みになられてませんよ!」
「構わない。深く寝てしまっては、仕事に差し支える」
「ではせめてお食事を」
「眠くなるから却下する。明日までの稟議はこれだけか全部持って来てくれ」
常に麗しかった銀の長髪は艶を失い、目の下には隈を拵えて顔は青白い。元々細身の体はさらに一回り細くなったようにも見える。
健康的ではない生活に比例するが如くに、アニスの目つきは日に日に鋭く厳しくなっていく。事情を知る侍従はそっと息を吐くことしかできないが、「まるで女性のように優美だったお姿が」「お可哀想に」「ラベリ家では何が」と使用人達は口さがなく妄想を逞しくする。
アニスの変わりようには、二番目の姉のロティアナも卒倒しかけた。
「あ……貴方、アニーなの? わたくしの可愛い弟……アニス=ヴィンセント=ヘレンゲル……!?」
「……姉さん何を言ってるんですか。僕はアニスに決まってます。仕事に差し障りがあるので、用件は短めにお願いします」
「貴方まさか……モニ」
「無駄話なら、お帰り下さい。ドゥオ、すぐに姉さんを玄関まで送るように」
その撥ね除けるような態度に、側に控えていた侍従もロティアナも言葉を失った。彼が姉に反抗したことなどなかったからだ。挨拶の前に追い返す無礼など以ての外。
ロティアナは余りのショックに呆然としたまま侍従に促され、部屋から退室した。
(備蓄不足は解消したが、問題は山積みだ。とにかく仕事をせねば)
ひとり残ったアニスは、苦々しい表情も露わにグラスの水を飲み干した。温い不快な温度が喉を濡らし、彼は低く唸った。その俯いた拍子、髪は絡んでほつれて重苦しく彼の顔を覆い隠す。
あれほど好んでいた茶も、もう半月、一滴も飲んでいない。
昼の明るい内はまだ人の目もある。アニスは何とか自分を保っていられた。例え侍女が気を利かせて出してくる菓子に、キラキラと輝くヘーゼル色を思い出しても。誰かの金髪が昼の陽射しを受けて艶やかな黄銅色に見えたとしても。
彼はひと息飲み込み、声もなく耐えた。ラベリ家での己の行動を心底、恥じていたからだ。
次第に菓子は運ばせぬように厳命し、茶を飲むこともやめた。服も男性的なものを新しく揃えさせた、できるだけ地味で質素なものを。過去の自分が身に着けぬようなものを。
部屋に出入りする侍従もひとりだけに。
そうして常に沸き上がろうとする感情を抑えていた。
だが窓の外に夕闇が下り燭台に火が灯されるともうダメだった。
書類を橙色に揺らす空気越し、揺れる自分の影の中、部屋のどこかにモニカの気配を探してしまう。
暖炉の側、本に齧り付く彼女の金にけぶる睫毛や、心許ない夜着姿が鮮明に浮かぶ。朝の白やんだ靄の先には永遠に目にすることはないモニカの私室の窓が目蓋に甦り、彼女の髪が銀に透けたのを思い出す。
押しつけただけの口づけ、『お茶会、楽しみね』と強がって笑った瞳、隙間なく抱きしめた熱を――。
その度にアニスは顔を覆い、彼女の感触の消えるまで仕事を中断せねばならなくなった。最後『アニス』と、ささやかに発音した声が何処からも聞こえなくなるまでは。
だから彼は、彼女と繋がる全てのものを生活から排除し続けた。
深く寝入ると明け方にモニカの夢を見ると分かってからはベッドで寝ることもやめた。そうでなければ仕事が成り立たなくなる、彼女と別れた目的を見失ってしまう。
彼は縋りついていた。書類に齧りつき、顔を上げないで済む行為に。
結果――彼はわがままで怠惰で不潔な人間になっていった。
人間はこうも匂うのだな、と彼は時折思う。しかし。
(構うものか)
自領さえ守れれば。守らなければ。
浅いまどろみから目覚めたアニスは視界に垂れた自分の髪に触れた。無意識にくるり、指に巻きつけようとする。
何度も、何度も自覚なく指は動く。しかし彼の真っ直ぐな銀髪は決して指に巻きつくことはなく解けるのだ。
――そして聖誕祭前夜、ドゥオは痺れを切らし部屋中の火を消してやろうかと足を一歩踏み出した。いくら酷い恋患いでも彼は侯爵令息。明日は舞踏会で必ず出席しなければならない、寝なければならない。
彼に忠実な侍従は叱責を受ける覚悟で最後の忠告を口にしかけた。
そのときだった、『
『起きているならば私室へ』という言伝に、アニスは遂に顔を上げた。寝不足で腫れた目蓋を胡乱に細めて。
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