26.別れは白日の下

(離れたくない)


 手に触れる肌の確かな感触が愛おしく、アニスはどこまでも柔らかいモニカを、ただ抱きしめた。ぐしゃぐしゃの巻き毛に顔を擦りつける。一緒にいて、と囁く彼女は幼子のようで彼の決心を錆び付かせ鈍らせた。


(このまま攫ってしまおうか)


 背に回された縋りつく手や彼を求める声に、アニスはひと息ごと我を失っていく。全てをなげうっても恋に身を捧げる――甘美な夢がモニカに触れる場所から全身に広がっていくようだった。しかし、

『貴方は一番大事な自領でもジャノルド殿下でも守ってなさい』

 夫人の声がこだました。理性を呼び覚ます。

『モニカのことは忘れて頂戴ね』

 必死にかき抱く。


(忘れられるか! 僕が大事なのは……僕は……)


 カーテンの引かれていない出窓からは靄が白く入り込んでいるかのように、二人の抱き合う姿を照らしていた。不格好な一つの影は、逆光の中でかすかに揺れる。

 モニカ、と声を絞り出せば、抱えた熱がぎゅうとしがみつき、アニスは寄る辺のない感情にそっと瞳を開けた。

 不意に、朝に目が眩んだ。陽の光が世界を輝かせていた。目眩に眉間を顰め、彼女の巻き毛がまるで銀に透けるのに気づけば、もはや馬車の用意は整っているだろうと頭が一気に冴える。

 その僅かな身じろぎに「やだ」と駄々っ子が縋りつく。

 身の内に熱した泥を飼う、抗いがたい苦しみ。


「モニカ」


 繕わぬ呼び名に、モニカが再び身じろぎする。アニスは努めて腕を緩めた。

 二人に隙間ができる。刹那、モニカから「ぁ」とため息に似た喪失が漏れ、彼は込み上がる強い衝動を抑えなければならなかった。抱きしめる代わりに、肩に手を。

 

「……会えて良かった。君が出てきてくれて本当に。だが、僕はもう」


 伝えるべきことの取捨選択ができない。彼は彼女と頬を合わせたまま、呻く他なかった。未練たらしい、と思いはしても全て離れるには決意が足りない。

 「アニー?」不安に掠れた声とすぼまった肩。アニスは彼女の耳元で薄く微笑み、そっと頬を離した。――涙が糊のようになって、まるで一つのものを無理に引き剥がしたような空しさ。


「僕……? アニー、いつもと何か」


 ヘーゼルに琥珀が映り込んだ。モニカが息を飲んだ、水面が揺れるのはどちらの瞳だろう。


「ぁ……アニー? 泣いて」


 どうして、と問われてもアニスは答えられなかった。あぁ涙か、と他人事のようにそれを受け止めた。


(君が恋しい)


 腫れてカサついたまぶた、泣きすぎて真っ赤な鼻先。整えられていない金に煙る眉と清らかな雫を纏った睫毛、ヘーゼル。彼は鮮明に、彼女の姿を瞳に灼きつけた。


「別れの挨拶を、モニカ」


 涙が幾筋も伝った。別れが悲しいからか、会えた喜びからか。

 彼はガラス越しでない、彼女の瞳に己の姿を見た。あぁ、と呻く。


(僕はずっと、君に『アニス』を見て欲しかった。アニーでもダーニャでもない、僕に! 抱きついて微笑んで欲しかった)


 なんて欲深いと、呼吸が詰まる。しかしどうか叶えて欲しいと嗚咽を堪える。

 彼女を欺いて尚、愛されたいと願うとは。

 醜い感情の濁流が流れ出るのを、アニスは止める術を知らなかった。


 モニカは彼が泣くのをしばらく呆然と眺めていた。声も上げずに滂沱ぼうだする相手の、初めて白日に晒された美しさに心を奪われていた。

 溶け出すような琥珀色、切れ長の湖水を縁取る銀の睫毛はしとどに濡れて光る――朧気な既視感と戸惑いで震えが背に走り、彼女は我に返った。肩を包む熱い両手は『別れの挨拶を』と言った瞬間から、彼女を強く掴んで離さない。


 モニカは、はくっと覚束ない息を吐き、懸命に微笑んだ。おずおずと手を上げ、小さなそれで彼の片頬を温めた。戴くようにしてもう片方も。

 湿った白銀の髪が彼女の甲を滑って撫でた。


「泣かないで、アニー」


 今にも決壊しそうな瞳が、励ましの声色と共に細まるのをアニスは見た。


「ね、また……会える、わよね?」


 弱々しく声を詰まらせた問い。

 モニカ、と応えればぐしゃぐしゃの笑み。「こんどの……お茶会、たのしみ。ね」唇が柔く尖る。それは強がる、彼女の癖。


「わたくし、バカだった。こんなことなら、もっと早く……もっと、たくさん」


 彼女の指をアニスの愛が濡らす。


「おはなし、したかっ」


 口づけが塞いだ。


 た、と無理に止められた声の残滓は甘くついばまれ、湿っぽく漂い消えた。

 潰れた鼻先に角度を変え、彼は性急に唇を押しつけた。

 しょっぱい、どちらのものか分からぬ涙の味に彼はわざと苦笑した。そうしなければ、永遠に離れられなくなると分かっていたのだ。

 彼女の鼻先をついばんだ。溶けかけたヘーゼルに囚われそうになり苦心して頬へ、まぶたへと。そして彼は唇を離した。――酷く寒かった。この先の季節が全て冬になってしまう予感。


(別れ、を)


 口づけで力の抜けたモニカの手は、ゆっくりと彼女の膝へと着地した。糸の切れた人形の如くぼんやりとした視線を揺らし、彼女は「アニー」と呼んだ。

 冷静になったはずの心にかすか、火が灯った。


「モニカ……僕は、アニスだ」


 緩慢な瞬き。


「アニ……ス?」


 ――アニスは初めて名を呼ばれた喜びと、絶望に耐えた。

 無表情に肯き、いつものように彼女の前髪を撫でた。彼女の頭はもう鳥の巣どころの騒ぎではない。しかしもう撫でつけ手を差し込む権利はない、と立ち上がる。


(いいや、元からそんなものはなかった……僕には)


 立ち上がりざま、『挨拶』をした。


「さよなら、モニカ」


 ドレスには伸ばしようのない皺が走り、二人分の涙の染みが落ちていた。それをゆっくりと撫で正し、彼は深く息を吸った。

 完璧な淑女の礼。貼り付けた微笑み。


「貴方さまのお幸せを、心からお祈り申し上げております。モニカさま、どうかお元気で」

「あ、……アニー?」


 アニスは躊躇なく背を向けた。同時、「いやあぁぁ!」モニカの叫びが彼の背に刺さった。それは心臓まで深く入り込み彼の呼吸を止めようとしたが、彼は扉を開け放って外へ出た。

 廊下には顔馴染みの侍女たち――ドロシィもキャリも皆、目を腫らしていた――が並び立ち、彼を見るなり一斉に頭を下げた。


「アニスさま……お待ち下さい。まだ、まだお嬢さまは……!」


 ピケだけが彼を追いかけ、出て行くなと懇願を繰り返した。しかしアニスは脇目も振らず玄関へと駆け下りた。

 馬車に乗るまで足を止めなかった彼に、見送りはピケ、たったひとりだった。


 ――鞭の音が響き、馬が嘶いた。

 小窓からのぞく侯爵家の庭には晴れかけた靄に、陽光が降り注いでいた。それはまるで黄銅色に煌めき、先を急ぐアニスの乗る馬車を厚く包んだ。

 アニスは硬く目を瞑ったまま、決して顔を上げることはなかった。

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