25.霞む朝に伝う
アニーの足はもう良くなった、と聞いても、モニカは寝室から出られなかった。アニーからの手紙は判を押したように日に二度届いた。
――昼間、彼女は扉の隙間から差し出されるそれを恐るおそる手に取り、読み、ただ見詰めてはベッドで丸まって過ごした。
食事と共に好物が添えられていても、もう菓子を食べたいとも思わなかった。僅かにスープを飲む。
必要なものはいつの間にかまた手紙での遣り取りになった。しかし以前と違い、ドロシィは時折扉の向こうから声を掛けてくる。キャリもあの独特なノックのあとアニーの話を伝えてくるが、どちらにもモニカは声を返すことはできなかった。
“今、何をしていますか”
夜には起き上がり、何度眺めたか分からない手紙を抱く。夜闇で字は見えなくともアニーの筆跡はまぶたに浮かんだ。
(アニー……ごめんなさい。本当はちゃんと謝りたい。でもわたくし、もう貴方に合わせる顔がない……)
“足はもう良くなりました”
“不甲斐なくも転んでしまい、申し訳ありませんでした”
“新しい小説が書庫に届いておりましたよ”
丁寧な、少し男性的な筆跡で綴られた優しさ、親しみ。しかしモニカは返事を出せない。外に出て来て欲しいのだと分かるからこそ。
「もう、嫌」
ベッドに広げた手紙に涙が落ちた。ぱた、と紙が音を立てて字が滲んでいく。
(人並みに着飾っただけで褒められて調子に乗って……ダンスもまともに踊れなかった。わたくしは何もできない、役立たず。こんな部屋に閉じこもって泣いてるだけの女なんて、アニーもきっといつかわたくしを嫌いになって……もう誰からも愛してもらえない)
そこまで考えるともう涙は止まらない。あぁきっと『酷い顔だ』と思えば思う程、もう外には出られないと
そうして夜が朝になる。煩わしい朝が来て、モニカは外に出られない自分を呪う。
(アニー……あぁ聖誕祭が来てしまう)
怖かった。
自分のことと同じくらい、ずっと考えないようにしていた。決して口に出さないようにしていた。
しかし寝て起きれば日は経って、期限はじりじりと近づいてくる。モニカを独りにしようと迫る。
書斎に足繁く通い、親交を深めれば深める程、考えては呼吸が出来なくなる気がしていた。彼女にとって聖誕祭はジャンとダンスをする日ではない、アニーと別れなければならない日になっていく。
――男装しても麗しく、軽やかなリード姿。
興奮したモニカに向かって可笑しそうに声を上げる姿。
まるで女神のように月に照らされる姿。
茶会で穏やかに微笑む姿。
初めて会った日の、貼り付いた笑みの美しさ。
一目見た瞬間からアニーを妬まずにはいられなかった。
指南役と嘘をつき、妃教育を再開させようと企んでいると信じて疑わなかった。
そして彼女を知れば知るほど、どうしてそんなにも底なしに優しく賢く美しいのか、と惹かれていった。
自分はどうしてこんなにもバカなのか、弱いのか、役立たずなのか、と苦しい。
(でも、わたくしは……)
途方に暮れる。
(アニーに会いたい)
今すぐ
(ダンスなど踊らなかったことにしてしまいたい。何事もなかったかのように振る舞いたい、話をしたい! あぁでも、でもわたくしはここから出られない、出たくない怖い……!)
――心は振り子のように揺れて戻り、そして激しい情緒が彼女を疲弊させていった。
◇
モニカは手紙を抱いたままの
碌に顔も洗っていない頬が涙と乱れた髪で引き攣るようで、かぶれたように赤くなっている。まぶたなど、別人のように腫れ上がっていた。
彼女はベッドの上を這った。扉の下にアニーからの手紙はない。
――寝ていたのは僅かの時間で、未だ夜。モニカはそれに安堵すると同時、自分に強く苛立った。
(外に出られないくせに。出ろと言われたくないのに、アニーからの手紙を待ってるなんて)
支離滅裂で何もかも訳が分からない。彼女がじわりと目頭を痺れさせたときだった。
――ノックの音が響いた。
モニカは侍女かと思い、沈黙した。ドロシィなら返事がなければメモを挟めるし、キャリの特徴的なノックの音ではなかったと、気配を殺す。
「モニカ、さま」
低いアルト。
彼女はハッと顔を上げた。
(まさか)
間髪入れず扉の向こうから「アニーです。起きていらっしゃいますか」と声が掛かった。
待ち望んだ声だった。彼女は何度その声を聞きたくて、苦しくて泣いたか分からなかった。
――しかしモニカは現実にアニーの声を聞いた途端、カッと怒りに頬を強張らせた。予期せぬ訪問に強く混乱し、何故か怒りが沸いていた。
「入ってこないで!」
カサついた唇がわななき、数日ぶりに出した声はしわがれて掠れた。
「起きて……えぇ、約束します。モニカさま」
「それならどこかに行って! 何しに来たの。わたくし、誰にも会いたくありません、貴方にも」
「モニカさま、申し訳ありません。ですがわたくし、どうしても……扉越しでもモニカさまとお話ししたかったのです」
扉越しの声はくぐもっていたが、アニーの強い意志が感じられた。立ち去る気がない、と理解したモニカは半ば嬉しさに震えた。しかし彼女の口は勝手に喚き立てる。
「話すことなんかない!」
「……わたくし、朝の内にここを出て行きます」
ひゅ、とモニカの息を吸った。うそよ、とは叫べなかった。
「聖誕祭を待たず、帰ることになりました」
ふらりとベッドを降り、裸足のまま絨毯を踏んだ。
「最後に、貴方に会いたかった」
膝が折れた。
何か唇が動いたが、声は出なかった。ひとり、ただ這いつくばっていた。
(アニーがいなくなる?)
覚悟していた痛みなどかすり傷程度だったことを思い知る。
「……本来なら、行儀指南などバカげた役割は、貴方さまには必要のないものでした。所作も、礼儀作法も、会話の話題も申し分ありませんでしたから」
(アニーが……いなくなる?)
モニカは動けない。
どうしたらいいのか、分からない。
「ですがわたくしは貴方を外に連れ出す命を受けて、滞在し続けました。友人として心を通わせれば貴方の力になれる、と……貴方を救えると」
(わたくしを、救う?)
その瞬間、モニカは悟った。
どうして自分がここから出られなかったのか。――出たくなかったのか。
目眩に、額を床に擦った。
(わたくし……アニーが来るのを、待ってた。アニーが鍵を開けて、手を差し伸べて優しくここから出してくれるのを……待ってたんだわ!)
許して欲しいと願いながら、助けて欲しいと期待していた。外に出るのが怖いのは、彼女への勝手な期待を壊したくなかったからだ、と。
妃教育から逃げて、寝室に籠もって、食事を摂らないで菓子ばかり食べた自分を。
ダンスも踊れない、役立たずの自分を。
過去に胸の内に秘めた憎悪、怠惰への後悔、苦しみ、悲しみ、全てから逃げた自分への怒りと嫌悪を。
――アニーなら許してくれる。
息のできないこの汚泥の中から、アニーなら助けてくれるのではないか。
あの輝かしい微笑みで!
(……わたくしは、なんてバカだったの)
頬に幾筋も雫が流れた。
同時、ダン! と扉が強く叩かれた。
「愚かでした」
アニーの呻くような声に、モニカは驚き顔を上げた。
「貴方に心から詫びたい。傲慢な……わたくしを、お許し下さい。ここに来るべきではなかった」
どうして、と彼女は腕に力を込めた――前へ。
(謝るのは、許して欲しいのはわたくしなのに。どうして貴方が苦しそうなの。わたくしが貴方を苦しめたの?)
モニカは夜着の裾に脚を取られながら、少しずつ扉へ這った。脚が重く、自分の物ではないようだった。しかし彼女は懸命に這い、扉に取り縋った。
あと扉一枚の距離。
「モニカ……」
応えようとした。アニー、と名を呼ぼうとした。
しかしそれより早く、くぐもった声が
「もう朝に……もう、お別れです。モニカさま」
あぁう、と頬は涙で扉に貼り付いた。
行かないで!
「本当に、貴方に会いたかった」
扉越し、耳に届いた
(いなくなってしまう!)
「……嫌ぁ!」
立ち上がろうとした。
焦り膝が崩れ、ノブに手を伸ばすこともままならない。
「モニカ、さま? そこにいるのですか」
アニーが声に気づいた。
(出ないと、出て追いかけないと! 行ってしまう、わたくしを置いて)
「行かないで、嫌よ!」
――モニカは鍵を開けた。
ノブを乱暴に鳴らし、遂に扉を開いた。
僅かに空いた隙間にふらつき、戸口で四つん這いになった。
寝室よりも少し明るい視界の先に、アニーのドレスの裾が見えた。
モニカ、と戸惑う声の遠さ。
「アニー」しわがれて呼ぶ声の情けなさ。
(わたくし、なんて無様なの)
モニカの理性が自分を俯瞰で評価し、嘆いた。侯爵令嬢が這いつくばって許しを乞うなんて、と睨めつける声がする。遂に嫌われる、とも
「待って」
――だがモニカは無様を晒しても尚、ここを出なければ、と這った。アニーを引き留めたかった。
だから、寝室を出た。
まるで赤ん坊のようにたどたどしく、懸命に膝を立たせ、ぼやける視界の先のドレスに向かって。
「モニカ!」
アニーが駆け寄ろうとした。しかしすぐに立ち止まると、顔を歪めた。今度は彼女が動かない。
しかしモニカは這って、這って――掴んだ。
いつかのように、ドレスを引っ張った。
「アニー、行かないで」
新しい涙がこぼれた刹那、モニカのぐしゃぐしゃの視界がやんわり暗くなり、ドレスがたわんだ。
すぐに上半身を抱かれ、支えられる。
よく知るぬくもりが香りが、下ろした長い髪がモニカを温かく閉じ込めた。
喜びにモニカの唇がわなないた。嬉しくて温かくて大好きだと思った。
「モニカ」
『挨拶』が降った。二度、三度。
頬が合わさった。
堪らなくなり、ずっと一緒にいてよいかないで、と言えばキツく抱かれた。応えるままモニカもその背に抱きついた。
絡まってぐしゃぐしゃの巻き毛に、アニーの手が差し込まれる。項を包むように首を支えられ、モニカは心底安堵の息を吐いた。素直な言葉がこぼれた。
「ごめんなさい、アニー。わたくし転んで……意地を張ってごめんなさい」
アニーはただ、彼女の肩に顔を埋めて肯いた。
殊更、しがみつくように抱かれてモニカの瞳から、最後の涙が伝った。
気づけば、薄闇は白に霞んでいた。
――朝だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます