24.滲む夜に願う
咄嗟、取り繕おうとしたアニスに侯爵夫人はぴしゃりと言い放った。
「残念だけど、今さらシラを切っても無駄ですよ。わたくしその手元の書類を隅から隅まで読んでしまったもの。ヘレンゲル侯爵家公式の透かし紙に署名するなんて、ただの官吏がすることじゃないわよね。署名が通るのは、侯爵本人か跡継ぎかってところだもの」
(やはり見られていたか)
彼は、夫人がいつ入って来たかも分からなかった自分に、内心で悪態を吐いた。背中を汗が不快に伝うのに精一杯、無理に微笑む。
「まさかわたくしが?」
彼は机に置いたままだった眼鏡を持ち上げ、ゆっくりと掛けた。
肯定も否定もできない。しかし甘く見られては負けだ、とガラス越しに相手を見詰め返す。「もちろん読んだ内容は永久に
「それにね、さっきお話ししてて思い出したことがあったのよ。小さい頃ドレスを着せられた貴方のこと。わたくしあんまり可愛らしい娘さんだから、セルビオさまに『あら傍家のご息女ですの』なんて聞いたのよ? あのときの
「断じて趣味ではないッ!」
思わず叫んだアニスに夫人は目を丸くし、すぐに声も高く笑い始めた。
「あぁ可笑しい! 貴方、まだ姉さんたちの着せ替え人形やってるのー?」
「やってるわけないでしょう! 王命でなければこんなこと」
「……王命ですって!?」
(しまった!)
アニスが顔色を変える間、夫人はしばし考え込むような動作をし、くるりと彼に背を向けた。
(まさか侯爵に取り次ぐ気か!)
彼は「カタリィさま!」と叫んだ。それを夫人は無視し、悠然と壁際まで歩くと呼び鈴を鳴らした。心配になる程しつこく引っ張るのを彼はすべなく見守る。
「……分かっていますよ、王家としてはわたくしたちに内緒ってことなのでしょう? このことを騒ぎ立てたりはしません、安心なさい」
夫人は紐を引っ張るのに満足したかそう言うと、今度は部屋を横断し始めた。そしてアニスとモニカがいつも茶会をする窓際のカウチに腰掛けた。
はぁ、と息を吐いた細い背に、アニスは唾を飲み込んだ。
悪い予感に震え上がる。
(もし全て話して夫人に逆上されては……モニカにも知らされるかもしれない)
サァッ、と血の気が引いた。
(それだけはダメだ! 何とか誤魔化して……)
そう思案を始めた瞬間、夫人が彼を振り返る。
――ギラリ、机の橙色を反射して夫人の瞳が彼を貫いた。
「座って話しましょうアニーさん。お茶が届くのも待っていられないわ」
静かな、しかし否を許さぬ声色。
アニスは覚悟に青い唇を引き結んだ。
夫人は正しく侯爵夫人の威厳を以て聴取を進め、彼は王命の内容とそこに至る経緯について一字一句違わず語った。
話の端を話の腰を折らずただ耳を傾ける夫人は、彼の話が終わったあとも沈黙を続けた。彼が長い重く暗い空気と、窓際から漂う夜の冷気に身を震わせそうになった頃、夫人はようやく口を開いた。
それは彼にとって予想外の問いかけだった。
「……それで、貴方はこれからどうするつもり?」
「どうする、とは」
夫人は呆れたように息を吐き「全く」と片頬を手で擦った。その口調には呆れが含まれており、思わず彼は眉を
「王命が取り下げられたのです、邸に戻ります」
「それは、いつ?」
「……昼間、申し上げたとおりあと二日で。父からも早く戻るよう催促が」
「なら明日の朝、帰ればいいじゃない。わたくしたちは止めませんよ」
「いえ……ですが」
「あぁもう苛々するわね」夫人はあからさまに胡乱な目つきになった。
「貴方はモニカが寝室から出て来るのを待ってるのだとばかり思っていましたけれど、違うの? 毎日手紙を書いていたと言っていたけれど、それは冷やかしか何か?」
「それは違う! いえ、決して冷やかしなどではありません。彼女が部屋から出て来ればどんなに……! しかし」
「しかし、何?」
「出てきた瞬間に、別れを告げられるなんて酷いと思いませんか」
夫人は眉を上げて続きを促す。
「彼女なりに苦しんで無理をして……それでも頑張って部屋から出て来た瞬間に、親しい友人から別れを告げられたらどうなるでしょうか。きっと彼女は怒るでしょう、約束が違うと。悲しむかもしれません。もしかしたらまた部屋に逆戻りするかもしれない。でも僕はもう彼女を待ってあげられない、今は……自領を守るときです」
「そうねぇ」
「戻れば、彼女と親しい『アニー』はどこにも存在しなくなる」
「そうね」
「引っ張り出しておいて、すぐさよならなんて無責任だ。ジャノルド殿下のことを思えば男であることも告げられません。それなら知らない内にいなくなった方が」
「いいのは……フンッ、楽なのは貴方でしょうねぇ」
アニスは継がれた言葉に驚いて夫人と目を合わせた。遅れて意味を理解する。潜っていたはずの罪悪感が急激に湧き上がった。同時、顔を上げていられない程のすさまじい羞恥が襲う。
「どうせなら楽な方にしなさいな。明日の朝、ヘレンゲル家にお帰りなさい。馬車を用意しておきましょう」
夫人は音もなく立ち上がると、俯くアニスを見下ろした。怒りか嫌悪か、その瞳は冷たい。
「貴方、容姿のせいかしら? うんざりする程の自信家ね」
(自信家……?)
虚を突かれたアニスは、少しだけ顔を上げた。視界で真冬のガウンが彼に背を向けた。
「うちの娘をバカにしてるのかしら? さっきの貴方の話、『僕がいないとダメだ』とか『出てきてもひとりじゃ何もできないから僕がいないと』とか気持ち悪いったらありゃしないわ。あの子をか弱くて『アニー』がいないと何もできない子だと思ってるのでなら大間違いよ。悪いけどあの子はとても強い子です。貴方は知らないでしょうけど、他人のためだけに人を人と思わないような妃教育に耐えて、普通の娘が十年かかる内容を二年で終わらせる我慢強さと賢さを持ち合わせた、ね」
視界からスカートの裾が消えた。
「その子が寝室に籠もっていたのは、失った力を溜めるためよ。もちろん貴方は出て来るきっかけになってくれた、それは感謝しているわ。わたくしたちが出来なかったことをしてくれたのだから。ありがとう、アニーさん。でも一度出てきた寝室にまた籠もった理由が自分にあるはず……なんてちょっとくらい思わないのかしら。あぁ考えついても自分が悪いと分かってるときだけ歩み寄れない人っているわよねぇ。普段は正論を振りかざして周りを責めるのに、肝心なところは逃げ腰。いるわねぇ、そういう迷惑な人」
少しずつ遠ざかる。
「お帰んなさいアニーさん。そうそうもしかしたら、貴方がいなくなると分かればあの子もすぐ出て来るかもしれないわねぇ。男だって教えても別に何とも思わないかもねぇ? だからあとは、あの子を心から愛してるわたくしたちに任せて。貴方は一番大事な自領でもジャノルド殿下でも守ってなさい。どうぞ、モニカのことは忘れて頂戴ね」
扉が開いた。
「さよならアニス。またね」機嫌のいい声。
扉が閉まった。
◇ ◇ ◇
アニスは馬の嘶きを聞いた気がして、起き上がった。
疲労のせいか、いつの間にか書斎のカウチで寝ていたと知り、長く息を吐いた。そして自分が未だ昨日のドレスを身に着けていることに、深く落ち込む。
(このままで帰ればいいか)
ひとりで外した鬘は足元に転がり、銀髪も乱れていると分かってもどうでも良かった。
(もう、僕にできることはない)
彼は立ち上がりざまカウチの繊細な飾り細工に触れ、そのヒヤリとした冷たさに僅か、肩を竦めた。手を離し、部屋の外へと向かう。
住み慣れた客室に戻ろうとし、窓の外が未だ夜に沈んでいることに気が変わる。
(このままドレスで馬に乗って帰っても、見咎められまい)
冬の朝は遅い。アニスはその思いつきにクッと吐き捨てるように笑んだ。この茶番に相応しい終わり方だ、と足を速める。
玄関へと続く階段を一つ降り、階段ホールに差し掛かった。
既視感に足が止まる。
(……ここに、ジャンの手紙が落ちていたんだった)
階段は暗く、まるで夜に落ちていく螺旋のよう。
彼は今も目の前に、モニカ宛の紙片が落ちているような錯覚に陥った。拾い上げ、必死に駆け下りた記憶が甦る。
(彼女は強い……そうだ、きっと強い)
覚束ない足取りで、子どものように泣くモニカ。
ダーニャ、と溶けて歪んだ瞳。
(僕は傲慢だ)
『アニーさまぁ』と縋り、溢れた涙。
濡れたガウンの重み、抱いた彼女の苦しみ。
(今さら気にして何になる。彼女を救えなかった僕は、尻尾を巻いて逃げるんだ)
さっさと外へ出ればいい、とアニスは脚を動かした。
しかしその度、暗闇の中にモニカが灯る。鮮やかに。
ヘーゼル色の煌めき、微笑み。
握り合った手、彼女の弾む息遣い。
挨拶を落とせば染まる頬。
すぐ尖る唇。
一つ下りれば、遡っていく。
満足気にスープ皿を見下ろす眉。
好きなことを興奮気味に語る声。
心許なくスープ皿を見下ろす眉。
嫌いだ、と全力で浴びせる冷たい声。
(ダメだ)
――モニカは戻る。
獣のように荒んだ瞳に。
『アニー』さえも、誰も映さない瞳へ――。
「嫌だ……」
彼はドレスの裾を乱暴に掴んだ。今こそ、この長くて邪魔な裾を引き破りたい衝動に駆られた。
(そうだ僕は傲慢だ。でも彼女にもうあんな冷たい目をしてほしくない……あぁバカだ酷い自信家だ! でも嫌だ、彼女が『アニー』にすら微笑まなくなるなんて)
階段を上りきる。
眼鏡を掴み外し、投げ捨てた。
(……バカでもいい。一度でいいから)
濃紺に滲む窓。
モニカのドレスの色。
(『僕』に笑って欲しい。最後にモニカに、会いたい)
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