23.『できれば母親とも穏便に』

 セルビオから定められた期限があと三日に迫った日。

 アニスは侍女たちにヘレンゲル家に戻る荷造りを命じた。彼自身は自領の書類を処理しつつ、日に二度、半ば惰性でモニカへの手紙を送り続ける。返事の来ない一方通行の私信だ。


“今、何をしていますか”


 その端的過ぎる文章に、彼はため息を吐いた。


(何と書いていいか、分からない)


 以前は呼吸するように書き出せた言葉は、絞り出しても少しも出てこない。気の利いた挨拶ひとつ、書けなくなっていた。

 モニカへの想いが失われた訳ではない。むしろ、あの無邪気で短気な彼女に会えればどんなに心が慰められるだろうとも思う。ただそれ以上にやるせなく、別れを告げるために彼女を無理矢理引っぱり出す気持ちになれないでいた。


 侍女たちによれば、最小限の食事はとっているという。以前のように菓子ではなく、スープを。ドロシィは酷く取り乱し、アニスにまた『ダーニャ』になって説得してくれと頼み込んだが、彼は断わった。「実家に戻るのに色粉がついたままでは困る」と侍女には述べたが、モニカの好む他の男を装うのは真っ平だったからだ。


 アニスは便箋を丸めかけ、やはり丁寧に折り込むと封筒に包んだ。側に控えていたピケに託す。

 ピケは彼が『ヘレンゲル家に戻ることになった』と話した日から明らかに口数が減っていた。朝の支度時も以前のような勢いは鳴りをひそめている。しかし彼自身、それをありがたく感じる程には弱っているのだった。


 戦の兆候――西国マラバについてや王太子の行方が知れぬことは大っぴらにされておらず、ヘレンゲル領でも城下でも人々の営みに大きな変化はない。王家も城下での兵糧や武具の買い上げには慎重だからだ。

 反面、事情を知る侯爵家領での動きはあからさまで、自領での物流とその情報の流出に配慮せねばならなかった。金に関わる動きは敏感な人間が多いもの。日に四度の報告書でも半日の時差がある心許ない状態となれば、他家で行える処理だけで指示を出すには限界がきていた。


 ジャンの消息は未だ知れない。アニスは、書類に集中していないと不安に苛まれ幾度となく彼の面影が過ぎり、仕事の手が止まる。


(これは僕への罰だ。ジャンの婚約者に恋をし、あまつさえ立場を利用して親密になろうとした、罰。ジャン……どうか無事でいてくれ)


 祈る。

 そして暗くなる思考を無理に振り切ろうと足掻けば、夏の陽射しのような金髪がいつの間にか黄銅色に変わる。最後に見た、真っ青なモニカの表情が彼を責める。


(モニカ……! 僕は君を苦しみから救い出せなかった。約束の聖誕祭まで『アニー』でいられない僕を許してくれ)


 ピケが「届けて参りましたが……」と言葉を濁らせたのに彼はただ肯く。

 モニカから返事がないことに安堵する、自分に失望しながら。


     ◇


 夕の近づく頃、アニスが書類に埋もれて唸っていると書斎の扉がノックされた。畏まった様子の侍従が「そろそろお見えになります」と先触れに来た。彼は「ありがとう」と応え、すぐに玄関へ向かう。

 既に足の痛みはなく、もう歩く分には問題ないと侍医の診断を受けていた。足取りも確か、彼は普段着よりも上等なドレスに身を包んで一分の隙もなく廊下を進む。

 ――ラベリ侯爵夫妻がもうすぐ到着する、その出迎えのためだった。


 「おかえりなさいませ、ダミアンさま」家令が感極まった様子でラベリ侯爵のコートを受け取った。侯爵は「皆、不在の間よく務めてくれた」と周囲を見回し、アニスがその人垣にひっそりと加わっていることに気づいた。つかつかと歩み寄る侯爵に、彼はしとやかに目を伏せた。


「……アニー=ヴィンセント。長いことわがまま娘に振り回されて苦労しただろう。話があるのであとで使いを遣る」


 相変わらずの口の悪さに喉が詰まりはしても、今のアニスには合わせるべき顔がない。本来なら彼はこの場にモニカを連れてこなければいけない役目。しかし彼女は……と思い、ただ大人しく首肯する。すると玄関口で「まぁ!」と女性の声が上がった。

 モニカと同じ黄銅色の髪を結い上げた女性――ラベリ侯爵夫人、モニカの母だった。まだ雪も降らぬ初冬だと言うのに真冬のコートに身を包んで、侯爵とアニスの間に勢いよく割り込んだ。


「ダミアンさま、もしかしてこの方がアニーさん!?」

「あ、あぁ。そうだ」

「やだ! 話には聞いていたけれど、なんて麗しい方なの!」


 サッと手を握られ、アニスは目を白黒させた。ぎゅむぎゅむと感触を確かめられて「あらやっぱり立派な手! 背も高いのねぇ」と朗らかに弾む声に、彼は戸惑いつつも挨拶を返そうとする。


「……侯爵夫人におかれましては」

「やだ、わたくしのことはカタリィと読んで頂戴」

「か、カタリィさま……」

「嬉しいわ! モニカの親しいお友達と会ってお話が聞けるなんて! ねぇあとの面会にはわたくしも同席してもいいかしら、ダミアンさま」

「う、あぁ、まぁいいだろう」

「あぁ嬉しい!」


 ではあとで、と侯爵は咳払いを残しそそくさと階段を上がって行った。

 侯爵夫人は「あら?」と可笑しそうに目を瞬かせると「じゃああとでね」と片目を瞑って見せた。

 あまりに気安い態度にアニスがあんぐりと口を開けると、侯爵夫人は悪戯に微笑み侍女の手を借りて階上へと進んで行った。


(ラベリ侯爵夫人……あんな風に親しみを振りまく方だったか?)


 最後に会ったのは十五かそこらだった、と彼は朧気な記憶を掘り返す。しかしまともに話した記憶はなく、階段を上る夫人を見送った。その後ろ姿は折れそうな程、頼りなげに細かった。


     


「アニー=ヴィンセント、家令から君の働きについては詳しく報告されている。君には感謝を言わねばならない。ラベリ侯爵家はこの先、君をモニカの友として最大限の礼を尽くすと約束しよう」

「勿体ないお言葉です、侯爵さま」


(なんだ? やけに好意的な)


 内心では訝しく思うものの、アニスは殊勝に頭を下げた。


(一介の官吏を友人と認めるとは、破格の待遇だ。何か理由が?)


 そう勘繰った瞬間、「アニーさん、顔を上げて頂戴!」と明るい声が響いた。

 

「やだわ、ダミアンさまったら。そんなに硬い言葉で。この前は挨拶もできなくてごめんなさいね、アニーさん? わたくしずっと体調が良くなくて。でもね、貴方がモニカととっても仲良しなのはよぉく聞いてるし、あの面倒くさい侍女頭まで貴方のことを褒めるんだもの! ダミアンさまもそりゃ認めざるを得ないでしょう! これまでダミアンさまが冷たい態度だったのは申し訳なかったわ。ダミアンさまって少し照れ屋なところがあるの許して頂戴。あぁモニカが部屋に籠もり過ぎて倒れたこともあったなんて、わたくしたち思いもしなかったから……ダミアンさまったら命の恩人になんて酷い態度を取ってしまったか! 本当にごめんなさいね。あらそんなに畏まらないで頂戴。わたくしたち心から貴方に感謝してるのよ」

「こ、光栄です。カタリィさま」


(モニカは母親似だったか)


 アニスは軽い目眩に素早く目を瞬かせた。情報量が多く聞いた端から忘れそうだったが、『アニー=ヴィンセント』がダミアン=ラベリ侯爵に認められたのはこの夫人によるものだろう、と納得する。

 しかし「あぁアニーさんったら本当に男性なの? 知らされてなければとっても素敵なお嬢さんにしか見えないわ! お相手を紹介したくなるくらい。ほらダミアンさま見て、このしとやかな仕草! そこいらの女性も敵わないでしょうね! あぁそう言えば昔ね似たようなことが」まだしゃべり続ける夫人に肯く動作が忙し過ぎる。恋愛小説を語るときのモニカにそっくりと思えば少しの余裕もあったが、さすが母親と言うべきか。


「お、おいカタリィそれくらいに」

「あぁもうダミアンさま。わたくし今日は久しぶりに邸に戻ったのですよ! しかもこんなに美しい男の方を見たのは久しぶりですもの。少しくらい興奮したって仕方ないでしょう?」

「カタリィ、少し落ち着きなさい。……む、熱が上がってきたのではないか」


 侯爵は夫人のしゃべりすぎて赤らんだ頬に眉を顰め、低く鋭く窘めた。侯爵の手はごく自然に夫人の額に当てられる。

 すると夫人は途端に「はい」と背中を丸めて大人しくなった。別の意味だろう頬が色づいた。


(……僕は一体何を見せられているんだ)


 侯爵は、遠い目にならざるを得ないアニスに再び目を向け、ゴホンッと大きい咳払いで仕切り直した。


「アナベル王太子妃殿下からも通達があっただろう。聖誕祭までの約束だったが、あと数日の内に――これは君の都合のいい日で構わないが『指南役を解任し官吏業務に専念させよ』と、殿下からの仰せだ」

「はい、承知致しました」

「我々も長いこと不在にしていたが、当分は本邸に腰を据えることにした」

「それはようございました。モニカさまもご安心なさるでしょう」


 アニスはただただ従順にお辞儀をした。さすがに戦のことには言及しないようだ、と彼は胸を撫で下ろす。余計な話にはならないに越したことはない。


(これでモニカが部屋から出て来ても、ひとりではなくなったと喜ぶべきか。母親も明るい性格のようだし、これからは親が支えてやればモニカも元気になるかもしれない)


 ぞわり、と罪悪感が湧いた。

 『ちょっと、寂しいわ』と俯けた金の睫毛が甦った。

 聖誕祭まで彼女を救うために力を尽くすと誓った夜が。

 膝で重ねた手を強く握った。


(戦だぞ。自領とモニカ友人の婚約者とどちらを優先すべきかなんて明らかだ。彼女には親も、ジャンも……いる。僕でなくとも。王命の取り下げられたことだって当然だ)


「報酬は追って支払う。アナベル殿下からもご芳志があるとのことだ」


 続く侯爵の話にはそつのない微笑みを浮かべて応じ、彼は三日後の朝に邸から退出することを申し述べた。夫人が何か言いたそうに口をもごつかせていたが、結局侯爵は最後まで彼女の発言を許さなかった。

 彼は丁重に滞在の礼を述べ、面会を終えた。

     

     ◇


 ――深夜、アニスはひとり書類に向かっていた。この日は一度も食事を摂っていなかったが、不思議と腹は減らなかった。部屋の灯は執務机の上のみで、ピケももう下がったあとだ。

 アニスは眠気を押して仕事――冬を前に備蓄を再配分せねばならなかった――を続けていたが、先程から眠気に勝てなくなっている。無意識に呟きを漏らしては、何とか正気を保っていた。


「元々備蓄に余裕はない……買い上げられる割合は……」

「……南の備蓄……北に回す…………」

「し、かし……」

「長引くなら南も厳しいわよねぇ。ヘレンゲル領は穀物生産が少ないものねぇ」

「そうだ……特に今年は不作で」

「わかるわぁ。うちも穀物量はマシとしても果実がねぇ」

「……果実? あぁラベリ領か……羨ましいことだ……土地に恵まれた領地は」

「でも貴方のところはお茶があるじゃない? まぁ腹の足しにはならないでしょうけどね。それにしたって今年は農作物はどこも寂しいわよねぇ。うちもジャムにする分が減ってがっかりしてるんだから」

「ジャム……? あぁモニカも似たようなことを」

「あらあの子もそんなこと?」

「えぇ彼女の好物は………………は!?」


 「侯爵夫人!」アニスは驚愕のあまり立ち上がった。一気に目が覚めたせいで目眩がする。「カタリィと呼んでと言ったじゃない、アニーさん」夫人は彼の正面、執務机の向こうから「よいしょ」と立ち上がって姿を見せた。その夜着に厚手のガウンという出で立ち。


(やっぱりモニカは母親似だ!)


「いつから! いえ、えぇと一体! 何の御用でしょうかこんな夜中に!」

「それはもちろん、貴方とお話をしたくって」

「お話? ですがもう侍女は下がってますし、明日にされては」


 「明日ねぇ」と夫人は頬に手を当てて眉を下げた。ちろりとアニスを見遣ってため息を吐く。「どうしましょう」肩に下ろした髪は緩い巻き毛で、薄暗がりの中ではまるでモニカがそこにいるようにも見えた。アニスは落ち着かなく机を周り、夫人に歩み寄る。


「お話は明日伺います。こんな夜中に二人きりでいたとなれば誤解を生みますから」

「まぁわたくしと誤解? うふふ、何だか楽しくなってきたわね!」

「夫人……」


 あからさまにげんなりしたアニスを見て、夫人は再び愉快そうにに笑った。そしてごく自然に首を傾げた。

 「でも今夜でなくては」彼女の目が静かに細まる。

 アニスはその眼光の鋭さに咄嗟、後ずさった。そして恥じるように「ご無礼を」と謝罪を口にした。頭を下げる。如何に気安くとも相手は身分が上の、侯爵夫人なのだ。


「うふふ、冗談よ。でもね、今夜でなくてはきっと貴方も困るわよ?」

「何の、お話でしょうか」


 アニスは少し解けた声と思わせぶりな台詞に顔を上げしまい、ギクリと頬を強張らせた。

 夫人の瞳は笑っていない。


「さっきの備蓄についてのお話も魅力的だし、わたくしの娘のお話もしたいと思って来たのだけれど……やっぱり貴方のことを詳しく聞きたくなっちゃったの」

「わたくし、のこと、ですか?」

「えぇそうよ」


 夫人は一歩、アニスに近づく。

 彼が思わず下がると、彼女は嬉しそうにっこり微笑んだ。


「十年ぶりくらいかしら? アニス=ヴィンセント=ヘレンゲル。すっかり立派になりましたね」

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