22.君を想う

(眠れない)


 アニスはベッドに横たわったまま部屋の天井を眺めていた。

 ダンスの疲労と足首の痛みから体は休息を必要としていたが、彼は長いこと寝付けないままだった。琥珀の瞳は天井に向いてはいてもその暗がりを映していない。


 ――白と黒の景色に、翻る濃紺。

 足を踏みつけては申し訳なさげに寄った金の眉。

 ごめんなさい、と震えながら動いた唇。

 強く引き寄せた体とお互いの脚が絡まりかける瞬間に、ターンが決まる。

 上気した頬のモニカ。弾む髪の一房、黄銅色の艶めき。


(幸せだった)


 仮初めの舞踏会――使用人まで踊らせて体裁を整えたダンスは、彼がこれまで生きてきて経験したどんな瞬間よりも鮮烈な幸福をもたらした。

 出来ることなら永遠に踊り続けたい、と思った。彼女と手を繋いで何処までも生きていきたいと、彼は願ったが。

 あぁと顔を覆う。


「僕が、彼女をしっかり支えていれば」


 モニカの体力がないことは、彼にも分かりきっていた。

 彼女の日常的な運動は離れと母屋の往復のみ。それも最近始めたばかりで少し走っただけでも息が切れてしまうのだ、膝を崩して当然だった。


(そうと分かっていても一緒に踊り続けたのは僕の単なる身勝手だ。頑なに首を振る彼女に『同じ気持ちだからか』と幻想を抱いた……。独りよがりも甚だしい)


 あまつさえ怪我をし、自力で彼女に会いに行くこともできないなんて、と唸る。


(謝罪したい。だが会わせる顔があるか? リードには自信があると誘っておいて足を挫くなど、情けないにも程がある)


 侍医は「骨には異常はない」「ただし腫れが酷く三日は安静にしなければ長引く」と診断を下した。モニカに会いに行きたいと言えば、侍医からも却下され叶わなかった。ピケ伝手に「お嬢さまは落ち込んでらっしゃいますが、もう就寝なさいました」と報告を受け、彼も仕方なしにベッドに入ったが。

 彼は落ちつきなく夜着の袷を掴んだ。


(胸騒ぎがする……『あとで』と言ったのに嘘をつくことになってしまう。これ以上、彼女に嘘をつくのは)


 最後に見た彼女の顔白い顔が浮かんだ。やはり今すぐ会いに、と起き上がる。侍女を呼ぼうとベッドに立て掛けてある杖を手に取った。

 ――そのとき深夜にしては大きなノックが部屋に響いた。


「アニスさま、起きていらっしゃいますか」

「あぁ。入ってくれ」


 聞き慣れたピケの声に、アニスは彼女の入室を待った。丁度いいと相好を崩す。さすがにひとりでは歩けまいと分かってはいたのだ。

 しかしピケは「お休みのところ申し訳ありません」と礼もそこそこに慌てた様子で彼に駆け寄った。

 暗闇に四角い光が出現しその逆光を背にするピケの姿に、彼の胸に低く波寄せていたざわめきが一際大きく襲う。小さな手持ち燭台の灯が歪み揺れながら近づいてきた。


「アニスさま」

「ピケ、何かあったのか」


 まさかモニカに何か、と痛む足を無理に持ち上げた。


「今し方、ヘレンゲル家の侍従が火急の用、と」

「火急の?」

「こちらを届けられました」


 差し出したのは二通の手紙。アニスは差出人にサッと目を走らせ、訝しく視線を上げた。「侍従は応接室にてご返信をお待ちです」筆記用具を探しに行くのだろう、ピケは隣室に取って返した。


 『セルビオ=ヘレンゲル』『ジャノルド=ホセ』

 アニスは眉を顰め、父と友人からの手紙を数瞬、眺めた。父からとは珍しい家族に何かあったのか、と無理に封を破き、灯に字をかざした。間を置かず、彼の顔色は変わる。


「まさか、いやしかし」


 思わず意味のない呟きを漏らし、急ぎジャンからの封も切る。こちらは表面がざらつき土埃にまみれた感触があった。

 ピケがベッド脇にインク壺を用意し、ペンを取り出したとき、彼は手の中で二つの便箋を握り潰した。


「今すぐ着替えを。ヘレンゲル邸に戻る」


 ピケが何か反論を唱えようとしたが、彼はそれを無視して父からの手紙だけを燭台の火で焼いた。

 短い走り書きの文章。

 火で黒い煤に変わっていく紙片を見詰め、彼は「急ぎ支度を」と低く命じた。


“戦の兆しあり。一度、邸に戻れ”




 深夜にも関わらずヘレンゲル邸の玄関には煌々と火が灯され、アニスを世話する主要な侍従侍女たちは揃って彼を出迎えた。

 実に三ヶ月ぶりの帰宅。しかも杖に半身を支える麗しの姿には動揺が走ったが、「朝までには戻る」と宣言した彼にこそ使用人たちは目を剥いた。


「父さんは?」

「先程、王宮から戻られたばかりで私室に……アニスさま、もう夜も更けて参ります面会も明日になさっては」

「悪いが父さんに先触れを。手紙が来たから戻ったんだ、夜の内に話をしなければ」


  「ですが」と尚も食い下がる家令にひとつため息を吐き、アニスは頼む、と杖をつき歩き出した。ドレスでは杖を満足に使うこともできないため、今の彼は男の装いだ。侍従が慌てて両側から肩を支えれば、彼はやるせない笑みを見せ礼を述べた。そのくたびれた目元から放たれた優しげな光に、使用人たちはざわめきを起こした。以前の彼ならば、礼は口にしても表情が変わることはなかったからだ。

 しかしそれもセルビオ=ヘレンゲル侯爵、その人の思わぬ登場で静まり返った。

 アニスの父、セルビオは階段を悠々と降りながら息子の持つ杖を見咎めた。


「アニス、足を怪我したのか?……すぐそこの応接室を調えよ」


 家令が短く応じ、数人が場を離れていく。「大したことはありません」と苦々しく答えた彼に、セルビオは彼の肩に手を乗せ「足はともかく元気そうだ」と眉を寄せた。その顰め面が親愛の表情と知る彼は、力なく口の端を上げる。「父さんも」と冗談を返した。セルビオの顔色は悪く、目の下の隈は恐ろしく濃かった。


 二人はすぐに調えられた部屋――本来は使いの侍従たちの控え室に腰を落ち着けた。

 懐かしいお気に入りの茶器に自領の芳しいお茶を一口含み、アニスははぁと息を吐いた。うまい、と彼が素直にこぼした言葉に、セルビオは生真面目な肯きを返した。


「他家に身分を隠して滞在しているのだ、疲れもあるだろう。今夜は泊まっていきなさい。ラベリ侯爵家には知らせておこう」

「朝までには戻ると言って出てきましたから、それには及びません。それよりも例の件を」


 既に人払いは済ませており、扉の外には恐らく家令が控えるのみ。アニスはカップを置いて父の言葉を待った。


「先頃の軍の遠征は知っているな? あれは実は建前だ。ジャノルド殿下は西国――マラバとの和睦のために国境へ向かわれたのだ」

「和睦? そんなこれまで西国とは争いなどなかったではないですか。何を以て和睦などと仰るのか」


 父とは言え、政治を語り始めたそれはホセ国の宰相の顔。アニスは自然と言葉遣いを改めた。

 西国マラバを治める王族は代々喧嘩っ早いと有名だったが、現ホセ国王の御代になってからはつかず離れずの和平を結んでいたはず――と、理解していた彼は驚きに身を乗り出す。

 セルビオは硬く表情を変えぬまま「それが国民の正しい認識だろう」と彼を真っ直ぐに見詰め返した。


「マラバとは先々代の王の時代に刃を交えたが最後、和睦が成された。これが我々ホセ国における真実だ」

「……相手はそうではなかったと?」

「停戦には署名したが和睦には臨んだことはない、と」


 アニスは激しい舌打ちをし、目の前の父の視線に「すみません、落ち着きます」と額を覆った。セルビオはそれに微かに目を見開き、すぐに細めた。


「物言わぬ着せ替え人形ではなくなったようだな」

「……父さん、何か?」


 セルビオは「いや」と答え、重々しも威厳ある声を発した。


「戦のことはいい。国を治める者たちに任せておけばいい。しかし、アニス=ヴィンセント=ヘレンゲル。お前はヘレンゲル侯爵家の嫡子だ。戦の兆し、そして起こり得る混乱のために自領を最優先せねばならない」

「それは、国境沿いではもはや」

「いや、だだ。だが……和睦に臨まれた直後、殿下の行方が知れなくなっている」

「ジャンが!?」

「殿下の不在を盾にして『正当な使者のない和睦など結べぬ』と、マラバは卓にも着かなかったそうだ」

「そんな、ことが」

「落ち着けアニス。お前が殿下と仲が良かったことは承知している。しかしこれは既に三日前のことだ、どうにもならぬ」


(ジャン……! まさかマラバの手に)


 セルビオは息子の血の気の引いた顔に一瞬だけ父の顔を浮かべたが、すぐにいかめしく彼を見据えた。


「お前宛ての私信は和睦の直前に伝令に託された物だそうだ。……中には何とあった?」


 アニスは怒りと苦渋がない交ぜになった感情を拳を握って誤魔化し、彼の無骨な字を思い出した。


(ジャンは何か予感していたのか)


「“聖誕祭には戻れない、すまん”」

「それだけか」


 声もなく首を揺らす彼にセルビオは「そうか」と言い立ち上がった。話は終わったらしい。アニスは我に返り父を見上げた。


「待ってくれ父さん、僕のラベリ家に滞在する王命は……!」

「王は……もちろんアナベル王太子妃殿下もその件に承諾済みだ。お前の働きでラベリ嬢の体調も改善しているそうじゃないか。このまま戻っても誰からも何も言われまい。今夜は休みなさい、酷い顔色だ」


(しかし今すぐモニカを独りにはできない。まだ、彼女は……)


 セルビオは重く黙り込んだ息子を見遣り、肩を軽く叩いた。次いでアニスのつむじに温かな手が乗る。その幼子に向ける如き親愛表現に、彼は咄嗟に姿勢を正した。


「ラベリ侯爵も近々、本邸に戻るだろう。この状況では、彼も王宮から半日の別邸にはいられまいよ」


 手が離れた。再びの厳しい眼差しが降る。


「……七日だ、アニス。それ以上は侯爵家当主として許さぬ」

「はい」


 彼は返事をする他なかった。

 背で扉の閉まる音を聞き、身を抱くように背を丸めた。その拍子、胸元にしまった紙片の歪んだ微かな音。

 彼は顔を覆った。

 先を急ぐ馬車の、霧の中に飲み込まれた朝。彼は何と言ったか。

『モニカ嬢のことはお前に全部任せた』と、肩を叩いた彼の情けない顔。


(ジャン……まさか全て覚悟して……! どうか無事でいてくれ!)



     ◇ ◇ ◇


 アニスは一睡もせず、ラベリ家に戻った。

 痛む足と寝不足で重い頭のまま朝の支度に臨んだ。何もかも酷く億劫だった。

 化粧で目を瞑る度に、ベッドに潜り込んで永遠に出たくない衝動が彼を襲った。煩わしいことから目を背けて今すぐ逃げ出したくなった。

 俯きがちの彼に侍女も今朝に限っては粛々と髪を結い上げている。


(ジャン……あぁモニカ)


 その二つの名前が彼を支配した。


(僕が今日にでも家に戻ればモニカはどうなる? 聖誕祭に出られるだろうか、いや出られたところでジャンは来れないかもしれない。それに戦が始まれば舞踏会どこではない。いつ戻る、いつ無事と分かる。ジャン、今何処にいる! あぁ僕は何と言って彼女の前から去ればいい、彼女を傷つけないで去るには)


 脈絡もなく思考が入り乱れる。「アニスさま」と気遣わしげに声を掛けられても、化粧が終わって次は着替えだと頭で理解できても、彼には立ち上がる気力が起こらない。


「アニスさま、そろそろお食事の時間です。もしお辛いようでしたら部屋に運ぶよう伝えて参ります。お嬢さまには足のお怪我の養生のため、と」

「あぁ……いや、着替えよう」


 そうは返すものの、立ち上がる様子のない彼にピケは「ではお支度が遅れていることを知らせて参ります」と一礼した。彼はその台詞が食事への遅刻をモニカに示すことになると一拍遅れて理解する。しかしはっきりとした拒否は表さず、彼女の離れる気配を感じるままでいた。


(疲れた。無理に戻って来たからだろうか)


 アニスは先程結い上げられた髪も構わず、椅子の背に頭を預けた。ピケが怒るだろうと思うものの、そんなことはどうでもいいとも思う。


(もうお手上げだ、疲れた。ジャンが帰ってこなければ、モニカを舞踏会に参加させる意味はない。王命も取り下げられるなら尚更、彼女に無理をさせることはないじゃないか……ダンスも、食事も。彼女の思うように、好きなようにさせてやればいい。その方が彼女にとっては幸せだろう。ずっと好きな本を読んで、無理などせず……)


 その後、血相を変えたピケが「お嬢さまが寝室に!」と飛び込んできたが、話を聞いた彼はただ、「そうか」と答えただけだった。

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