21.恋人たちが踊る理由

 軽い葡萄酒を嗜み、談笑をして気分が解れたモニカは斜め横に掛けるアニーの髪に手を伸ばした。彼女が人の髪に触れるなど初めてだったが、銀髪はそれ以上に物珍しかった。


「ねぇアニー。これってかつらよね?」


 手袋越しでも分かる滑らかさにまるで本物ね、と驚く。


「え、えぇ。わたくしの金髪では衣装と色が合わず、侍女が苦肉の策で」

「そう。でもとっても素敵、まるで『金と銀』の魔術師さまのようね!」

「わたくしが魔術師。と言うことは、モニカさまは騎士ですが……よろしいのですか?」

「……なんか失礼な言い方ね。貴方騎士さまに何か恨みでもあるの?」


 軽口を叩きつつ、彼女はさらさら滑る銀髪の尾のように束ねた先を指で梳く。とてもきれいね、と素直に賞賛を呟く。そうだわと思いつき、アニーがするように指に巻き付けてみるが真っ直ぐ過ぎて叶わない。何度も試しても上手くいかず、口が尖る。

 ――空腹で飲んだ酒気も手伝ってか、モニカはそのまま髪を触り続けた。


 今、二人は別々のカウチと椅子に腰掛けており、膝の触れる程には近い距離で寛いでいた。アニーはしばらく黙って触られるままでいたが「モニカさまその辺で」とたしなめた。モニカはその押し殺すような低い声にパッと手を離す。

 「あ……わたくしぼうっとして」アニーは「いえ」と短く応え、侍従にグラスを預けた。


(アニー、顔が赤いような。酔ったのかしら)


 アニーは銀髪を慣れた仕草で背に払うと、眉を寄せて彼女を見下ろした。(すごい色気を感じたとピケはのちに語った。)


「そ、そろそろ座っているだけではコルセットが辛いので……ダンスでも如何ですか」

「え? えぇ……でも、わたくし本当に自信がないの」


 心地よい酩酊のせいか、つい素直な気持ちを発してしまいモニカは直後に俯いた。伏せた顔を歪める。


(なんて情けないの。せっかくアニーが準備してくれたのに、自信がないなんて言って)


 ダンスへの不安はしぼんでも、反対に上手く出来ないだろう自分への感情は膨れ上がる。そんなモニカのつむじに「大丈夫です、わたくしがエスコート致しますから」と声が降った。モニカが気を許して顔を上げれば、アニーはにっこり微笑む。

 直後、サッと手を上げた。


(え?)


 アニーの背後で、お仕着せを来た侍女と侍従たちが手を取り合い、四方からホールへと進む。どの顔もうきうきと楽しげに笑みを浮かべ、足取りも軽やかだ。

 ――音楽が変わった。

 三拍子のゆったりとした曲がホールに響き、白と黒の男女が身を寄せ合いステップを踏み始めた。

 侍女の白い前掛に飾られた黒いスカートが広がってはしぼみ、広がっては揺れる。


「みんな……」

「二人きりではわたくしも気恥ずかしいので、皆に協力してもらいました。……それでは我々も参りましょうか。どうぞモニカさま、好きなだけわたくしの足を踏んづけてくださいませ」


 アニーは悪戯に目を細め、手を差し出した。「それとも止めますか?」その煽るような台詞にモニカの負けん気がむくむくと沸いてくる。


(久しぶりだけど……わたくしだって少しは……)


 唾を飲み込んだ。

 無理にニヤリと笑って見せる。それに、と手を伸ばした。


(アニーだからきっと、大丈夫)


 手に手を。


「あらアニー。パイだけでは飽き足らず、足まで踏んで欲しいなんて。望むところですわ、後悔しても知りませんから」

「存分に」


 きゅ、と指を握られる。


「わたくしと踊って頂けますか、モニカ嬢」

「喜んで、ヴィンセントさま」


 立ち上がったモニカは背を支えられ、ホールの中心へと進む。踊っている者たちが察したように場所を空けてくれ、彼らは滑り込むようにして向かい合った。指だけのエスコートだったのが今度は手のひら全体を包まれ、頬もカッと熱くなる。

 正面から背を支えられ、彼女は視線を彷徨わせた。タイを留める銀細工が灯を反射して眩しい。見事なタックの首元も背に回る腕も、ドレスを着ているときよりも逞しく見えて戸惑った。


(どうしてこんなにドキドキするの! 相手はアニーよ!)


 モニカさま、と催促されてようやく、彼女はアニーの腕に浅く手を添えた。


「もっとくっついてもいいんですよ?」


 そう囁いて急に、アニーは体を寄せた。それは胸も額も合わさる程。

 えぇ!? と、モニカが声をひっくり返し仰け反ると、アニーは意地悪げに口の端を上げる。


「揶揄うなんて酷いわ!」

「そうそう、その意気です。さぁステップを」


 小さく拍子カウントを取り始めたアニーに驚き、モニカは慌てて彼女の腕にしがみついた。グイ、と想像していたよりも強く抱えられ、少し遅れて足が動く。


「ほら姿勢ですよ、モニカさま」

「わ、分かってるわ!」


 そう強がっても、二年は踏んでいないステップにモニカは宣言通り何度となくアニーの足を踏んづけた。その都度、叱責が落とされるのではないかと、モニカの肩は跳ねた。妃教育ではそうだったからだ。


(あぁどうして間違えちゃうの!)


 そう焦っては簡単でゆったりとしたステップもこんがらがっていく。足が追いつかずにふらつき、盛大に踏みつける。

 しかしアニーからは何の声もなくダンスは続いていく。それがモニカを戸惑わせ、ますますステップをもつれさせた。そしてまた踏んづける。


(さっきの台詞は冗談でも、こんなに踏んづけちゃったらさすがのアニーだって……)


 モニカは情けなさと羞恥と悲しみで遂に「ごめんなさい」と足を止めぬまま謝った。いたたまれず目も潤む。もう軽く十回は超えた粗相に、どんな叱責も甘んじて受け入れなければと、視線を上げたが。

 アニーは微笑んでいた。

 気にした風もなく楽しげに。そうして「おや、そうでしたか?」「軽いので気づきませんでした」と目尻を下げる。

 泣きそう、とモニカの視線はまた下がった。


「それより、ほら背筋を伸ばすのです。ちゃんと掴まって、そう、しっかり立つ」


 グイ、と背の窪みを強く持ち上げられ、モニカは「わ!」と背を伸ばした。

 視線は上げる、間違えても気にしない、姿勢! と指南役らしいアニーの言葉遣いに、彼女は徐々にダンスに集中していく。


 ステップばかりだった動きにターンが混じった。少しずつ、恐る恐るだったターンでも思い切って足を出せるようになる。

 ステップの間違いが減ってきた。少しずつ曲の速度が上がっていく。

 ターンしてステップして、ターンして――。


 ――銀髪がターンする度に煌めく。


(きれい)


 気づけばモニカは、アニーの反らされた首筋、項や髪や束ねられた髪、時折彼女に話し掛ける唇を見詰めて踊っていた。

足元を見なくとも、彼女を見ていれば怖くなくなっていた。

体は自然に動くようになっていた。

 音楽は明るく曲調もいよいよ速い。もう何度回ったか分からない、とモニカは息を弾ませた。


(楽しい……!)


 モニカの口元に微かに笑みが浮かんだ。


「お上手です、モニカさま」

「アニー……」

 

 声を掛けられ、少しだけ視界を広げた。

 アニーも額に薄ら汗を浮かべて溌剌と笑んでいた。

 ターンが決まった――二人は喜びで微笑み合う。


(物語で……恋人たちがダンスする理由が分かった気がする)


 アニーが殊更ぎゅぅと手を握り、モニカも同じように握り返した。ステップ。動きが決まった瞬間の、心がぴったりと合わさる感覚。ターン。

 呼吸すら同時の、背を支える手の温かさに、彼女はいつまでも躍り続けられる、と思った。




 曲も終盤、モニカは少しずつ自分の脚がもつれ始めたのに気づいていた。


(あぁでももう少し、もう少しだけ……)

 

 せめて曲が終わるまでは、と息を切らして無理をした。「モニカさま、休みましょう」アニーが囁いても、彼女は首を振った。楽しくて、この時間が永遠に続けばいいと。

 いいえ最後まで、と頑なに意地を張った――そのとき。

 膝がかくり、と折れた。

 「きゃぁ!」まさにターンを決めようとしていたモニカは、手を繋いだままバランスを崩した。

 アニーと手を固く握ったまま、どうと折り重なって倒れた。


(うぅ……い、痛……くない)


 ダンス用の硬い床に倒れたにも関わらず、体には痛みがなかった。モニカはハッと目を開け、すぐに自分がアニーを下敷きにしていると理解する。


「あぁアニー、ごめんなさい!」


 周りで踊っていた使用人たちが慌てて駆け寄った。

 モニカはアニーの上で身を起こしかけたが、片手が固く繋がれたままで自由が利かない。踊っていたときは心地よかった汗が、今は不自由に貼りついた二人の間で居心地の悪い湿り気をもたらしていた。

 「モニカさま、お怪我は」ずるずると長いドレスの裾を引っ張り、起き上がろうと苦心するモニカの頭の上を苦しみの滲んだ声が掠めた。ギクリとして、アニー? と呼んでみた。

 する、と固く彼女を話さなかった手が解け、起き上がろうとしたらしいアニーが苦しげな呻き声を上げる。モニカがどうしたの、と問う前に侍女たちが喚いた。

 「アニーさま、もしや足を?」「誰か、侍医を!」侍従が走って行く。

 さっきまでホールを包んでいた愉快な音楽はもう何処にも漂っていなかった。床にうつ伏せたままのモニカに、ざわめきが責めるように押し寄せる。辛うじて上げた視界には、眉根を寄せて笑うアニー。


「だい、じょうぶです。少し……捻った、だけですから」


 アニーはモニカの頬に手を伸ばした。しかしモニカは顔色を失ってただ呆然とアニーを見ていた。僅かに身を寄せればアニーの優しい指が届くと分かっていても、彼女の体は錆び付いたように動かなかった。

――今、アニーの額に浮く汗はダンスのせいではない。見たことのない歪めた顔は痛みを堪えているからだと、モニカの血の気が引いていく。


(わたくしのせいで)


「モニカさまは、どこも?」


 しかし怪我しても尚、アニーは彼女を慮った。モニカは声が出ずにただ何度も肯いた。貴方のお陰で、と伝えたかったが今度は震えが止まらない。


「貴方が無事で、良かった」


 アニーの無理に笑った表情にモニカは喉が詰まった。

 侍従がアニーを抱え上げ、彼女は苦悶の表情で立ち上がる。片足がぶらりと宙に浮いており、足を床に付けられないのだと知る。


(わたくしは……わたくしはやっぱりまともに踊れなかった。調子に乗って見栄を張って、アニーに怪我を……わたくしは)


 「ご心配なさらずモニカさま。またあとで」声が降った。


 しかしモニカは返事ができなかった。

 ホールを出て行く彼女に付き添うことも見送ることも、顔を上げることすらできず、床に座り込んだまま。

 しばらく後、モニカも抱えられるようにして母屋の私室に連れて行かれた。言われるまま着替え、簡単に化粧を落とされ夜着を着せられた彼女は、一言も発さずベッドに入った。


 ――ドロシィが寝室から退室して人の気配がなくなった深夜、モニカはベッドから起き上がった。のろり、まるで幽霊のように立ち上がると、裸足のまま扉に縋りついた。膝を崩し、しばらく涙を落として過ごした。

そして最後、彼女は扉に鍵を掛けた。

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