20.『褒め言葉は素直に』

 本物の舞踏会ならばエスコート役は相手の邸まで迎えに行き、玄関で腕を組んだ瞬間からその役目は始まる。そのため、アニスとモニカは玄関で待ち合わせをする手はずになっていた。

 モニカの私室は二階、ラベリ家のダンスホールは一階でお誂え向きだ。アニスは既にホールの確認を終え、玄関にて彼女の訪れを待っていた。


「……ピケ、やはりかつらは付けた方がいいのではないか」

「いいえアニーさま。ロティアナさまも仰っておりました、『美のために完璧を目指せ』と。お嬢さまには、衣装に合わせた鬘にしたと」


 そんなバカな、とアニスは唸った。

 モニカのドレスがなかなか決まらず、伴って彼の衣装も直前になってしまったのがそもそもの原因だ。

 「お嬢さまのドレスが決まりましたああぁぁ!」息を切らしたキャリが転がり込むように彼の客室で叫ぶと、「いくらなんでも遅すぎますわ!」とピケが咆えた。「アニスさまッ!」鋭く呼名され、彼は悪魔の如き形相のピケから容赦なく美の追究を受けた。

 ――ホセ国では、エスコートとダンスのペアを兼任する場合、衣装の色味が合うように工夫するのが粋であるとされている。隣に並んだときお互いに最も美しく見える衣装を身に着けるのだ。キャリがモニカのドレスを伝えに走ったのも、ピケが苛々とそれを待ち続けたのも衣装の色味を合わせるためだった。

 しかし着付けてみれば、薄い金髪ではパッとしない仕上がり。急なことで男性ものの背広タキシードや小物もそこまで種類がなく、困ったピケはえぇーい! と鬘を取り払った。眼鏡を取るか鬘を取るかどちらになさいますか、と迫られ、彼はその麗しい銀髪を晒すことを決断した。


「今夜はお嬢さまを絶対にお幸……完璧にリードして下さいませ、アニスさま!」

「分かっている。彼女が舞踏会に参加できるかは、今夜に懸かっているだろう」


 今夜のアニスは白の尾を引くような背広に、揃いのボトム――例の下衣を身に着けていた。ドレス決定の知らせを受け、金ボタンのシャツは脱ぎ、貝細工の上品な彩りが光るやはり首を隠すシャツ――フリルはなく、幾筋も見事な折目タックが走る逸品――に通常よりもささやかな詰め物の膨らみ。そこに濃紺のスカーフタイ、白銀のピンが胸元とタイを繊細に繋ぐ。

 ピケは鬘を取り払った瞬間、「これは勝ったわ……!」と謎の勝利宣言をしたが、アニスは聞かなかった振りをした。

 玄関ホールに控える数人の侍女はあぁ『最後の貴公子』よ! とため息を吐き、侍従たちはそのどこか女性らしいシルエットに直視を避けた。ピケの言を借りれば、(略)……素晴らしい出来だ。


 彼は使用人からの視線を感じながらもただモニカを待っていた。


(姉さんではない女性をエスコートするのは、初めてだ)


 そしてそれがモニカであることに、彼は鼓動の速まりを抑えられない。


(夜会も舞踏会もただの義務。楽しいと思ったことも、待ち望んだこともなかった)


 しかし今は、と彼は二階の踊り場から目を離さずに苦笑を浮べる。


(女性を待つ間が、こんなに楽しいとは)


 ――そのとき、先触れの侍女が踊り場に姿を現わした。こちらにひとつお辞儀をし、後ろに下がる。

 刹那、「あ」と声を上げたのは誰だったか。


 濃紺の、まるで夜を纏った如きモニカの姿。

 アニスは息が止まった。

 自然に広がるスカートには刺繍かと思われる繊細なレースが施され、濃紺の重みを軽やかにより美しく飾っている。勿論、彼女の肌の白さを強調して。

 彼女の貝のような耳と首筋、肩までが煌々と灯された火に白く晒されていた。きっちりと編み込まれ結い上げられた髪は、磨き上げられた黄銅そのものの輝きを放つ。頬の横に流された一房が彼女が段を降りる度、緩く艶やかに遊び、目を奪う。

 階段を中程まで降りた彼女に、アニスは我を取り戻し歩を進めた。

 先程までの鼓動の高鳴りは気のせいだったのかと感じる程、早鐘を打つ心臓を彼は内心で叱咤した。しかしそれも敵いはしない。

 彼女は余りにも美しかった。


「モニカ」


 知らず、二人だけの密やかな呼び名が口からこぼれた。

 アニスが段を上がってくると知ったモニカは足を止め、小さく「アニー」と応えた。その照れ隠しに尖った唇と何か縋るような瞳を向けられた彼は、走り出したい衝動を抑えなければならなかった。踏みしめる段を一つ上がるごと、遠目に見ていた彼女が鮮明になっていく。

 肩口から大きく襟ぐりの空いた胸元。触れずとも柔らかく滑らかと分かるその白さ、無垢。

 首元に浮く鎖骨、首筋にけぶる金の後れ毛の慎ましさ。

 血色のいい頬、そして薄紅を乗せた唇は口づけを期待するかのように可愛らしく尖っている。


(まずい)


 何がまずいのか分からぬまま、彼は彼女を見詰めながらその一段下まで辿り着いた。

 「アニー」と、再び囁かれ彼は舌打ちしかけた。


(そうだ、僕は『アニー』だ。今は女性、落ち着かないと)


 呼吸を整える。危うく額どころでない場所に口づけしたくなったのを悟られぬよう。

 「どうぞ、お手を」彼女に白手袋で覆った手を差し出し、エスコートの役目を全うしようとした。


「ぁ……ありがとう」


 ヘーゼルが溶けるように笑んで、手が手に重なった。

 そ、とごく薄いレースの手袋に包まれた柔らが触れた刹那、知らずアニスはその甲に口づけていた。

 ひゃ! と上がった鈴の音と同時、彼は眉を寄せた。


(手袋が邪魔だな)


「ああぁ……あの、そのアニー……?」


 彼は彼女の戸惑いに、手を戴いたまま彼女と視線を絡めた。へぁ、と再びおかしな声が上がったがそれには構わずもう一度唇を押しつけ、エスコートのために指を繋ぐ。

 布越しでも名残惜しく、彼は下手に口の端を上げた。


「行こうモニカ」

「は、ハイ」


 アニスは片言で返したモニカの斜め横に並び、ゆっくりと手を引いた。細心の注意を払って。彼女も心得て後に付いてくる。


(しかし僕は『アニー』だが今夜は男性役でもある……エスコートの範囲内なら)


 範囲内なら何なのかは具体的に考えないよう、彼は繋ぐ指をきゅっと強める。


 ――階下では使用人たちが観客よろしく整列して注目しており、本物の舞踏会よりも視線を集めていた。階上からはモニカの支度を終えた侍女たちも同様。

 彼らの中にはアニスとモニカの睦まじい姿に感激の涙を滲ませる者もいた(ピケだけは複雑な表情を浮かべていた)が、二人はそれには気づかない。時折、横目で視線を交し合いそれぞれ照れ隠しの表情を浮かべるのに忙しかったからだ。

 そうして一階に降り立ったときには侯爵令息たるアニスの鼓動も落ち着きを取り戻し、彼は彼女にごく自然に微笑みかけることに成功した。


「ホールへ参りましょう。軽食も準備してあります」


 するとモニカも憎まれ口を叩く。


「……コルセットがキツくて何にも食べられないわよ。ドロシィったら酷いんだから」

「ふふ、わたくしも相当絞られてますよ。モニカさま、腕を」


 アニスはモニカの肩の力が抜けたのを見、「どうぞ」と慣れた仕草で腕を持ち上げた。未だ赤味のとれないモニカはおずおずと促された腕に片手を添える。ホールまでは腕を組んで歩くのだ。

 「ね、アニー?」不意にモニカが彼を見上げた。


「どうされました」

「あの……わたくし、エスコートしてもらうの初めてなの……あ、知識としてはもちろん知ってるわよ! 腕を組んで歩くって分かってるし見たことだって!……でも、初めてだからその……どのくらいくっついて、いいの?」


 「こうかしら」殆ど腕を抱えられ、彼は咄嗟、引っ張られて体が傾きドレスの裾を踏まないように苦心した。可愛らしいがこれでは歩けない、とやんわり距離を取ろうとして視線を下げる。その瞬間、濃紺の縁に押し込められた柔らかな胸元が彼の目を潰しにかかった。

 見てしまえば、己の腕に当たる感触がそれだと意識せずにはいられなくなり、膝を崩しそうになる。視線は顔に固定するよう努めた。


「もう少し、離れて下さっても……ドレスを踏みつけてしまいますので」

「そうなの? じゃぁこう?」


 腕に当たる胸が離れ、彼は息を吐いた。安堵と寂しさの狭間で理性が迷子だ。

 姉とは粛々とエスコート役に徹するだけで、僅かでも甘やかな想いになったことはなく、稀に他の女性とダンスをするとなっても胸元など気にしたことがなかったのだが。


(気にしてはいけない、僕は指南役に徹しなければ。初めての舞踏会を想定して紳士な態度で……)


 しかしこれくらい? と未だドレスの裾を気にして腕を伸ばしたり縮めたりするモニカの真剣な横顔を見留め、彼は頬と共に決意が緩んだ。


(可愛過ぎやしないか)


 腕にぺたぺたと触れる手をやんわり外した。


「え?」

「ではこうしましょう」

「ひゃぁ! あ、アニー!」


 自由になった彼の腕は彼女の背を這い、指はするりと脇腹に引っ掛かった。抗議の声は無視し、逃げるように捩る相手をより引き寄せる。


「ほらそちらの手でドレスを持ち上げて」

「ちょ、待っ。アニー近いわ」

「大丈夫ですさっきと変わりません」


 いいから、と今度は手を背の窪みを押して強引に前に進む。進めばモニカも慌ててスカートを掴んだ。彼女の空いた手を取り、程よい距離を取る。歩幅を合わせる。

 先程は『大丈夫です』などと嘯いたが彼もまた、その近さに高揚する気持ちを抑えるのに必死――自業自得だ。

 ふ、と髪の香りが届く。その度に紳士に支えるだけの手が脇腹の方まで伸びたいともっと引き寄せたいと動きそうになる。


「アニー?」

「何ですか」


 何処か甘えを含む鈴の音に胸が震えた。


「わたくし……初めてエスコートされるのがアニーで良かった。まるで本物の男性みたいでその、す、素敵よ」

「………………それは光栄です」


 危うかった。彼の理性は風前の灯火だ。すぐそこに目的の部屋を認めていなければ、侍従がそこに立っていなければモニカの真っ赤な耳をどうにかしてしまったかもしれない。

 ――ダンスホールの扉は大きく開け放たれ、彼らを歓迎していた。

 

     ◇ ◇ ◇


 モニカはいつもより間近に感じるアニーの横顔を盗み見、あぁ踵の高い靴を履いてるからだわ、と渦巻く混乱の中でそう思った。隣に並び立つアニーはまるで本物の男性のようで、彼女は階段でエスコートされた瞬間から痛い程に心臓は跳ね続けていた。

 素敵よ、と絞り出した言葉は心に浮かぶほんの一部分でしかなく、その膨張し続ける想いを口から漏らさないように努めていた。


(手袋してて良かった! 緊張して汗をかいてるのがバレちゃったら恥ずかしいもの……でも待って待って、素直に腕を組ませてくれればいいのにわたくしどうして背中を押されてるの? だから変に汗をかいちゃうんじゃないのお化粧がとれたらどうしてくれ…………でも確か夫婦のペアは背中じゃなくて腰を……わあぁぁダメよ背中でいい、このままでいいわ! てか夫婦を引き合いに出してどうするのわたくし!)


 ホールは盛大に火が灯され、二人の他は招待客がいないことが不思議な程、料理も音楽も本物の舞踏会のように整えられていた。壁に沿って並べられた銀食器、小さく彩りの美しい料理、ゆったりと掛けるためのカウチや椅子。部屋の隅では侍従たちが楽師を装って楽器を奏で、ホール中央の大きなシャンデリアはちかちかと火を部屋中に撥ね返らせている。


 ――その久しく感じなかった雰囲気にモニカは僅か緊張を走らせた。アニーの促す方へと足はついていくものの、湧き上がる不安に眉を下げる。

 それでも真っ直ぐ連れて行かれた先がローテーブルのあるカウチと気づくと、晒した肩から力が抜けた。腰掛けるよう促され、彼女はふぅと息を吐いた。


「アニー、踊るんじゃないの?」


 長く添えられていた手が離れて、ぬくもりが遠のいていく温度にもぞつきつつ問う。座ってしまったら立ち上がりたくなくなりそうだった。

 侍従から飲み物を受け取り、立ったままそれを彼女に差し出すアニーは「踊りますよ」と余裕ありげに微笑む。


「まずは少しお話でも。実際の夜会でも舞踏会でも、初めは挨拶やうんざりする会話から始まりますからね」

「それも、そうね……」


(アニーはわたくしがダンスが得意でないのを知ってるから……本当に優しい。え、ちょっと待って! どどど、どうしようアニーが素敵すぎてわたくし向かい合って会話する自信がない……!)


 今夜のアニーは髪の色さえ変えていて、じっと見詰めるにも憚られる程。白い尾の長い背広タキシードは背の高い彼女にぴったりで、ボトムを履く立ち姿は男らしい。モニカのドレスに合わせた濃紺のタイは髪とお揃いの銀細工が揺れて、男性らしいのに繊細な印象を与えていた。


(あぁもし、アニーが本当の男の人だったら)


 ドクン、と強く跳ねた鼓動に、彼女は激しく首を振った。わざと落とした一房が頬を叩き妄想から呼び覚ます。


「そんなに首を振っては、せっかくきれいにした髪が乱れてしまいますよ」


 つい、と細長い指がその一房に絡んだ。くるり慣れた手つきで指に巻き付ける。

 目の前で上がる口の端に、モニカはカッと頬が赤らむのを自覚しながら大人しくされるがままだ。


(どうして恥ずかしいの……! いつもされてることなのに)


 上目で見上げれば、指で遊んでいた髪をすくい上げていた。

 近づく端正な顔。

 銀の髪がアニーの肩からさらりと滑った。しかし彼女の見開いた目に映るのはガラス越しの長い睫毛――。


「『今夜の貴方は特別、美しい』」


 髪に落とされた唇はかすかな音を立てた。


 モニカはぶわッと首まで赤く染め上がる。


(…………な、な、なななな何!? どうしちゃったのアニーィィィ! それに今のは『夜薔薇』のラングの台詞じゃない! あの無口なラングが渾身の褒めを繰り出してぐっさり刺さる、ラングにときめいちゃうシーン! ハッ! そうよこれは社交辞令よ! い、今言ってたじゃない、うんざりする会話から始まるって!……と言うことは、今のはやっぱり社交辞令、ってこと……だもの……)


 そう思い至り、彼女はアニーの引用した台詞にも合点がいった。


(アニーは、わたくしが喜ぶ男性のエスコート役をしてくれてるんだわ)


 それならわたくしも余裕を見せなければ、と繕い笑いをし礼を返そうとした。しかし結局口から転び出たのは別の言葉だった。


「……ほんとう?」


 幼い問いなってしまい、モニカは咄嗟、恥ずかしさに顔を逸らした。そしてありふれた賞賛を笑って聞き流せない自分がバカみたいだと、悔しくて俯きかけた。


「本当です」


 頬に絹の感触。アニーはそっと、しかし有無を言わさぬ力加減でモニカの視線を戻した。


「少々気恥ずかしくて小説から台詞を借りてしまいましたが、本心です。今夜の貴方は、今まで見たどの女性よりも可憐で……可愛い」

「アニー……」

「それに、お支度も頑張ったのですね。ほら、こんな見えない場所まで」


 アニーは、薄く透けるレースに包まれた彼女の爪をそっと撫でた。可愛らしいです、と低いアルトが響く。


(嬉しい……)


 モニカは待ち望んだ言葉と、分かってもらえた感激でただ肯いた。


「ふふ。モニカさま、まだ信じられないなら、もう一度口づけます?」

「なっ、もっもう! 結構よ!」


 アハハ、と珍しく声を上げたアニーに、モニカもつられて吹き出した。ひとしきり笑い合ったあとには、ダンスに対する不安など何処かへ行ってしまっていた。


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 恋愛小説メモ

『夜薔薇』より引用

『今夜の貴方は特別、美しい』

主人公の本命ダーニャに茂みに誘い込まれる前、ラングが放った会心の一撃。しかしその時点で主人公の心は既にダーニャに傾いていることを読者は知っているため、「作者は鬼畜だが神」とラング派が天に祈りを捧げたと有名なシーン。

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