19.『支度は入念に』
※もうお察しの方もいらっしゃると思いますが、下衣は
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男性の如く一つに結われ、背に流した金髪。首元を隠す金ボタンのシャツには、淡い藤色のスカーフタイ。少しばかり詰め物の量を減らした胸を包む、白の光沢のあるジレと
「あぁアニス、完璧よ! 何てこと本当に素敵だわ!……そうよわたくしも何とかアナベル姉さんからお役目をねじ込んで……貴方とラベリ嬢の寄り添う姿を見られるように取り計らってもらおうかしら」
「姉さん……これ意外に動きづら」
「何を言っているのですかアニー=ヴィンセント! 貴方はもはや髪の毛一本まで女性なのです。美しさのためには試練は付き物と言って聞かせたのを忘れたのですか。愛を勝ち取るためなら、少しくらい下衣がキツくても弱音など吐かないものです。それに男性用のボトムを履いてアレが目立って男とバレてはいけないと思ったわたくしの見立ては間違っていませんでした。特別に
「アニスさまああぁぁもうずっとそのままで(以下略)」
――
「……さっきまでお客さまがいらしてたそうね、アニー」
「え、えぇ。誰からそれを?」
思わず尋ね返してしまったアニスはモニカのその淡桃色の唇が僅かに尖り、怒りというよりはいじけを露わにしているのに気づいた。動きを止める。
(……怒った顔まで可愛く見え始めてしまった)
しかし彼の真意を知らない彼女はツン、と顔を逸らして目を伏せた。
「朝食のあとすぐにお昼寝をしてしまったから昼過ぎには起きたのよ。夕食前に書斎に行ってみたのにいなかったんだもの。……随分、楽しそうな声が廊下まで響いてたじゃない」
「部屋までいらしたのですか!?」
そうよ、と黙り込んだモニカの唇は遂にへの字になった。その機嫌の悪さによもや姉を見られて何か勘づかれたかと、冷や汗を禁じ得ないアニスはつい早口で捲し立てた。
「それは失礼致しました。実はその……姉が急に訪ねて来たものですから、思い出話に花が咲いてしまって」
「えっ。お姉様? お友達ではなかったの!?」
驚きの声を上げた彼女に慌てて肯き、彼は「えぇ。年の近い方の姉ですわ」と答えた。まるでリスが悪戯されて目を丸くしているような表情に、彼はようやく硬直を解く。同時になぁんだ、と小さな呟きが届いたので心底安堵して席に着いた。
(友人が来たと思っていたのか。何故それで機嫌が悪くなったんだ?)
そっとモニカの顔色をうかがえば、への字が解消され何やら口元が緩んでさえいる。
(……騒いでいたのは姉さんとピケだが、扉越しでは声まで判別できまい。煩くて気分を害したか)
いくらか疑問は残るものの一応の溜飲を下げた彼は、ダメ押しで詫びを入れる。こういうことには何度謝っても損はないと、姉から学んでいたのだ。
「滞在も長くなってますので、手紙だけでは心配していたようです。一応、離れにも知らせてはいたのですが」
「……聞いたけど、午前中のことだったからもうお帰りになったと思ったのよ。でもご家族なら別に構わないわ」
「寛大なお言葉ありがとうございます」
「もういいわ頂きましょう」と、珍しくモニカが配膳の指示を出し、夕食は始まった。
あっさりとしたスープ、小さな焼きたてのパン、皮目を香ばしく焼いた柑橘ソース仕立ての魚料理。その全てをモニカはゆっくりと時間をかけて平らげた。最近の食後のデザートは、彼女の要望で軽めのものに変わっている。さっぱりとした口当たりの氷菓子や果実をくふふ、と嬉しそうに口に含む彼女は健康そのものに見えた。
毎日顔を合わせるアニスの目にはそうと映らないが、モニカのむくみは改善し全身が僅かに痩せてさえきていた。睡眠時間も改善しており、頬も健康的な赤みが差している。
(今なら機嫌がいい。……始めるか)
アニスは静かな深呼吸ののち、スイと手を上げて侍女に退室を促した。ピケが「外に控えております」と耳打ちしたのを最後、侍女たちは素早く引き上げていった。
「どうかしたの、アニー。人払いなんて」と不思議そうに問うモニカに微笑み、彼は立ち上がった。既に食後のお茶を飲み終えていたので、無作法には当たらない。
「モニカさま、これを」
彼は美しい飾り文字で書いた“招待状”を彼女に差し出した。先程までピケが保管し、今し方テーブル下で手渡した物だ。紗で編まれた赤リボンが結ばれ、正式な形式に則った代物。差出人はアニー=ヴィンセントだが、いつもの私的な茶会のお誘いではないことは一目瞭然。
モニカは訝しげにデザートスプーンを置くと、手を引っ込めて彼をただ見上げた。
「リボンなんて掛けてあって、まるで舞踏会の招待状みたいね」
「そのまさかですわ、モニカさま。明日、わたくしと舞踏会を致しませんか?」
へ? と間の抜けた声を上げたモニカに彼は口の端を上げ、素直に肩に下ろされた巻き毛をそっと撫でた。夕食前に少量の香油で整えたのだろうか、しっとりとした指触りに彼の指はわざとくしゃくしゃにしてやりたいと動きそうになる。
モニカはアニスに不安気な瞳を向け、黙った。彼は優しい口調で声を降らせた。
「もちろん二人だけですよ。給仕の関係で侍女たちは控えますが、招待客は貴方だけ。わたくしとダンスをするのはお嫌ですか」
「! 貴方と?」
「えぇ。わたくしエスコートには定評がありますの」
彼は我慢できず、彼女の耳の後ろから手を差し込んだ。襟足――産毛の生え際を擦り、指に髪の絡む心地よさに目を細める。彼女はかすかに身じろぎするものの嫌がる様子はなく、目元を染めて潤ませポツリとこぼした。
「……でもアニーは、女性でしょう? わたくしとダンスなんてできないじゃない」
「ふふふ、ご心配なく。わたくしくらいの指南役になれば、ダンスのリード役など目を瞑ってでもできますわ」
「……本当?」
「えぇ。きっと楽しいですわ。一緒に踊りましょうモニカさま」
アニスの微笑みにも、肩を竦ませたままの彼女が顔を俯けたので、彼の手は自然と背の方へ滑った。その軌道によって髪の隙間に白い項が見え隠れし、彼の目は灼かれた。見られていないのをいいことに少しく仰け反る。
キツく眉を寄せ、怪しげな動きで這いたがる
「もちろんお返事は明日でも。ゆっくりお考えになって下さい」
受け取ってもらえなかった招待状をテーブルに置き、彼は半歩下がった。
(二人きりはまずい)
ではわたくしはお先に、と退室のため彼女の傍を離れようとしたときだった。くい、とスカートが引っ張られる感覚。彼はすぐに足を止め、振り向いた。
――上目使いのヘーゼルが殆ど泣きそうに彼を見ていた。
「アニーとなら、わたくし踊りたい」
アニスはその直後「今夜は仕事がありますからここで」と衝動的に『就寝の挨拶』を彼女に落とし、退室した。
◇ ◇ ◇
遠くでカーテンの開く音がした、とモニカは思った。
「お嬢さま、そろそろ起きて下さいませ」
「うぅ……ドロシィ?」
もう朝なの? と、モニカは掛布から顔を出した。しかし明るすぎる室内に再びもぐり込む。酷く眠く、自分がなかなか寝付けなかったことを思い出した。
(だってアニーが書斎に来ちゃダメって言ったから)
昨晩から何度も唱えた言い訳。夕食中に『挨拶』して退室するなんて! と彼女は内心で、いやシーツの中で唇を尖らせた。額に落ちた口づけに落ち着かなくなって、デザートが進まなくなったのは棚に上げて。
眠気が揺蕩うのと共に、昨日の記憶がまぶたに鮮明に浮かんでは消える。
(わたくし、婚約の話題でアニーと会うのが気まずくて……でもお昼寝から覚めたらどうしてもアニーの顔が見たくなったのよね……そしたら友達が来てて。アニーたちの楽しそうな笑い声で悲しくなって……あぁそうよ、でも会いに来たのはお姉さまだった! どうしてわたくし、あんなに落ち込んだのかしら……そう、それで招待状をもらって……アニーとダンスをすることになって……『夜薔薇』のダンスシーンを読み返してたら眠れなくて)
掛布とシーツの間は、自分のぬくもりでこの上なく心地よかったが、昨晩は久しぶりに体を洗わないで寝たせいか、自分の汗の匂いが気になり始めた。髪もべたついている気がする。
(あら?……もう明るいってことは、朝よね……朝食!)
ガバッと起き上がったモニカは「ドロシィ!」と叫んだ。
「お風呂入らないと! 朝食に間に合わないわ!」
「……お嬢さま落ち着いて下さい。大丈夫です、今朝のご朝食はお部屋でお召し上がり下さい」
「なんでよ! 食堂でアニーが待ってるでしょう?」
いいえ、とドロシィは重々しく首を振った。
「モニカさまはともかく、アニーさまも舞踏会のお支度を甘く見すぎておりましたので、
バラバラッとキャリを含めた数人の侍女たちがモニカの寝室に入り込んだ。ドロシィが鋭く采配を下す。
「まずはお風呂、そのあとは全身を
「はいッ。さ、お嬢さま」
「ちょ、ドロシィ待っ」
「二年分の老廃物……フフ腕が鳴りますわ」
そうだったドロシィは揉み上げの達人だった、とモニカは蒼白になった。
(すっかり忘れてた……舞踏会の支度のこと……)
半ば強引に浴室へと連行され、何年かぶりに体を洗われる。隅々まで、そう隅々までたっぷりとした泡で撫で回され、湯に入れられた。
アニーとの晩餐のときでさえ、全て自分で体を洗っていた彼女は恥ずかしくて堪らない。侍女には湯だけ張ってもらい、ひとりで入る習慣が染みついていたのだ。
いいわ自分で、と何度か主張するも誰も耳を貸しはしない。もう何度目か喚きかけた彼女に、侍女たちは視線を交し合い肯き合った。
「……お嬢さま、これは負けられない戦いなのです」
「た、戦いって……うぅ」
頭から温かな湯を掛けられたモニカは咄嗟に目を閉じ、顔に張りついた髪の不快さに呻いた。しかし侍女の熱を帯びた台詞は続く。
「よろしいですかお嬢さま。舞踏会は男と女の美の戦場ッ! 例えお遊びであろうとも『舞踏会』と名の付く催しに手を抜くことは許されません」
「お嬢さま、観念しちゃいなよぅ。すんごい綺麗にしてアニーさまを驚かせたら勝ちってことですよぅ!」
「キャリまで……」
(アニーを驚かせる? 無理よ。あの美しい人をちょっと着飾ったくらいでびっくりなんて……させられる訳、ないわ。わたくし、美しくないもの)
薄目を開けた先にぼやけて映る、自分の手足。彼女は丸っこい手が嫌で、胸の前でぎゅっと握り込んだ。アニーの細く長い指が思い出されて苦しい。
これまでアニーと比べまいと、考えない振りをしていた容姿を持ち出され、彼女は身を縮めた。ジャノルド殿下の台詞さえ聞こえてきて、泣きそうになる。
「あ、お嬢さま、無理とか思ってますね?」
「キャリ、お嬢さまに失礼な言い方は止めなさい!……お嬢さまは本当にお綺麗ですから、自信をお持ちになってください」
「そうですよ、ほらこの白い肌! 晒しましょう! もう絶対釘付けですよ」
「髪も今、特別な油をすり込みますわ。きっとアニーさまよりも艶が出て光り輝きますよ」
(アニーより?)
モニカは顔の水分を手の甲で拭い、ぱちぱちっと目を開けた。キャリがそばかすを寄せ、湯船のあちらから楽しげに笑っていた。
「きっとアニーさま、びっくりして腰を抜かしちゃいますよぅ。フフ……あちらも気合い入れて来るみたいですから負けられませんよぅ、お嬢さま!」
「気合い……?」
「それに、アニーさまはお嬢さまのことがお好きですからぁ、絶対褒めて下さいますよぅッ」
「こらキャリ!」
(好き? 褒めて?)
彼女は「わ!」と頭を抱え、背中すら真っ赤に染めた。
(……やっぱりアニーより美しくなるなんて、無理よ。絶対! で、でも。でもでもでも……また、可愛いって言ってもらえるかもしれない。ダンスも……授業の一環だって分かってはいるけど、本当は嬉しかった。頑張ったら……ホントにびっくりしてくれるかしら)
「褒めて、くれるかしら……?」
そう漏らしてすぐ、彼女は自らの発言に羞恥した。耳を火照らせ、全身を濡らしたまま身を震わせて。
キャ――ッ! と浴室に侍女たちの黄色い声がこだまし、ドロシィが何事かと駆け込んできたのは数瞬後のこと。
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