16.『おやすみはお好みで』
読書に集中していたモニカは、肩に落ちる髪の先がそっと持ち上げられた感覚で我に返った。物語の世界から急速浮上したので、相手をぼうっと見返した。
すると、はらりと落ちた彼女の髪が一房耳に掛けられる。
その指がつぅっと耳朶の裏をくすぐっていった――のは気のせいよ、と彼女は震えを我慢した。
見下ろす金髪眼鏡のアニーはどこか意地悪げに口の端を上げていて、思わず唇が尖ってしまう。はしたないと分かっていても、最近どうにもこの調子だ。照れ隠しに鼻に皺を寄せる。
「なによ、アニー。いつもより休憩が早いんじゃない?」
「一区切りついたので。寝る前にお茶とおしゃべりを如何ですか、モニカさま」
「……頂くわ」
不承不承を装ったモニカに、アニーは目尻を下げるとお茶の準備を始めた。
読み返すのが三度目の『
アニーが体調を戻してようやく数日。
二人は昼か夜、いつと定めなくとも書斎で落ち合うようになっていた。書斎で過ごす間は、侍女や侍従は機密書類の関係で書斎の中に控えない。どうせアニーは積み上がった書類に目を通すのに必死で、モニカは暖炉の側の
もちろんモニカも書類のある執務机には近づかないと厳命されていた。アニーは仕事中だけは表情が厳しく――まるで父上みたいだわ、と思う程に眉間に皺が寄っている――以前うっかり近づいて騒動を起こしたことも記憶に新しいので、書庫と天鵞絨張りの椅子を大人しく往復するよう努めていた。
加えてモニカが書斎を訪問するには、離れと母屋の間を歩いてくるほかない。
その往復は、彼女にとっては結構な運動量だ。だから一度書斎に落ち着けば、アニーの執務時間が丸々読書時間になった。
殊に夜。
――モニカは、夜に温かいお茶を飲んで離れに帰るとすぐに眠気が来ることを知った。これまで夜に眠ることが少なかった彼女からすれば不思議な現象だったが、朝の支度が辛くなくなるのは大変ありがたいことと、受け入れた。
そしてアニーが『体が温まって冷えると眠くなるのですよ』と説明したことでも納得を深め、彼女は毎夜、夜のお茶会を楽しみつつ健やかに寝るようになっていた。
二人きりの時間は、アニーにも明らかな変化をもたらした。母親か、と思うくらいには甲斐甲斐しいのだ。
休憩と称してお茶を飲ませ、足先が冷えて椅子の上で膝を抱えていれば
「寝惚けて外を歩けば風邪を引きます」と、母屋のモニカの私室を調えさせ――暖炉に火を入れ、いつでも午睡ができるよう毎日準備させる甘やかしぶり。彼女は、夜は寒くても必ず離れに戻るものの、実は宿泊もできるようになっていた。
もちろんモニカもその快適さにまんざらでもないのだが。
(まるで子ども扱い……もうどっちが
それと分からぬよう采配する細やかさには感謝こそすれど、負けん気が邪魔して素直に喜べない。そしてアニーの手の動きひとつで心得て動き出す使用人たち。モニカはただそれを甘受するだけの生活に罪悪感のような居心地の悪さがあった。
(アニーさまは本当に優秀な方。気遣いもお仕事も……それに比べてわたくしは)
お茶の席や読書の合間、暖炉の火の前。自嘲や敗北感に眉を下げるモニカに対して、アニーは躊躇なく触れてくる。
頭を撫で髪をすくい、頬を温める。
「モニカさま」と優しく呼ぶ声。
そこには家族や恋人――モニカは交際は未経験だが、恐らくそうだろうという妄想で培った確信があった――への温かで深い情が感じられ、モニカは心地よさについ流されてしまう。アニーから『お慕いしております』と告げられたあの日から、彼女はもうアニーなしの生活は考えられなくなっている。
しかしその自嘲も敗北感もアニーに対する慕わしい気持ちも、そして少し先の考えたくない未来――聖誕祭以降のことも、モニカはこれまで通り
ジャンとの婚約のことでさえ。
「モニカさまに『アニー』と呼ばれると、親しくなった気がして嬉しいですわ」
モニカはその声に咄嗟に照れ、アニーは頬を緩めた。
――昨日のお茶で『
『是非アニーとお呼び下さいませ』と。
「……でもわたくしだけ呼び捨てにするのはやっぱり不公平よ」
「と言うと?」
「べ、別にわたくしのことも『モニカ』とお呼びになったら? もうお、お友達のようなものでしょう」
定番になってきたヘレンゲル領のお茶に顔を隠し、モニカはもごもごと答えた。
(わたくしったら、もっと素直な言い方をすればいいのに! だって、わたくしばかり親しく思ってるみたいだもの……)
ふふ、と慎ましい笑い声が聞こえ、彼女はそっと顔を上げた。いつまでもカップに隠れてるのも変に思われるからだ。
ローテーブルのすぐ側に置かれた燭台の火が、困ったように目を伏せるアニーの睫毛に長く影を作った。夕食後だというのに着替えていない彼女は、手首までを覆う貞淑で華やかなレースの袖を熱心に見つめている。
その余りに長い時間を悩む様子に、彼女は少々泣きそうになった。嫌なのかしら、と悲しくなって目を伏せかけたとき。
「モニカ」
普段より少し低い声の響き。
モニカは驚きでひくっと体を揺らしてしまい、お茶をこぼしそうになる。あちっ、と大げさに声を上げた。
「大丈夫か!」
慌てたアニーがテーブルをまわって駆け寄り、カップを取り上げた。橙色を反射する分厚いレンズが光った。
「火傷は!?」迫るアニーに、モニカは「いえ、ないわ」と答えるので精一杯だ。
「全く危なっかしい……本当ですか、どこかヒリヒリしませんか」
「大丈夫、よ」
(アニーさまってば……時々男性のような物言いになるの、反則だわっ)
彼女は叱られかけたことにしょんぼりと肩を落としつつ、内心でそう叫んだ。
高い鼓動が外に漏れている気がして落ち着かない。
いつの間にか彼女の手は、立ち上がったままのアニーに捕らえられて一本一本検分されていた。長くて細い指が手のひらや指の柔らかいところをなぞるので、彼女はくすぐったくて身を捩った。
「ちょっと、アニー! そんなに見なくたって大丈夫よ。どこも痛くないわ」
「そうですか? では痛みが出たらすぐに教えて下さいね」
最後にもうひとつくすぐって、アニーは残念そうにモニカの手を解放した。そしてスカートをさばき、席に戻ると「お茶が冷めてしまいましたね」と呟いた。
それが酷く悲しそうに聞こえたモニカは、慌てて残ったお茶を呷った。
「あぁ冷めてるのも美味しいわね……! 少し熱かったから丁度いいわ」
少し渋みの出てしまったお茶を一気に飲み干す。とは言え、香気は華やかで難なく飲める美味しさだ。夏は冷やして飲んでも美味しいかもしれないわね、と閃きに視線を上げたとき。
アニーがサッと口元を隠して顔を背けた。
(何よ、そこはわたくしの気遣いに喜ぶべきでしょう。なんでそっぽ向くのよ!)
自然と唇が尖っていく自覚に、彼女はわざと口を引き結んだ。これ以上無様な姿は見せたくない。それを知ってか知らずかアニーは取り繕うように「モニカさま、失礼いたしました」と頭を下げた。
モニカは何に謝罪されたのか分からず、不機嫌顔のままで応じる。
「謝られることなんてないわ」
「いいえ……やはり呼び捨てはやめましょう。先程も驚かせてしまいましたし、わたくしも少々、平静ではいられませんので」
「そうなの?」
そうなのです、とため息交じりに言われればモニカも肯く他ない。唇から皮肉が飛び出るのは仕方がない程には、彼女はがっかりした。
「まぁいいわ。別にどうしても呼んでもらいたい訳じゃないもの」
「……何だかそう言われては、わたくしも悔しい気がしますね」
「あら、わたくしはお好きになさって、と言ってるじゃない」
(もう! 面倒な方ね! 呼びなさい、と言ってしまおうかしら)
アニーが悩む様子を見せるのは珍しいことと分かっていても、モニカは焦れた。
「ではこうしましょう」
アニーが難しい顔で言った。
「就寝前の挨拶だけ、そうお呼びするのは如何でしょうか。やはり侍女たちの前では身分差を守る必要はありますし、気恥ずかしいですから。扉を開ける前、『おやすみ』のときだけに致しましょう」
(『おやすみ』の挨拶……? それって、まるで家族みたいだわ)
戸惑うモニカに、アニーは首を傾げて返答を促す。無理ならいい、とその下がった眉が語りかけているよう。
だからモニカからは素直な声が出た。
「……わたくしは、何て挨拶を返せばいいの?」
純粋な疑問。もう長いこと両親と就寝の挨拶を交したこともなく、血のつながりのないアニーに対して何と言えばいいか、彼女には分からなかった。侍女たちから『おやすみなさませ』と言われても、生返事しか返していない。
アニーは「そうですねぇ」と彼女の台詞を引き取り、同時に面白そうに口の端を上げた。瞳も細まり、心底楽しそうな表情。
「モニカさまのお好きな恋愛小説の『おやすみ』のシーンでよろしいのでは? わたくし、ご要望通りに致します」
「わっ、わたくしの好きな『おやすみ』シーン!?」
(何それ、やだっ! 何か恥ずかしいわ!)
でも、と次の瞬間、彼女の脳内では膨大な量の恋愛小説の一節を反芻し始めていた。
(『
ハァハァ、と呼吸も乱れる程に思い悩み始めたモニカを見たか、アニーがくつくつと笑い始めた。
「では今日は保留と言うことで、わたくしの家……ヴィンセント家の挨拶でお茶を濁すことにしましょう」
「えぇ!?……そ、そうね、分かったわ! ちょっと考えてみますっ」
鼻息荒く拳を握ったモニカを見、遂にアニーは抑えられず腹を抱えて笑い始めた。どこかで見たことのある光景に、彼女はますます鼻息が荒くなる。
そんなに笑うことないじゃない! と立ち上がった彼女にも、アニーは「申しわ……ぶはっ!」とツボから抜け出せない。
(アニーたら! せっかく楽しい妄想に浸ってたのに。時々笑い上戸なんだから!)
モニカは埒が明かないと唇をひん曲げて、壁の呼び鈴を鳴らした。暖炉の椅子に『ためキス』を取りに行く。
それにはアニーも何とか我を取り戻し、頬を僅かに引き攣らせながら彼女の傍に寄った。
「しつ……れい致しました。ふっ……お見送り致し、ます」
「結構よ! 勝手にわたくしのことを大笑いなさってて頂戴!」
丁度、扉の前まで辿り着き、モニカはアニーを振り返った。
(ドロシィが迎えに来るまで待ってられないわ!)
憤慨したまま、モニカは捨て台詞を言ってやろうかと口を開きかけた。
――と同時、不意にぬくもりが両肩を覆った。
見上げたそこには、全ての灯を背にしたアニー。
近すぎる距離。視界は彼女の肩、首でいっぱい。
気づけば、扉と彼女の間に挟み込まれていた。
へ? と間抜けな声が出て、思わずモニカは後ずさった。
ギ、と扉に背が着いて逃げ場がない。
アニー、と言えたかどうか。
頬に親指。
――額に口づけが降りた。
ちゅ、とかすかに聞こえた音。
ほんの数瞬、しかし確かに触れて離れた柔らかさと熱。
そしてそれを埋めて隠すように、よく知る指の感触が前髪を撫でた。
「おやすみ、モニカ。いい夢を」
頬と頬が触れ、耳元で囁かれた。
掠った吐息に身を震わせれば、ガラス越し、翳りの中でとろりと溶けた瞳。
その夜、モニカは『おやすみ』を返せなかった。
温かいお茶を飲んだはずが、寝付けなかった。
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恋愛小説メモ
『
ホセ国女子の約3割が熱望していた、待望の眼鏡男子との恋。また、ホセ国では珍しく、主人公(女性)が鈍感な眼鏡男子に猛アタックを掛ける展開が新しいとウケている。恥ずかしがる男子可愛い! と、お姉様方の新たな性癖を目覚めさせてしまった可能性がある、と恋愛小説書評家(自称)の間では話題。後に、『眼鏡を外す瞬間から攻守逆転』のセオリーを作った、祖となる。
尚、『キス』は隣国語のため、一部の女子(あとがきを舐めるように読むタイプ)しか略し方を知らないのも、マニアに人気。
おやすみ辞典
『
「仕方ないな。そんな顔をされては……残念だが続きはまた明日にとっておこう。おやすみ(ブッチュー」
『
「あ……えぇと、その……また、明日。カフェで会いたい、です。おやすみなさいっ!(脱兎)」
『金の騎士と銀の魔術師』続刊より引用
「(自主規制)」
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