15.嘘と、本音と

 うそよ、と繰り返したモニカの勢いは少しずつ弱くなり、それが啜り泣きにかわったときアニスは僅かに腕を緩めた。

 長い寝間着の裾が体ごと密着することを阻めたので、二人は跪いたまま、長いこと抱き合っていた。

 落ち着きましたか、と優しく横から頭をぶつければ彼女は小さく肯いた。彼はそれが可愛らしく感じ、自分のこめかみを巻き毛の中に押しつける。

 うぅ、と情けない唸り声に髪を撫でた。


「……アニーさま、ほんとう?」


 幼子のような物言い。何のことですか、と囁く。唇に黄銅色が絡みつく。


「わたくしのこと、本当に嫌いじゃないの」

「えぇ。心からお慕いしてますわ」


 きゅ、と彼女の肩がすぼまった。寒いのかと彼が腕を強めれば、やはり震えたようだ。

 今度は彼女が風邪を引きかねないと思うものの、彼は腕を引っ込めることができない。


(困ったな。離れたくない)


 むしろ、鋼の理性を以て彼女の首筋に鼻面を擦りつけたい衝動を抑え続けているのだ、抱擁くらい好きなだけいいのではないかと思い始めていた。

 この柔いぬくもりを手放すのは大変惜しく、距離を取れば外見を晒してしまう可能性も併せて彼女と離れるかどうかを心の天秤に掛ける。考えずとも軍配は上がる。

 しかし彼女が再び呻き、身じろぎをしたのに彼は現実を顧みた。


(……いくら嫌がってない様子でも、彼女の意志の確認は必要だ。ピケも『喜ぶなら』と言っていたじゃないか)


 彼の判断は早急だった。できるだけ静かに問う。


「モニカさま。わたくしとこうしているのは嫌ではありませんか」


 これでもし嫌と言われれば離れなければなるまい、と半ば諦念に目を細める。変に意地を張られて突っぱねられるかもしれない。アニーとしてでも、ここまで長い抱擁の機会はもうないだろう。

 だから彼は返事が来る前、非常に未練がましく、髪に深く差し入れていた手を背に滑らせた。ガウンの厚みがもどかしい。強く抱き寄せるのは我慢した。


「ぅ……す、すこし」


(少し嫌なのか!)


 アニスはひとり衝撃を受け、知らず力を緩めた。そしてそのまま彼女から離れなければと、頬が巻き毛から離した。瞬間、くんっ、と彼の夜着が引っ張られる。

 咄嗟に彼女を間近に見れば、これ以上なく尖った唇。上目遣いのヘーゼル。

「ぃ、息が苦しいから……優しくしてくれれば」いいわ、は彼が再び強く抱擁したので聞こえなかった。


(いいのか……!)


 しかしひと呼吸あと、夜着を引きちぎらんとする強い抗議に彼は慌てて彼女を解放した。


「も、もう! 苦しいって言ってるのに!」

「申し訳ありません、つい」

「つ、ついって何なの!」


 ぐいぐい、と掴まれる夜着を気にしつつ、彼は彼女の頬の濡れ乱れた髪を整えた。瞳の色が見えぬよう眼を伏せて、言い訳をする。真顔だ。


「貴方が可愛らしかったのです」

「かっ!……そ、それなら……許してあげますっ」


 ぷいっと顔を背けた真っ赤なモニカに笑みこぼし、アニスはそっと立ち上がった。触れ合うのは潮時だろうと、柔い頬を撫でながら。

 ずっと折っていた膝が痺れ、少々ふらついた。それは支えを失った彼女も同じで、立ち上がろうとして尻餅をついている。

 彼はベッド脇のサイドテーブルに置かれていた眼鏡を見つけ、ゆっくりと手に取った。


(僕は、今から彼女のためだけに『アニー』になる……すまない、ジャン)


 「アニーさま?」不安げな声が届く。

 彼は返事をせぬまま眼鏡を着け、打ち捨てていた毛布を拾い上げた。それを肩からかぶり胸を隠すと、女性らしい仕草でベッドに腰掛けた。

 途端に体が重く感じ、彼は息を吐き出した。熱は上がる様子はないが、やはりまだ本調子とは言えなかった。

 モニカが心細げに彼を見上げる。


「アニーさま、大丈夫? 顔色が……」

「大丈夫ですわ。モニカさまから離れたら、寒くて。貴方さまもこちらへ。床は冷えます」


「……いいの?」「もちろん」モニカも脚が痺れた様子を見せつつ、ぎくしゃくとアニスの側に寄った。彼はベッド脇の椅子に促したつもりだったが、彼女は隣に収まった。ベッドの軋み、腕の触れ合う距離。

 漂ってきた彼女の香り。

 彼が静かに動揺し視線を泳がせていると、


「わたくしのせいで風邪を引いたのよね。ごめんなさい、アニーさま」


 消え入りそうに彼女が言った。


「外で泣いたり……殿下からのお手紙も勝手に見てしまったし。わたくし、はしたないことばかり。バカだわ」

「モニカさま……。いいえ、謝罪せねばならないのはこちらですわ」


 アニスは胸が詰まった。意地っ張りのモニカが謝罪をするとは思わなかったのだ。

 彼は彼女に膝を寄せ、俯いた顔をのぞき込んだ。ちろりと視線が合ってもすぐに逸らされ、口惜しい。

 しかし両手を強く握り込んで身を縮めるようにしている彼女は、何かに怯えているようにも見えた。


(彼女を勇気づけたい……しかし)


 核心に触れたくなかった。

 苦く我が儘な心を誤魔化すために、彼女の手に触れた。先程彼女が、彼を悪夢から目覚めさせたときのように。


(そうだ。今度は僕の番だ、彼女を救うと決めたじゃないか)


 アニスは決意に視線を上げた。眼鏡越し、伏せられたままの金の睫毛が細かく震え、彼の言葉を待っていた。


「……あのお手紙は、間違いなく貴方さまへ書かれた物です。わたくしは書付けるところを見ておりましたから」

「うそ。そんなはず、ないわ……あの方が」

「いいえ、モニカさま宛てです。わたくしが勝手に怖じ気づき、お渡しできなかったのです。……お許し下さい」


 謝罪の気持ちが伝わればいい。彼は包む手にそっと力を込めた。

 どうして、と涙の滲む問いが彼を責めた。

 遂に彼もその琥珀色を伏せた。


「婚約の話は……貴方さまを傷つけてしまうのではないかと」


 ――口ごもった舌は重く、アニスは押し黙った。

 謝罪の言葉を継ぐべきと分かっていても、彼には余裕がない。正面から彼女を見つめる勇気もない。


(本当は違う……ジャンに対する君の、どんな顔も見たくなかった)


 無自覚だった己の中に、今や制御できぬ情があることを知ってしまった。傍に寄れば触れたいと思う欲求も。

 それを誤魔化さねば彼女への想いを悟られるだろうと、彼は嘘をつく他なかった。


「ヤキモチではないの?」


 一瞬、鼓動が跳ねた。しかしすぐに、『アニー』のことだと理解する。


「……モニカさま。何度もお話しておりますが、わたくしと殿下の間にそういった事実はございません」

「だ、だってあのとき!……わたくしとの食事を反故にしたってことは、わたくしより身分が高い相手だったってことでしょう?……そうでなければ、そうじゃなきゃ」

「……以前、お話致しましたでしょう? あのときは『幼なじみが来た』と」


 えぇ覚えてる、とモニカは項垂れた。しかし尚もこぼれる否定に、彼も腹を括る。


「実はわたくし、ジャノルド殿下と幼なじみなのです」

「え?」


 やっと、彼女の顔が上がった。揺らぐ燭台の火を受けて、彼女のヘーゼル色がまるで金色に見える。潤んだ虹色の光彩さえ見える程、彼女は目を見開いていた。


「うそ……だって貴方、身分が……」

「えぇ、身分はございません。誰の、とは申し上げられませんが、わたくしは庶子として生まれました。爵位撤廃が施行される以前、殿下ともご縁がありまして」

「しょ、し?」

「えぇ、詳しくはお話できませんが、わたくしが宮廷作法に精通しているのはそのため。外務官吏として殿下に再会し、この度、行儀指南役に抜擢して頂いたのです」


 モニカは言葉が出ない。潤んでいた瞳はすっかり乾き、ただ驚きを宿している。


(また彼女に嘘を重ねてしまった)


 失意はおくびにも出さず、彼は優美な微笑みを浮かべた。

 この生まれについてはヘレンゲル家実家での特訓の折、ロティアナと考えた言い訳だ。


 ――ホセ国では婚前交渉が暗黙の了解であるため、爵位撤廃まで巷に庶子が溢れていたのは公然の秘密だ。子の認知に関わる法はなく、嫡子の有無や跡継ぎとしての男子の有無によってその扱いは家々に委ねられていた。

 出生を隠すに『庶子』は、格好の隠れ蓑。

 程ほどのところで口を閉じれば、あとは相手が想像してくれるのだ。


 モニカもそれ以上の追及はせず、ジャンとの関係に一応の納得を見せた。


「では……本当に殿下とは幼なじみで。ただの仲良しなのね」

「信じていただけましたか」


 難しい顔で口を噤んだモニカの手の甲を指で優しくなぞる。


(……言いたくない。しかし)


 アニスは唾を飲み込んだ。


「……ジャノルド殿下は、モニカさまと上手く交流できないことをお嘆きになってますよ」

「殿下が?」

「えぇ、遠征に行っては手紙も書けないと。この度の遠征も急に決まったことでしたので、『走り書きですまない』と仰っていました」


 「そうなの」口元が緩み安堵する様子のモニカに、彼の胸は泥を詰められたように重く冷えた。そして堪らず、先程まで永遠に握っていたいとさえ思っていた彼女の手を、離した。


「……殿下は浮気をするような不義理はなさいません」

「えぇ、分かりました。わたくし、アニーさまを信じるわ」


 小さく、しかし確かに肯いたモニカに、アニスは微笑んだ。

 全て押し込めて。


     ◇ ◇ ◇


 数日後、アニスは母屋の客室に戻った。

 遂にベッドに仕事を持ち込んだ彼にため息を吐き、侍医が根負けしたのだ。

 これには実際、アニスもピケも胸を撫で下ろした。モニカがごく近くに寄る離れでは簡単な女装――鬘と詰め物だけではやはり心許ない。


 しかしモニカはそれを聞くと、「母屋に移っては好きなときに会えなくなっちゃうわ……」と、いじけたように口を尖らせた。

 彼女はアニスの部屋に忍び込んだ翌日、含み笑いの侍医から見舞いが許可されて以来、彼の部屋に頻繁に訪れていた。


 可愛いとしか言いようがない台詞に、彼は危うく抱き寄せそうになった手を誤魔化す。侍女たちは何故か控えていないが、理性が仕事をした。まだ昼間だ。


「そうですねぇ……モニカさまは、静かに読書できますか?」


 ベッド端に腰掛けた、ふてくされるモニカの背に落ちる髪に触れながら、彼は苦笑した。くるり、指にひと束巻き付ける。これでも誤魔化しているのだ。

「読書を、静かにしない人なんていないでしょう」それが何の関係があるの、と言わんばかりの声色。


「わたくしの仕事を邪魔しないと約束できるのでしたら、いつでも書斎においでください」


 パッと彼女が振り返った。いいの? 眉が期待に下がった。


「えぇ。わたくしも、モニカさまにお会いしたいですから」

「う、う、う……嬉しい。絶対、邪魔はしないわ!」


 アニスは照れるモニカの髪を整える振りをして好きなだけ撫で、喜びを心に灯す。これを親密と呼ばずして、何と呼ぶのか彼は知らない。

 髪にも肩にも、恐らく抱擁でさえも拒否されないだろう相手の眼差しに、彼の情は底の見えない深みに沈む。

 ただ、彼女の幸せを想って、沈んでいく。


「……アニーさま、息苦しいの?」


 物思いに翳った彼に、彼女がもはや何の衒いもなく手を伸ばす。


「えぇ少し」


 彼は僅か、その白く柔らかな手のひらに、自分から頬を寄せた。

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