14.誤解には真実を

 泣き濡れたモニカの目が夜闇を宿した。

 ドロリ溶ける、溶ける。

 腕に捕らえて離すまいと抱いた体も黄銅色の巻き毛にも、無数の穴が空き、広がりドロリ、溶けていく。

 あぁまた彼女が消えてしまう。僕の前から溶けて、闇に。

 アニスは、彼女の散り散りになっていく体をかき集め続けた。

 恐ろしい夢。彼はこれが夢だと分かってはいても、為す術がない。

 風穴の空いたあと、彼女は消えるのだ。永遠に、彼を置いて。

 僕をひとりにしないでくれ……!

 そう思った瞬間、彼はいつも気づく。彼にも風穴が空く。


 己と、モニカの心が共に在ったことなど――ない。

 闇。


 これが夢の終わり。あとは絶望に目覚めるだけだったアニスの手が、ほたと濡れた。

 彼は雨が降った、と思った。

 生温かい、雨。すぐに冷えて、また新しい雫を落とす。

 ほた。散り散りになって消えた己の手に感覚が戻った。

 濡れた手に、誰かが触れていた。それは、柔らかな。

 ぎゅう、と強く彼を夢から引き上げる。

 押し殺した声を聞いた。

 泣き声、誰の、あぁこれは。

 ――モニカ。



 アニスはカッと夢から覚めた。

 しかし急激な意識の浮上に呼吸が追いつかず、噎せる。


 アニーさま、と近くで声がした。体を丸めて咳を繰り返す彼の背に、手が触れた。さすられる。

 しばらく苦しみ、喘鳴に呼吸を浅くした彼は、背に触れる手が侍女のものでないと気づいた。


「アニーさま、大丈夫?」

「も、……ニカじょ」


 話掛けようとして、酷い咳を出した。

 しゃべっちゃダメ、と叱られた。彼は恐る恐る、振り向いた。


「モニカ、さま?」

「……そ、そうよ」


(まずい!)


 アニスは酷く不自然に、モニカに背を向けた。その反動でまたしても咳が出る。すると彼女はやはり彼の背中をさすった。


(どうする、眼鏡をしてない! 詰め物もしてないぞ!)


 薄暗がりとは言え、間近に寄られたら瞳の色が分かってしまうだろう。胸も薄いことが分かれば、男と知られる可能性が高い。


「モニカさま、風邪をうつしてしまいます。どうか、退室なさって」


 彼にとっては精一杯の拒絶。噎せかけつつ必死に言葉を絞り出した。それは正当な理由を申し述べたはずだったが。


「……わたくしが傍にいては、嫌なのね」


 思わずギクリと肩を揺らした。同時に「やっぱり」と、彼女の手が離れる。


「そうよね。恋敵だもの。わたくしの手なんて触れたくもないわよね」


(恋敵?)


 未だ正体を知られる危険性に、アニスはモニカを振り向けない。しかしその台詞の不穏さに汗が噴き出す。

 先程は優しくさすられたはずの背に、彼は強い視線を感じて身動きもとれない。


「食事も摂れない、令嬢らしい生活も送れないわたくしを見て、さぞ安心したでしょうね。寝室から出ない、ふしだらな小説ばかり読んでいるわたくしを見て……!」

「モニカさま、何を」

「わたくしと楽しくおしゃべりする振りをして、本当は、本当は……わたくしをあざ笑っていたんでしょう! 恋人の婚約者が、バカでダメな令嬢だって! 美しくもない、だらけきった体の!」

「モニカ嬢!」


 耐えきれず、起き上がった。半身だけ振り向き、怒りのまま彼女を視界に入れた。

 聞くに堪えない罵詈雑言に瞳に火が灯った。


「何を言って……!」

「だって、貴方とジャノルド殿下は恋人同士なんでしょう!」


 唖然。


「……は?」

「わたくしが手紙を読んで気づかないとでも思ったの! 殿下はわたくし宛てにあんな手紙は書かない……絶対に! あれは貴方に宛てた物なんでしょう? だから書類に紛れ込んで……!」


(妄想が暴走している)


「この前客室に泊まったのだって、殿下だったのよ! そうでなきゃ、真面目なアニーさまが仕事を投げ出して恋人となんか食事するはずない! わたくしをひとりにするはず、ないものっ! 殿下と、殿下と……愛し合ってたんでしょう! 恋人なんでしょう!」


 アニスは目眩でベッドに倒れ込んだ。


(事実と妄想が混ざり合って……整合性が真実味を深めている……)


 アニーさま! と、モニカは声を上げたが、近づいては来ない。彼は毛布を体に巻き付けながら、再び起き上がった。もはや瞳など気にしてはいられない。


「誤解でございます、モニカさま!」

「いいえ、いいえ!」

「わたくしと殿下はそんな関係じゃ」

「嘘よ!」


 アニスはその剣幕に鼻白んだ。苛立ちが湧き上がり、男と気づかれたとしても真実を分からせてやると、立ち上がりかけた。

 ――しかし、それはできなかった。


「わたくしは、わたくしは……誰にも愛されてないの……! 誰にも、父上にも母上にも! 殿下だってそう。婚約者だなんて、形だけ! わたくしは『酷い顔』なんだもの……!」


 わあぁぁ! と、顔を覆って崩れ落ちた彼女を、アニスは呆然と見た。

 そして誰にも、誰もわたくしを……と繰り返す姿に、夜闇を宿した暗い瞳を思い出した。

 止めどなく伝ったのは愛されぬ悲しみ。


(誰も映さない、架空の人物ダーニャにしか心を許さない彼女は、本当は……)


 アニスは裸足のまま、床に降りた。脚に力が入らず、そのまま膝を打った。殆ど這って手を伸ばす。

 膝立ちで泣くモニカを正面から抱きしめた。

 その瞬間、ずっと彼女に触れたかったのだと、全身が喜びに震えた。

 嫌だ来ないで、とくぐもった声には「ダメ」と答えた。

 嬉しくて可笑しくて口の端が上がる。


「モニカさま、わたくしをお忘れですか」

「やめて、離して……貴方は殿下の」

「違います」


 耳元で鋭く言った。

 それでも否定するように頭が振られ、彼の頬は髪に擦られる。真直な銀髪と黄銅色の巻き毛が絡まる。混ざる。

 彼は思わず、片手で彼女の頭を支えた。固定した。鼻がくすぐられて抱きしめるどころではなかったのだ。

「うそ、嘘つきよ……貴方だって、わたくしを……!」彼の肩が濡れた。


「嫌いなんでしょう、要らないんでしょう!」


 彼は髪越し、頬に口づけた。それと分からぬよう、そっと。

 モニカ嬢、と囁く。


「お慕いしております」


 うそよ、と漏れた声は強く抱きしめて塞いだ。


「『アニー』には、モニカさまが必要なのです」


(今度こそ彼女を救おう。永遠に、闇に溶かしてなるものか)


 ――もう一度、今度は髪に口づけた。

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