13.とっ散らかった心をかき集めて(後)

 いつかと同じようにアニスの胸に背を預けたモニカは、泣き濡れたままぐったりと寝入った。彼は彼女を大切に抱き上げ、寝室へと運び横たえた。

 寒さのために白さが増した頬には涙の跡が幾筋も残り、乱れた巻き毛も痛々しい。しかし彼が抱き続けた甲斐あり、凍えて眠る様子はない。

 彼も三人の侍女たちも息を吐いた。


 眠ったままの彼女から、手早くガウンを脱がせるドロシィから目を背け「僕も着替えを」と、側にいたピケに命じた瞬間、アニスは膝を崩した。

「アニスさま!」「ちょ、アニーさまぁ!」

 侍女たちが慌てて駆け寄ったとき、彼の唇は既に色を失っていた。床に伏す体はガタガタと音を立てて震えて。


「ピケ、侍医を! キャリ、急いで侍従たちを叩き起こして!」ドロシィが鋭く言い、ピケとキャリは転がるように出て行った。


「アニスさま、しっかりなさって下さい!」

「……ぅ、僕はいい。彼女が冷えて……早く、着替えを」


 目をキツく瞑ったまま、彼は唸った。

 ドロシィは素早くモニカに毛布をかぶせ掛けると、眼尻をつり上げて「アニスさまの方がずぶ濡れです!」と宣言し、迷いなく彼の寝間着をひん剥いた。寝間着に濡れていない箇所は殆どなく、ドロシィは舌打ちしかけた。ぐしゃっと絨毯にそれを打ち捨て、胸当てごと詰め物を取り払う。

 アニスは体中を断続的に駆け抜ける寒さと痛み、そして強制的な着替えの不快さに歯を食いしばって耐えた。

 ――そこで彼の意識は一旦途切れた。


 翌日、彼は熱に苦しめられていることを自覚した。吐く息の先まで熱苦しく起き上がろうとしたが全く力が入らない。喉が酷く干上がって張りつき、声を出そうにも痛みで唾も思うように飲み込めなかった。

 「アニスさま、お目覚めですか……!」ベッド脇に控えていたピケが驚きの声を上げ、彼の狭い視界に入り込んだ。

 ただ口を開閉するアニスに、ピケは心得、すぐに唇に水を含ませた。歯列を伝い舌に流れ込む水分の冷たさが心地よく、彼は僅か目を細めた。

「熱が高いのです、お眠り下さい」眉を気遣わしげに寄せ、ピケが言った。そして彼が無理に声を出そうとしたとき、


「お嬢さまはお元気です。貴方さまをご心配なさってますよ……早くお元気になって下さいまし」


 そう言葉を継いだ。

 アニスは安心し、再び眠りに就いた。


 寝ては起き、微睡んでは目覚める――彼は赤ん坊の如く侍女たちの世話になり、侍医の穏やかな診察の声にアニスは少しずつ回復していった。

 彼の休む部屋は離れの客室で、いつかダーニャの支度をした場所でもあった。

 伊達眼鏡を外し、体に良くないとの理由でコルセットも詰め物も身に着けられないために、目と鼻の先で過ごしているはずのモニカとの面会は控えていた。未だ満足に食べられない彼女に風邪を移しては大変と、アニスも強く希望したことではあったが。


(彼女はどうしているだろうか。『変わりない』『元気だ』と侍女たちは言うが……早く彼女に説明を、謝罪をしたい)


 昼は微熱になり、数時間続けて起きていられるようになると、モニカのことが気になって仕方なくなった。何度もあの夜のことを思い出しては、彼は呼吸が重苦しくなる。

 あの夜――掴んだ腕に振り向いた彼女の瞳は、彼を映しはしなかった。

 虚ろに空いた穴の如く、月のない闇夜の如く。

 『ダーニャ』と呼ばれて咄嗟に言葉を失えば、彼女の顔は微笑みを浮かべ損ねて悲しく歪んだ。


(彼女が心から必要としてるのはダーニャなんだ。ジャンでも、他の誰でもなく……)


 そう考えが至るごと、彼は骨に爪を立てられたような全身が軋む痛みを経験する。


(『誰』と問われたとき、僕は)


 呻き、彼は痛みに目を瞑る。


(僕は結局、『アニス』だ)



 ――夜になると彼の熱は高くなり、熱冷ましの薬のせいで起きていられない。熱に魘され何度も悪い夢を見た。悪夢は執拗で彼を限界まで責め立ててようやく霧消する。彼はその度にびっしょりと汗をかき、濡れた夜着の不快さに必ず目覚めてしまう。そしてひとりの暗闇の中、己の迂闊さと弱さと、永遠にあのヘーゼルに映らないだろう己に絶望した。


 そうして伏せってから五日目の夜のこと。

 夜中にアニスは一度目覚めた。例によって汗をかき、再び熱が上がっていく感覚に侵されながらぐったりと横たわっていた。目を瞑ればぐん、と眠りに落ちていく。あぁまた嫌な夢を見てしまう、と眉間を寄せた。

 うつらうつらと揺られる中で、扉の開く音を聞いた。少しだけ意識が浮かび、侍女かと、感慨なく沈むのに任せる。一日中眠っているのにくたびれていた。

 抗いがたい眠気。

 そこに何かが、触れた。


(……誰だ)


 彼の熱を持った手に、少し冷えた小さな丸っこい手が触れた。怖々、彼の手を包もうとした。

 ピクリと彼が動くと、すぐに離れた。

 あぁ気のせいか、そう思ったひと呼吸の間に彼は深く眠り込んだ。

 不思議なことにその夜、もう悪夢は訪れなかった。


     ◇


「アニーさま、今朝は顔色がいいようですね」

「あぁ、夢を見ずに眠れたからか。熱が下がったようだ」


 「どれ」と、ラベリ家の侍医が彼の脈や心臓の音を確かめる。


「よろしいようです。ですがまだベッドから離れてはいけませんよ。コルセットも遠慮して下さい」

「まだダメか」

「ダメです」


 侍医は真顔で言い返す。しかし次いで苦笑を滲ませた。

 

 この侍医は強引な侍女に夜中に呼びつけられ、慌てて邸の離れに訪問したところ、『アニス』と呼ばれる男性が『アニー』であると説明され、真実、目を白黒させた。そしてその事実を飲み込むのに二日を要した。当然だろう、これまでアニスの女装は完璧だったのだから。(これは誇らしげなピケの台詞である)

 しかし今ではアニスが男性の姿のままでも自然に『アニー』と呼び、女性の装いをしたがる様子に戸惑いを見せたりはしない。「秘密は守りましょう」と誓いさえしたのだ。

 これにはさすが侯爵家お抱えの侍医だ、とアニスは信頼を寄せ、苦い薬と指示を飲み込んでいた。


 「まずは回復に向かわれて良かった」と、立ち上がった侍医は、ふと思いついたようにアニスを優しく見下ろした。


「これからモニカさまの診察に伺いますが、何かお伝えしましょうか」

「いや……いい」


(伝えたいことは山程あるが)


 銀の睫毛を悲しげに伏せ、彼は沈黙した。この数日で少々痩せてしまった彼の背負う悲愴さはお付きの侍女たちの涙を誘う。侍医も痛ましげな様子を隠しはしなかったが、このときは違った。

 侍医は「そうですか」とあっさり肯き、面白がるような笑みを口元に乗せた。


「では、モニカさまの診察内容はご報告しに伺った方がよろしいですか」

「あぁ、それは頼む」


 では後程、と朗らかに微笑んだ侍医は、昼食前に戻って来た。そして報告は早々に切り上げ、懐から封筒を取り出した。


「モニカさまからお手紙です。どうぞ」

「……モニカ嬢から?」

「すぐにお返事が欲しいご様子でした。侍女に話せば届けてくれるでしょう。あとは任せました、侍女殿。ではまた明日参ります」


 手紙を渡すと、侍医は控えのピケに声を掛けてさっさと退室してしまった。


 呆然とするアニスに、ピケが近づく。「アニスさま、ご覧にならないのですか」どこから出したか、ナイフを差し出した。そして変に顔を強張らせたまま「お返事の準備をして参りますね」と彼女も退室した。


 残された彼は手紙とナイフを持ち、胸に込み上げる混乱と動揺と確かな喜びにしばらくぼうっとせずにはいられなかった。


     ◇


“アニーさま、お見舞い申し上げますわ。風邪と過労と聞きました。ゆっくり養生して下さい。わたくし、ひとりでも食事を摂ってますから、ご心配なく”


“モニカさま、お手紙をありがとうございます。とても嬉しいです。酷い風邪を引いてしまい、ご迷惑をおかけしております。おひとりでもお食事を摂っておられるとのこと、安心致しました。ですがくれぐれもご無理なさらず、どうか”


“あら、わたくしがひとりでは何もできないと思ってらっしゃるの? 今朝なんて、パンも食べたのよ。アニーさまがいなくたって、全然、大丈夫よ”


“パンを! それは頑張りましたね。ご一緒できなかったのが、残念ですわ”


“さっきのはちょっと言い過ぎました。まだ完全に食べられるわけじゃないもの、早く元気になって頂戴”


“わたくしも、早くモニカさまにお目にかかりたいですわ”


“そういえば『ため息は口づけで塞いで』を読み終わりました。なかなか面白かったですわ! あぁまだ読まれていない方には話せませんけれど……云々”


 急いで返した手紙には、すぐ返事が来た。まるで筆談じみた子どものような遣り取りになっていったが、彼はモニカから返事が来る度に心が満たされていく。

 チクリと刺すような言葉に打ちひしがれ辛うじて言葉を書き綴れば、次には『言い過ぎた』と素直な謝罪が来て顔を覆った。こちらも素直に返せば、小説の話題に便箋がぎっしりと埋まってくる。

 彼の口元はごく自然な微笑みに輝いた。(目が潰れかけるかと思った、と後にピケが語った。)

 次の手紙はいつ来るか、と彼は部屋の扉が開くのを心待ちにしてしまう。


 しかしさすがに三往復ともなれば、代わる代わる紙片を届けては出て行く侍女たちに「何度もすまない」と詫びずにはいられなかったが、ラベリ家の侍女たちはアニスにどこまでも好意的だ。

 「構いません」「お好きなだけなさって下さい」と一礼されるのみ。彼も肯定的な反応しかないのにはどこか気恥ずかしく、目元を赤らめる他なかった。(ピケはそれに鼻を、以下略)


 遣り取りは彼が眠るまで続き、午睡や夕食を挟んだものの十往復――侍女たちは含み笑いを隠すのに苦労した――に及んだ。


     ◇ ◇ ◇


(……もう寝たかしら)


 もぞ、とモニカはベッドから起き上がった。

 夜の深まる気配に小さくため息を吐いた。


(今日は、楽しかった……お腹がまだ苦しいけど)


 手紙でアニーに褒められ、久しぶりに張り合いのある食事になったせいかモニカは少々頑張りすぎた。

 丸い腹を撫でながら、先程まで見返していた便箋を取り上げる。最後の一枚。


“恐ろしい夢ばかり見てましたが、今夜はぐっすり眠れそうですわ。おやすみなさい”


(『おやすみなさい』って、返せば良かったかしら)


 ただそれだけのためにペンを持つのは躊躇われ、彼女は結局、返事をしなかった。


(就寝の挨拶なんて、もうずっと誰にも言ったことないもの。そ、それにわたくしが気を遣って返すことじゃないわよ!……でも)


「早く、会ってお話したい、わ」


 するりと漏れた呟きがやけに響いて、モニカはカッと顔を火照らせた。

 同時に、強い悔しさが込み上げ首を強く振り回す。巻き毛が一瞬でばらばらになる。

 ――トン、トトトン。

 ハッと扉を見た。


「……お嬢さま、起きてますかぁ」

「キャリ!」

「なんで髪、爆発してるんです……?」


 隙間から顔を出したキャリが怪訝に眉を寄せた。あまりにぐちゃぐちゃだったのだ。今度は羞恥で赤くなったモニカは、何でもない! と髪を撫でつけ、いそいそとベッドから降りた。

 「『首尾はどう?』」使ってみたかった小説の台詞を言ってみる。最近読んだばかりの『ため息は口づけで塞いでためキス』の。

 キャリは昼間よりも雑にお辞儀をすると、彼女にニヤリと笑みを投げた。面白がってる顔だ。


「上々です。もうアニーさまはお休みになったそうですよぅ」

「そう……じゃ、じゃぁちょっとだけ。行って来るわね!」

「あ、ガウンは着てって下さいよぅ」


 そうね、とモニカは差し出されたガウン――アニーから借り受けたままになっている物に袖を通した。肩幅や裾が大きく、まるで子どものような格好だが暖かい。もう一度洗われ、昨日もモニカが出て歩いたせいか持ち主の気配は全くしないが、彼女は知らず匂いを嗅いでしまう。

 キャリはそれに一生懸命気づかない振りをしながら、「じゃ、じゃぁお嬢さま。いってらしゃぁい」と出発を促した。


(今夜も気づかれないようにしないと……! べ、別に顔を見て戻るだけだもん)


 長い裾を半ば引きずりながら、モニカはアニーの部屋へと急いだ。



 ――アニーは情報通り、深く寝入っているようだった。

 彼女まであと数歩。ようやく規則正しい寝息が聞こえて、モニカは緊張に逸る胸を撫でた。


(敵の寝室に忍び込むなんて、捜査の定石! こんなことで緊張してどうするの!)


 最近読んでいる『ためキス』しかり『金と銀』しかり、冒険や事件の起こる展開に脳内が染まりかけていたモニカはそう自分を叱咤する。

 キャリは満面の笑みで協力してくれてはいるが、ドロシィはアニーと会うことに断固反対していた。どうやらアニーも同じ考えらしく、バレてしまえば大目玉の大説教間違いなし。

 モニカは退路を断たれた冒険者の心持ちで、アニーに少しずつ近づいていく。

 ――どうしてここまでしても彼女の顔が見たいのか、正直分からないまま。


 灯は部屋の隅に一つだけ。アニーの睡眠を妨げないようにという配慮だろう。

 モニカは忍び足でアニーの顔をのぞき込み、その僅かな橙色に浮かび上がる美貌にドキリとした。

 シーツに流れ出た艶やかな髪は波打つ川。少し痩けた頬も顎も、優美さは失われていない。むしろ温めてあげたくなる儚さが漂い、モニカは誘われるように傍へ寄る。


(アニーさま……美しい方。普段は眼鏡をしているから分からないけれど、きっと彼女に優しく見つめられたら誰でも好きに……)


 そう考え始めた途端、『共にダンスを』の文字が彼女を目を刺した。堪らず瞳を閉じれば、その重く棘だらけに変わった文字は胸へと到達して呼吸を乱す。

 我を失って泣き喚いたあの夜のことを思い出し、目が眩む程、苦しくなる。一つだけの灯に、自分の影が化け物のように揺れるのを見た。


 ――彼女はアニーと会えない間、一つの結論妄想に辿り着いていた。


(あれはきっと、アニーさまに宛てられた手紙。そうでなければ、あの書類の中に入っている訳がないもの……。アニーさまとジャノルド殿下は、きっと深く愛し合ってる)


 そこまで考えると、モニカの目の前は何度でも真っ暗になった。

 立ち眩みが起こり、無理して食べた夕食を吐き戻したくなった。口内が酸っぱくて低く唸るしかできない。

 無意識にガウンの前を合わせ、身を硬くする。涙が勝手に流れ始めた。


(わたくし、わたくし……)


 モニカの前後不覚が届いたか、不意にアニーが身じろぎをした。彼女がのろりと視線を投げれば、見る見る内に眉間がキツく顰められ呼吸が荒くなっていく。手が何かと戦うように毛布からはみ出た。


(アニーさま……あぁ、また悪い夢を)


 モニカは覚束ない足取りで、ベッド脇に膝をついた。――侯爵令嬢が何の身分もない女性に膝をつくなど、あり得ないこととどこか遠くで理解しながら。自分の婚約者の恋人など不敬だ出て行けと、打ち捨てるべきだと分かっていながら。

 彼女は殆ど震える自分の手を以て、アニーの手を優しく包み込んだ。


(どうして、わたくしは誰からも必要とされないの……誰も一番に愛してはくれないの……!)


 アニーの手に涙がほたと落ち続けるのも構わず、モニカは声を殺して泣き続けた。

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