12.とっ散らかった心をかき集めて(中)
「狭量過ぎる……自分に苛立って、彼女に冷たく当たるとは!」
アニスは暗く寒い書庫の中、本棚にもたれ己を罵っていた。
結い上げた銀髪が薄暗がりでも光を集め、彼だけがほの明るく見えている。
(書類はともかく、彼女が転ぶのは未然に防げたはずだった)
整った顔の造形を歪ませ、彼は知り得る呪いの言葉を己に浴びせる。息を詰め強く床を踏みつけた数瞬後、ハァと深いため息を吐いた。
(そうだ、僕は本を探しに来たんだ。『ため息は』……何だったか。題名からして恋愛小説だった気がする。さっさと見つけて戻ろう)
そうかと思えば床に散乱した書類の様子を思い出してしまい、彼は眉間にシワを寄せた。
あれを今から片付けて、片付けて……あぁもう! と、彼にしては珍しく情緒が落ち着く島がない。苛々と歯を食いしばる。元はと言えば、と呻く。
「……一体、あの格好は何なんだ! 寒くないのか薄すぎるだろう! 今後は絶対、寝間着一枚で出歩かないようドロシィに進言してやる!」
厳命だ! そう一言だけ隣室のモニカ――完全に逆恨み――に悪態を吐くと、彼は少しく落ち着きを取り戻した。
フゥとかハァとか言いながらようやく燭台を手に火を灯し、奥へと進む。小さな火の揺らぎが彼の顔を熱く照らし、いつの間にか冷え切った体を自覚させた。
彼も既に女性用の
「『ため息』、『ため息は』……どこだ」
暗闇に目を凝らすが見当たらない。
ガラスを隔てた視界の煩わしさに、彼は眼鏡を外して探す。寝間着にポケットなど付いていようもなく、探すその手で眼鏡を包み込んだまま懸命に題字を読み上げた。
(あった。『ため息は口づけで塞いで』だ……あからさまな題名だな)
アニスは最上段に収められた小説を引き出そうとして、しかしうっかり眼鏡を取り落とした。ガラスが弾んだ音。遠くへ滑った気配。
直ぐさま低い姿勢になったが、近くには見当たらない。
踏んだり蹴ったりの展開に顔を覆おうとしたが、片手も空いておらず低く唸った。
(眼鏡なしで、モニカ嬢の前に出られるか……?)
却下だ。
彼は今夜、もう何度目か分からぬ大きな息を吐き出し、モニカの所望する小説を小脇に抱えた。そして舐めるように床を捜索し始めた。
「ここか……ハァ、随分遠くに飛んだものだ」
アニスは寒さに歯を鳴らした。
眼鏡が見つからず、殆ど這いつくばるようにして探し続けた。軋む程に冷たくなった膝を無理矢理に伸ばしながら、彼は立ち上がった。
薄い裾から新たな冷気が入り込み、膝から上を撫で上げ、彼は顔を顰めた。かじかみ始めた手で眼鏡をかけ直す。つるが氷の如く耳を掠めた。
(……モニカ嬢は何をしているだろうか。大人しく本を読んでいてくれればいいが)
急ぎ足で本棚の林を抜ける。扉の前で火を吹き消せば、かすかな話し声が漏れ聞こえた。あぁ侍女が来たのか彼女と何か話しているらしい、と彼は知らず頬を緩めた。
(……先程の態度は謝ろう。きっと不安に思っている)
気づいた瞬間『アニーさま』と呼んでくれるだろう、あの持ち主に似た跳ねっ返りの巻き毛はすっかり乾いただろうかなどと、彼は口の端すら上げて微笑んだ。
そのときだった。
扉の向こうから騒がしい声が上がった。
(なんだ?)
足音、そして扉が大きく開かれ誰かが出て行くような――アニスは急いで扉を開け、部屋の明るさに咄嗟、目を眇めた。同時、彼を呼ぶ声。
「あっ、アニーさまぁ! お嬢さまが出て行ってぇ!」
知らぬ侍女の声が駆けてくる気配。
彼は目眩を起こしたまぶたを叱咤し、離れ付きの侍女と思われる人物――キャリの必死の形相を見た。
「モニカ嬢が? どうした、何が」
「分かりません! ただ一緒に書類を拾ってたんですよぅ! でもいきなり……!」
(書類を?)
アニスは嫌な予感に顔を強張らせた。キャリは書類の束を抱えたまま、何かに動転している。サッと周囲の床に目を走らせた彼に、キャリは掴みかかる勢いで叫んだ。
「早く追いかけて下さいよぅ!」
「追いかける? 一体」
「いいから!」
キャリはもはや地団駄を踏みながら「よく分かんないけどぉ」と彼を睨みつけた。
「お嬢さま、泣いてましたぁ!」
――アニスは走り出す刹那、キャリの肩にぶつかった。
ぎゃぁ! と騒がしい声を背に、僅かに開かれたままの扉を開け放った。
「アニーさま!?」どこからか別の者に名を呼ばれたが、無視する。
廊下の遠く先に、モニカと思われる白い塊が揺らめいているのを見たのだ。
(モニカ嬢……!)
女性用の布靴は酷く走りづらい。
(何故、泣いた!?)
寝間着の裾が脚にまとわりつき、彼はつんのめりかけた。低く悪態を吐く。抱えたままだった本を投げ捨てた。淑女らしからぬ仕草で裾を片手で持ち上げると、膝を晒して走り出す。
モニカは角を曲がり、階段を降りていく――普段、薄暗い廊下には全ての燭台に火が灯されており、前を歩く彼女の姿をはっきりと知らせた。まるで今にも儚く消えそうな白い幽霊のようにも見せていた。
「モニカ嬢!」
呼ぶ声は届いたか。
階段ホールに差し掛かったアニスは、階下を見渡して彼女の姿を探した。
いない。
彼はもはや寝間着の裾をキツく掴み上げ、段を飛ばして降り始めた。
(モニカ嬢、一体どこへ。とにかく離れへ行って……あれは?)
踊り場に何かが落ちている。
彼は無理に足を止め、それが何かの紙片と気づいた。しかし汗で眼鏡が煩わしく、ガラスが汚れるのも構わずに寝間着の袖で顔中を拭った。久しぶりの全力疾走のせいで、張り裂けんばかりの心臓を叱咤する。
額は未だ汗に濡れ、結い上げた髪はほつれて息は荒いまま、彼はそれを拾った。
「これ、は……ジャンの」
封筒は見当たらなかった。握りつぶしたと思わしき跡。走り書きのジャンの字が踊る、便箋一枚。
(彼女はこれを読んだのか……!)
アニスは再び駆け出した。
ぐぅ、と唾を飲み込み呼吸すら惜しく。
走った。
◇
モニカは自分がどこを歩いているのか、分かってはいなかった。
ただここ数年の習慣が足を前に動かし、彼女の体を離れへと向かわせているに従っていた。――あの誰も自分を傷つけることのない、寝室へと。
途中、遠くでアニーの声を聞いた気がしたが振り返ることができなかった。
(幻聴よ、きっと。アニーさまがわたくしを追いかけて来る訳がないもの。さっき怒ってたもの)
風が強く吹いた。初冬の厳しい寒さは、大きなガウンの隙間から入り込む。冷えた彼女の心は外側からも凍りそうになる。
「モニカ嬢!」
(あぁ、また……ふふふ)
星が出ていた。今夜は隠れ月で、空は漆黒に夜露を散らかしたような輝きだ。
一瞬見えた空にきれい、と呟けば理由もなく涙が流れた。
果てのない夜空を前にしても、まぶたに灼きついた文章が彼女の瞳を赤く潤し続ける。ただの黒に染まる。
“急ぎの手紙で、挨拶も書けずすまない。年明けの遠征が早まった。聖誕祭には必ず帰ってくるつもりだ”
(なんて気安い口調)
“聖誕祭の舞踏会では、共にダンスを”
あぁぁぁ、彼女は
(……あれはわたくしへの手紙ではなかった!……では、誰に? 誰でもいい、わたくしにではない、わたくしでは)
わたくしでは、わたくしは……と、彼女は泣きながら
足裏が石畳を踏んだ。池の脇に敷かれた道に辿り着いたのだ。
もはや彼女は何が悲しいのか苦しいのか涙を溢れさせるのか判らない。頬を伝い落ちるそれをどうしたらいいかも。
――とにかく、辛くて辛くて苦しい。
だからモニカは足から届いた感覚から、もうすぐ安心できる場所に着く、とぼんやり思った。寒さも、痛みも苦しみも、ぼやけた視界が夢を見ている心地にさせた。
暗闇の中をひたすらに、安息の場所を目指す夢。よく見る類の。
あぁまだ幻聴は続いていた。叫ぶような、聞いたことのない焦りの滲む……彼女の。
「……モニカ嬢!」
突然、強く腕を掴まれた。
彼女は驚きでひゅうっ、と息が止まりかける。
反動で意味のない声を漏らせば、濡れた片頬を荒く拭われた。
誰かが目の前にいた。
間近に感じる激しい呼吸音、他人の汗の匂い、そして「モニカ」と呼ぶ声に、彼女は確信を込めて相手の名を呼んだ。
ダーニャ?
息を飲む音。
彼女は、指の形の軽い痺れを感じてもなお、これは夢だろうと思い込む。
「どうして、泣いて」苦しげな、途切れ途切れの声。
ダーニャ、走って来たの?
彼女はいつかのように微笑んだ。頬を緩めて、目尻を下げたつもり。
ぐっと掴まれたままの腕がさらに痺れた。
「読んだのか?」
何を、とは誤魔化せなかった。
読んだわ、えぇ読んだ!
モニカは喚いた。唐突に、掴まれた腕が煩わしくなり彼女はそれを振り払おうとした。
しかし逆に肩を押さえられる。反射的に嫌だと暴れた。
貴方、ダーニャじゃない! ダーニャはこんなことしない!
「そうだ、僕はダーニャじゃない!」
じゃぁ誰よ!
なおも喚くモニカは後ろから抱え込まれた。嫌だと抵抗した。しかし強く巻き付く腕――頬に、知っている髪の香り。
「僕、いえ……わたくしはアニー。アニーですわ!」
――モニカはその瞬間、目を醒ました。
真っ黒な空に細かく煌めく無数の星々を見た。
凍える程の空気と、背を覆う熱い体温を感じた。
あ、あぁと新しい涙が溢れる。
「アニー、さま……?」
「モニカさま、申し訳ございませんでした。……お一人にして」
「うぅあぁ」
「お手紙のことも、早くお話すべきでした」
「ぅああぁぁぁ……アニーさまあぁぁ」
モニカは力が抜け、アニーもろとも地面に座り込んだ。背中に感じる熱に縋る。
借りたガウンが濡れていく、とモニカは思った。ただ思っただけ、彼女は泣き続けた。相変わらず何が悲しいのか苦しいのかよく分からないまま、彼女の声が枯れてしまうまでずっと。
夜露が薄い寝間着を濡らしていくのも構わず。アニーも決して離れなかった。
遅れて到着した侍女たちは、枯れ果てた薔薇の側で抱き合う二人に長いこと声を掛けられなかった。
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