11.とっ散らかった心をかき集めて(前)

 アニスはモニカの背に触れた瞬間、キツく眉を寄せた。


(冷え切っている)


 彼女は厚手のガウンをしっかりと着込んでいたが、触れたその表面は冷気を纏っていた。当然だろう、この夜の中を離れから歩いて来たのだ。

 そしてゆるりと下ろされた巻き毛は細かな水滴を含み、まるで水晶の欠片をこぼしたよう。

 彼はその濡れた黄銅色に手を差し込みたい衝動に駆られたが、彼女のかすかに鼻を啜る音で我に返った。促す手に力を込める。


「さぁ、暖炉の側へ。書庫に行く前にしっかりと温まってからになさって下さい」

「……別に大丈夫よ。アニーさまってば本当に心配性ね」

「えぇ、いつも貴方さまを心配しておりますよ。風邪を召されては、食事の時間が寂しくなりますわ」


 少々強気で応えれば、見上げたヘーゼル色が丸く見開かれた。

 モニカの頬は熱くむくれ、その自覚からかサッと顔が伏せられた。彼女は何やらもごもごと呟いたあと、「わ、分かったわ」と彼の示した椅子に大人しく腰掛ける。

 暖炉の火が、彼女の頬を橙色に染めていた。


 ――冬の気配が濃くなったこの頃。書斎では暖炉が焚かれるようになり、その側には頭も預けられる大きな天鵞絨ビロード張りの椅子も置かれていた。

 彼は執務が忙しく未だそこで寛いだことはなかったが、彼女を温めるには最適な場所だ。


「あぁ暖かい」

「モニカさま、ガウンをお脱ぎ下さい」


 湿ったガウンを乾かそうと、彼は親切にもそれを受け取って椅子の背に掛けた。モニカはすぐに寛いだ様子で椅子にもたれ、暖炉の火を見詰めている。

 彼はそれを上から視界に収め、そっと彼女の天辺の髪を撫でつけた。水気が飛ぶよう手櫛でかき混ぜる。

 すると無心の彼に、己の名を呼ぶ密かな声が届いた。椅子の横側に立っていた彼は、ついと首をかしげた。顔をのぞき込み、手が止まる。

  困惑か懇願か、上目遣いの瞳。

  その尖りかけた唇。

 彼は何か焦燥に駆られ、いやあの髪が濡れて、と言い訳をしようとした。視線を揺らした刹那。

 彼は遂に動揺で傾いた。


 寝間着ネグリジェ一枚。


(ラベリ侯爵家の寝間着は一年中薄手と決まっているのか……!)


 アニスは咄嗟、頭を抱え込みそうになったのを堪えた。

 ぐぬ、と声を漏らしたのは致し方ない。

 暖炉の火が織り光る純白に確かな影を作り、その凹凸を彼につまびらかに伝えていた。上下する胸元の円く柔らかそうなこと。

 今夜は胸元が紐ではなく、ボタンで留めてあるのは不幸中の幸いか。彼はそこまで確認してから背を向けた。

「アニーさま?」と、即座に離れようとする彼に声が掛かる。身じろぎの衣擦れ。


「わたくしはまだ仕事があります。モニカさまはすっかり温まるまで暖炉の側を離れてはいけませんよ」


 彼は執務机に戻りながら、硬く強い口調で言った。決して彼女を見ないよう。


「……まだお仕事があるの?」

「えぇ。書庫に入るときには、わたくしもお伴致します」

「そう。……それならやっぱり今、本を取りに行きたいわ。読みながら温まった方が効率的じゃないかしら」


 まさかモニカから効率を説かれると思ってなかったアニスは、ピタリと足を止めた。逡巡する。しかし直ぐさま、今し方目に焼き付いた薄着姿が彼の脳裏で主張したために、その意見は却下とした。

 ――書庫は外気と変わらない寒さと知れている。

 彼はわざとゆっくりと革張りの椅子に腰掛け、ペンを持ち上げてから返事をした。


「やはりもう少しお待ち下さい。せめてそのガウンが温まるまで」

「でも、わたくし暇よ。アニーさまはお仕事だもの、おしゃべりしている訳にはいかないでしょう?」


(確かに。いや、おしゃべりは問題ないが、その寝間着姿を直視したままでいるのはまずい)


 何がまずいのかは深く考えないにしても、アニスはモニカの発言に深く肯かざるを得なかった。遠目でも、その寝間着の白さは目に毒だ。

 毒を制するべく、何か他に羽織る物がないかと書斎内を見回したが、やはり見当たらない。仕方ないやはり暇でもこのまま待ってもらうか、とため息を吐きかけたときだった。


 彼は目の前の執務机に本が数冊積んであることに気づいた。

 それは書類の山を支えるためだけに置かれていたもので、彼女の好む恋愛小説ではないが。


(多少の暇潰しにはなるかもしれない)


 彼は一番上の一冊を持ち上げた。


「ガウンが乾くまで、こちらを読んでは如何でしょう?」

「あら、本があったのね。見せて頂戴」


 モニカは瞳を煌めかせ、パッと立ち上がった。「待っ」と、アニスが制止するより早く、彼女は膝下の裾をひらめかせて駆け寄ってくる。


「思ったよりたくさんあるのね!」

「……モニカさま、今お持ちしましたのに」

「いいじゃない、別に選ばせてくれたって……はぁ、ふぅ」


 あからさまに苦い顔をした彼にも彼女は頓着しない。本にだけ目が向いてその他は見えていないと言うべきか。駆けたせいか彼女は眉を寄せて息を大きく吐き出した。そして机の縁に身を乗り出す。


「ちょっ、モニカさま!?」

「あら、これ……」


 彼女はアニスの声を無視し、よいしょ、と無造作に手を伸ばした。

 書類の山を支えている本へと。


 ――ドサドサァ!……バサァ!


「きゃぁっ」

「……モニカ嬢!」


 アニスは支えを失った書類の山が一つ、ついでに二つ倒れ、おびただしい量の紙が舞い飛び散ったのを見た。同時に、モニカが悲鳴を上げながらバランスを崩すのを。


 ――彼は目の前に迫った、言い換えれば机に乗っかった彼女の胸元に注目していたためこの状況を回避できなかったわけでは、ない。(彼の名誉に誓って、断じて)

 彼女が手を伸ばしたのは署名済みの山だったのだ。『アニス=ヴィンセント=ヘレンゲル』の名を読まれては言い逃れはできないと、焦りで判断が遅れた。


 「大丈夫か!」アニスは散らばった書類を踏みつけながら机を回り込んだ。痛ぁ、と尻餅をついたままのモニカに駆け寄る。

 怪我は! と問えば「大丈夫ですわ」と眉を下げたモニカが応えた。強がってはいない様子に心底安堵し、彼は荒く息を吐いた。


「アニーさま、大事な書類が……」

「そんなことはいい。立てるか?」

「え、えぇ」


 アニスの静かな剣幕にモニカは目を瞬かせた。彼女は何かを思い出すようなヘーゼル色を向けたものの、彼が「さぁ」と支えればそれどころではなくなる。

 強く両肩を抱え込まれた彼女は、暖炉の側まで大人しく引きずられた。

 

 つい先程と同じく、アニスはモニカを椅子に据えると、自分のガウンを彼女の前に着せ掛けた。

 そして真っ直ぐ大股で壁際まで向かい――散乱した書類を避けて歩くのは不可能なので、歩く度に絨毯と紙の擦れる音が響く――彼は呼び鈴を力任せに引っ張った。

 その足で、積まれたままの本を取りに戻り、彼女に手渡す。


「今、侍女が来るでしょう。この有様では仕事になりませんので……それをしっかり着てこれを読んでお待ち下さい。ほら、前を閉じて」

「あ、アニーさま。わたくし……」

「わたくし、書庫まで行ってご希望の本を取って参りますわ。題名を」


 モニカは、はくっと口を開閉した末「ぁ……『ため息は口づけで塞いで』を」と、小さく言った。


「分かりました。侍女が来るまで、ここから動かぬよう。書類には触れないで下さいませ」


 彼女が「はい」と返したか返さないかの内、アニスは書庫へ――彼女に背を向けた。


     ◇


(……アニーさま、怒ってた)


 モニカはのろのろとアニーのガウンに袖を通した。ふくよかな彼女でも、それはひと回り大きく暖かい。着込んだ途端、アニーのぬくもりと優しい匂いが感じられて、彼女は情けない気持ちから目尻を僅か濡らした。


(せっかく会いに来たのに……ちょっとだけおしゃべりがしいと思ったのに……)


 目を落とした先には、アニーから手渡された本――詩の全集。濃い茶の装丁はずっと部屋にあったはずなのに冷たく硬い。彼女には、それがアニーの怒りに思われて胸が酷く痛い。 

 彼女は書庫の扉が固く閉ざされているのを見、唇を引き結んだ。首を力なく振り、反対側へ向ける。

 床一面の紙。彼女の目にはまた涙が滲んできた。


(わたくし、お仕事の邪魔を。……そりゃアニーさまだって怒るのは当然よ! バカね、勝手に悲しくなって。泣くなんて、わたくしおかしいわ)


 子どもみたいよ、と彼女が長い袖でまぶたを擦ったときだった。

 ノックが響き、間を置かずに侍女の顔が扉の隙間からはみ出た。


「キャリ……」

「あ、お嬢さま……って、どうしたんですかこれぇー!」


 キャリは独特の抑揚で、素っ頓狂な声を上げた。

「やっば! 何、これ激しすぎじゃない?」などと目をまん丸にして部屋を見回す。


 モニカは明るい侍女の様子に涙が引っ込んだ。――キャリは彼女より若い侍女だ。食事を摂るようになってから離れ付きと知ったのだが、彼女はその明るさを好ましく思っていた。

 二人きりのときには、まるで同じ年頃の友人のような気安さが流れることもあった。行儀作法にも口煩くないので、今夜は彼女にしては珍しく、母屋までの同伴を頼めたのだ。


(泊まりの侍女がキャリで良かった……もしため息でも吐かれてたら、明日は寝室から出たくなくなってたかも)


 きっとドロシィだったら大目玉だったわね、と一瞬現実がぎり、ようやく頭が冷えた。


(……アニーさまのことで頭がいっぱいになってたけど、やっぱりこれはわたくしの責任よ。わたくしが片付けなきゃ)


 ――モニカは侯爵令嬢としてラベリ家に生まれたが、ごく庶民的な感覚を持っていた。それは彼女が跡継ぎとして育てられなかったことに起因しており、王太子妃教育を受けたあとでも変わらない。

 本来の侯爵令嬢ならば、床に這いつくばって書類を拾おうなどと思いもしない行いだが。


「ね、キャリ。これ、わたくしがやっちゃったの。拾うのを手伝ってくれる?」

「もちろんですよぅ! でも絶対人出が足りないから、あと一人呼びますねぇ!」


 自分が落としたら自分で拾う。

 言葉は素直じゃないものの、心根は素直で純真無垢な『お嬢さま』だからこそラベリ家の使用人は皆、彼女を慕っていた。

 キャリは「足の踏み場がないってこれだわよぅ」などと可笑しそうに笑いながら、壁を伝って呼び鈴を鳴らした。「控え室にまだ数人おりましたから、すぐ来ると思いますよぅ」ニカッと笑うキャリに、モニカはホッと安堵した。

 アニーの怒りを受け止める勇気が湧いてくる。


(とにかく少しでも片付けなきゃ)


 モニカはアニーに渡された本を丁寧に椅子に置き、立ち上がった。ぶかぶかの袖を無理にまくり、彼女はぺたんと絨毯に膝をついた。

 一枚一枚、丁寧に拾い、重ねていく。先程アニーが無造作に踏みつけた紙は、全て透かしの入った高価な紙のようだった。何かの紋のようだが、目に留めないよう努める。


(破れてるのはなさそうね……下手に他家の情報を見てはまずいわ。できるだけ読まないように)


 慎重に目を細めた彼女は、『金の騎士と銀の魔術師金と銀』や『嘘つき文官の恋文嘘文』で培ったお仕事事情が役に立った、と口元を緩める。往々にして、機密文書は事件の始まりだ。


「あれぇ? そう言えば、アニーさまはどちらにいるんですかぁ?」


 キャリが作業をしながらモニカに尋ねた。「あぁ書庫に本を取りに……」と答え、彼女は初めてハッとした。結構な時間が経っている。


(アニーさま、どうしたのかしら)


 途端に心配になる。

 『ため息は口づけで塞いでためキス』は新しい棚にあったはず、と書庫を振り返る。


「アニーさま、ガウンも着ないで行かれたのに……大丈夫かしら」

「え!? アニーさまがどうしたんですか!」


 キャリが大げさに聞き返した。モニカは「いえ、遅いから少し……」と慌てて誤魔化した。それよりアニーが戻る前にできるだけ片付けておいた方がいい、と思い直しす。束になった数枚の書類を一気に拾い上げる。

 ひらり、何かが舞い落ちた。


(何かしら……小さい)


 ――手紙だった。

 

 拾い上げたのは、白く封蝋も押されていない封筒。

 中には確かに便箋が入っているようだが宛名がない。

 持ち歩いたのか、少々くたびれた……。

 アニーへの私信だろうか、と彼女は何の気なしに差出人を見た。


『ジャノルド=ホセ』


「…………え?」


 彼女は拾い集めた書類を全て、床に散らしてしまった。

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