閑話 貴方は何派?

 二階から誰かが階段を降りてくる物音に、ドロシィはついと顔を上げた。


 ――ここは母屋にある侍女や侍従の控え室で、邸内に三か所ある内の一室だ。邸中に張り巡らされた呼び鈴が、どこで鳴らされたものか一目で分かる部屋。とは言え、今このラベリ侯爵家にいる貴人はアニスとモニカしかおらず、呼び鈴が鳴るのは滅多にない。

 木製のテーブルとカウチ、椅子が三脚。小さな本棚と、庶民的な茶器の置かれたサイドテーブル――女性たちが噂話に花を咲かせるために必要なものが全て揃っている。

 ラベリ侯爵夫妻が別邸に移って以来、この部屋は侍女専用の休憩室化していた。


 ドロシィも今し方、侍女頭と今夜の報告会を終えたばかり。

 今日もモニカは朝から身支度を頑張り、朝食を食べて夕食も完食。続けている食事のせいか顔色もよく、夜更かしも朝まで起きている日は減ってきている。


(お嬢さまの明日のドレス、どれにしようかしら)


 ドロシィは心地よい疲労と明日への期待を胸に、黒のお仕着せを着たままカウチに足を伸ばしていた。厨房で分けてもらった干葡萄をつまんで寛いでいるところだ。

 すると部屋の隅にある母屋へ続く階段から、物音に次いで「ドロシィじゃない!」と元気な声が掛かった。


「もう報告終わったの? あ、あたしにも干葡萄食べさして!」

「あらキャリ、今夜は離れだったんじゃ?……あぁピケも一緒ね、お疲れさま」


 ポイッと葡萄を口に放り込み、ドロシィは目を瞬かせた。

 キャリはドロシィと同じ離れ付きの侍女。しかも今夜は泊まり込みの当番だったはずだ。ピケがこの部屋に来るのは何もおかしいことはないが、珍しい組み合わせだった。


「わたしがどうしてここにいるのって顔ねぇ!……フフフフ」

「ぐふっ」

「……二人とも変な声出してどうしたのよ」


 実はね、とキャリが椅子を引き摺ってドロシィの隣に寄った。ピケも湯の入っているらしいポットをテーブルに置きつつ、明らかな上機嫌顔で反対側の隣に腰を掛けた。


「お嬢さまがご自分で『書斎に行きたいって』言ったのようぅぅぅ……!」

「な、なんですって!」

「わたしもまさかお嬢さまの呼び鈴が鳴るなんて思わなかったからさぁ、焦ったわよぅ」


 ドロシィはあまりの驚きで、干葡萄を中途半端に噛み砕いたままポカンと口を開け放しにした。それに満足した様子のキャリが、「でさ、お部屋に行ったときのお嬢さまがね」と言葉を継いだ。


「『あ、アニーさまから叱られるといけないから、何か暖かい格好に着替えたいの』って言ったのよぉぉぉ」

「なっ、な……!」


 小器用なキャリの芝居がかった演技は見事な再現率――モニカがデレればそのようになるだろうと一目で分かる仕草と口調だった。


(あのモニカお嬢さまが。どんなに口を酸っぱくしても夜着一枚で外に出てしまう、お嬢さまが自分から……!)


 ドロシィは驚愕からゴクリと唾を飲み込んだ。瞬間、噎せ返る。干葡萄が変なところに入ったのだ。


「ちょっとぉドロシィ大丈夫? 驚きすぎよぅ。ピケ、お茶あげてよ」

「えぇ、今煎れるわね。……遂にお嬢さまがご自分から動いたんだもの。ドロシィが感動する気持ちも分かるわ」


 げほげほっと咳き込む苦しみで目尻に涙を溜めつつ、ドロシィはピケの台詞に内心疑問に思った。感動? と聞きたいが、息を吐こうとする度に咳が出てしまう。

 苦しむ彼女に「どうぞ」とお茶を差し出したピケは、ぐふぅっとおかしな声を漏らす。キャリも鼻先に散らしたそばかすを寄せ集め、ニヤけている。


「アニスさまったら、色気ダダ流しなのに初心うぶ過ぎる上、お嬢さまは筋金入りの鈍感。この一週間、わたくしがどれ程の不敬を重ねてきたか……! でもキャリ、わたくしの努力は間違っていなかったってことよね!」

「よっピケ! アニスさま付きの優秀侍女!」

「ふふふふ。お二人の初逢瀬を見逃したのは痛恨のミスだったもの……でもこれからは堂々と! わたくしたち侍女の前でも甘々ぐずぐずな空気を遺憾なく放出していただくのよ!」

「あのさぁ、さっき物陰からお二人を見てたんだけど、アニスさまったら自然に背中に手なんか添えちゃってたわぁ。……その手がぁいつしか肩へ」

「肩から髪へ」

「髪からぁ……頬そしてぇ……」


 キャーッ! とピケとキャリは大盛り上がりで手を叩き合った。ようやく呼吸が落ち着いてきたドロシィは「ちょ、げっほ……待って二人とも」と、口を挟んだ。


「アニスさまとお嬢さまの仲が良いのは結構だけれど、お嬢さまにはジャノルド殿下がいらっしゃるでしょう。そっちの親密はまずいんじゃ」


 彼女が全て言い終わる前に、三人の間に沈黙が降りた。

 突然静かになった二人に、ドロシィは慌ててお茶を啜った。


(わたし何かおかしいことを言っちゃったかしら)


 するとピケとキャリは目線を合わせ、二人同時にため息を吐いた。何よ、と問えば、キャリが「ドロシィは殿下派なのねぇ」と大げさに天を仰いだ。


「まぁねぇ。あれだけの美丈夫だもの、殿下を好ましく思う気持ちも分からないでもないわよぅ。でもさぁやっぱあたしは断ッ然! 物語に出てきそうな細身脚長体型が好みなのよう」

「そうねわたくしも同感。しかもアニスさまの素晴らしいところは、あの不機嫌顔から放たれる色気ッ! 首元から何か出し続けてるのよあの方。それにどうして男性なのって絶望するくらいお肌のキメが……はあぁぁ『アニーさま』とお嬢さまが並んで寄り添われているときの背徳感がッ堪らないわっ」

「分かるわぁー。でも、あたしは『ダーニャさま』が一番グッときたわよう。あの黒の色粉、取れるまで時間かかったのもツボだったし、もう見られないと思うとまた見たくなるわぁ。ドロシィ知ってる? この邸の中ってば、今やアニス派とアニー派、ダーニャ派、それと少数の殿下派でせめぎ合ってるのよ」


(アニス派とアニー派は分かるけど、なんでダーニャさま……一体何の話なのよ)


 ドロシィはだんだん苛々してきた。楽しげに語る二人と、自分の話が噛み合っていない気がしてきたのだ。


「わたくしは悩ましいけれど、やっぱりアニーさま派ね。あぁぁ……あの美の権現とも言うべき虚構の偶像をわたくしが創り上げていると思うと滾って仕方ないのよ」

「ピケはねぇ、美味しい役どころだもんねぇ」

「絶対にアニスさま付きは誰にも譲らないわ……! そしてお嬢さまにはアニスさまに陥落していただいて、ホセ国一の幸せ者になっていただくのよ」


 ドロシィは耳を疑った。


「よっ! 侍女の鑑! うんうん、お嬢さまは殿下よりアニスさまの方が合ってるわよねぇ。外務にお勤めの官吏であれだけ初心ってことは恋人はいないでしょうし、かなりの優良物件だもん」

「ちょ、ちょっと待って!」


 お嬢さまと殿下の婚約はどうするの!? と、ドロシィが言いかけたとき。

 リィンリィン! と呼び鈴が鳴った。


「わ!」とキャリが慌てて立ち上がる。


「ちょっと早くない!? もう少し長くてもいいのにぃ」

「もう夜分だからアニスさまが遅くなるのをご心配されたのでは?……ぐふっ」

「そうかも。フフフフフ詳細は明日、報告するわよぅ!」


 お疲れさまぁ、と笑いながら階段を登っていく彼女を、ドロシィは呆然と見送った。

 キャリが去った控え室は途端に静かになり、欠伸をこぼしたピケがわたくしも休もうかしら、と茶器を片付け始める。

 もう一杯飲む? と差し出されたポットとピケを交互に見遣り、ドロシィは眉を寄せた。


「ね、ピケ。さっきのって、冗談よね? 殿下よりもアニスさまの方が合ってるとか、お嬢さまに陥落してもらうとか」

「それはもちろん、本気よ」


 ピケは深く肯くと立ち上がった。言葉を失ったドロシィに苦笑を返す。


「だって考えてもみて? 何年も手をこまねいていた婚約者の方より、アニスさまの方が何倍も幸せにして下さると思わない?」

「そ、それは……」


(確かに)


 ドロシィは『ダーニャさま』の件を思い出した。ぐずぐずしていれば、お嬢さまが手遅れになってしまっていたことを。それをアニスに叱責されたことも。

 それに、とピケは表情を暗くする。


「まだお嬢さまは王家に嫁げる程、お元気じゃないわ。ご婚礼なんて考えられる? ドロシィ、もしもよ。アニスさまとお嬢さまが恋仲になったら……ラベリ侯爵家にお嬢さまが嫁ぐことになるのなら、わたくしはその方がお嬢さまに合ってると思うのよ」

「ピケ! なんてこと……」


 ドロシィは周囲に誰もいないと分かっていても、辺りを見回さずにはいられなかった。アニスがラベリ侯爵家の跡取り令息だと知っているのは、ごく一部だ。それに話の内容を家令に聞かれでもしたらと思うと気が気でない。

 もうみんな寝てるわ、とピケがため息を吐いた。


「わたくしは結局、殿下でもアニスさまでもいいのよ。お嬢さまが慕わしく思ってらっしゃる方と、添い遂げて欲しいだけ」


(お嬢さまが慕わしく……? 侯爵家に定められた婚約者ではなく?)


 ドロシィが言葉を咀嚼する間、そのために努力は惜しまないけれど、と不穏な台詞を残してピケは部屋を出て行った。

 ひとりになったドロシィは、いつの間にか伸ばしていた足を靴下履きのまま床に落としていたことに気づいた。絨毯の敷かれていない木床で冷えた足裏に震え、彼女は再びカウチに足を上げ、膝を抱えた。

 まぶたに今日のモニカが映る。


 ――支度の途中で眠りそうになるモニカ。

 ご無理なさらず、と声を掛ければ「アニーさまに認めてもらいたいの」と照れる頬。

 食事のあと重たげに体を動かしては、寝るのを我慢してしばらくぼんやりと外を見る横顔。

 茶会の前になるとソワソワし出し、髪型を気にするヘーゼル色の瞳。


(あぁそうか。書斎には本ではなく、アニスさまに会いに……)


 ドロシィはそこでようやく二人の会話の意味を理解できた。


(でもアニスさまは、アニーさま。お嬢さまがどんなに慕わしく思っても、結婚は)


 ツキリと胸が痛み、ドロシィは視線を彷徨わせた。

 干葡萄はキャリが食べていったのか、皿は空になっている。しかし厨房にも自室にも行く気になれず、彼女はただしばらくぼんやりと時を過ごした。

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