10.『親愛を得るには、親密に』
「モニカさま、ようこそ」
「……お招きありがとう、アニーさま」
朝の霧が晴れ、どこまでも高く青い空が広がる午後。アニスはモニカとの茶会のため、離れの応接室に並んで席に着いていた。
(空気が重い)
アニスは眼鏡越しに、そっと彼女をうかがった。
今朝と同じドレスを着て髪型を少々変えている。頭の上半分だけ三つ編みに結い上げた巻き毛はふんわりと自然に広がっていた。頬にはくるりとひと束落ちて、彼女が動く度に耳が見え隠れする。朝とは違う、昼の黄色みを帯びた光がまたしても彼女を眩く見せていた。
傍らには『
「それでは、アニスさま。何か御用がございましたらお呼び下さいませ」
「えぇ。ありがとう」
多弁な笑顔でアニスに一礼し、ピケや他の侍女たちは音も立てずに退室した。
「あら、お茶は誰が煎れますの」
下がっていった者たちから彼に視線を動かし、モニカは怪訝そうに眉を寄せた。
「わたくしですわ、モニカさま」
「……アニーさまが?」
「えぇ。わたくし、実はお茶を煎れるのが趣味なのです」
モニカは目を丸くした。
ごほっと不自然な咳払いを一つして、アニスは口の端を上げた。
「驚かれましたか? やはり侍女の方が安心でしょうか……最近は早起きもお食事も頑張っていらっしゃるモニカさまに、わたくしも何かできればと思ったのですが」
「そっそうなの? いえ……そんなに言うなら飲んで差し上げますわ!」
では準備致します、とアニスは立ち上がった。
(ここまでは予定通り)
彼はポットを持ち上げながら、頬を赤らめる彼女をチラリと見た。すでに温めてあるポットに茶葉を二人分入れる。湯を注ぎ、蓋をした。
(とにかく彼女を喜ばせねば)
――つい数刻前のこと。
「あぁぁぁ……! 何てことでしょう! どうしてわたくしをお呼び下さらなかったのですか!」
ピケは文字通り、床の上に這いつくばった。アニスはそれに度肝を抜かれたが、ギロリと睨み上げられれば自然と言い訳がこぼれ出た。
「いやしかし、モニカ嬢もすぐに出て行ってしまって」
「何を仰ってるんですか! 呼び鈴は隣室、そこですよ! そこ! あぁぁわたくしを呼んでいただければ、お待ちいただいて
「は?」
「アニスさまは、本当にお嬢さまと仲良くなる気がおありですか!? 当代の『
ピケの勢いは恐ろしい程で、アニスは気の利いた口を挟むことができない。
(……仲良く、の意味が違うような)
「あぁ何て美味しい機会を逃してしまったの」とよろめきながら立ち上がる彼女を恐々として見守るしかない。先程から、彼女の言は明らかに不敬。
ただこれまでの経験――興奮しているときの彼女に楯突いては支度が終わらない――故に彼は大人しくしていた。
「とにかくアニスさま! お嬢さまと心を通わせるためには今が正念場でございます!」
「あ、あぁ」
「お褒め下さい」
「はい」
「お嬢さまの好ましいところを、これでもかと。そして体に触れるのです」
「はぁ!?」とアニスは声を裏返して叫んだ。
「君は何を言ってるんだ! 彼女はジャンの婚約者だぞ! 僕が触れて言い訳が」
「わたくしは女性同士のような、軽く手や肩に触れる程度のことを申し上げたのです」
ぷくぅっとピケの頬が含み笑いで膨らんだ。
彼はそれに気づくと真っ赤になって顔を背けた。
(侍女に遊ばれるとは!)
「……アニスさまは堅く考えすぎです。要はモニカさまが笑顔になればいいのですから。そのために肩に手を置いたり頭を撫でたりしたっていいのですよ。今よりも仲良くなるには、友人としての親愛を示す必要がありますわ!」
気を取り直したピケはそれらしいことを並べ立てた。
彼女に背を向けたまま、そうか? とアニスは思案し始める。
体に軽く触れて親愛を示す方法については、モニカが倒れる前には簡単に実践できていたことを思い返す。
ごく自然に肩や手に触れていた。
(そうだできるはずだ……以前は何の感慨もなくできていたのだから……)
同時に彼は
「……確かに、女性同士は服装や装飾品を褒め合う。肩に触れるくらいなら当たり前か。か、髪にも」
「そうです。何度も言うようですが、アニスさまは女性としてお嬢さまと接していらっしゃいます。ですから、何も気負わずに片おも……行儀指南役として可愛がっていただきたいのです。お嬢さまを勇気づけ、舞踏会に連れ出すのですから!……あぁそれから、家族や親密な友人を励ますときには抱擁も一般的ですわね!」
ほ、と彼は息を飲んだ。何かを思い出し手の甲まで赤くなる。
ピケは鼻息荒く「ですから」と前のめりで言い放った。
「大切なことは、お嬢さまが笑顔でいらっしゃることなのです! いいですか、お嬢さまがお喜びになるのなら、アニーさまが抱擁なさっても、なんなら頬に口づけても何の問題もないのです!」
◇
モニカはカップを両手で包み、口元に寄せた。
芳醇な茶の香気と暖かな甘さが鼻を抜けて体中を巡り、自然、ほぅと肩から力が抜ける。程よい熱さに一口飲めば、喉を過ぎる間にも香りが立った。
彼女は知らず目を瞑って味わっていた。
「美味しい……これはヘレンゲル領の?」
「えぇ、さすがですモニカさま。わたくし普段はこちらを飲んでおります」
「そう。アニーさまお上手なのね。わたくし……お茶なんて煎れたことないわ」
冷たくあしらおうと思っていた気持ちがお茶でゆるりと解けて、彼女はつい素直に弱気な声を出した。昨晩、胸がもやついてからずっと気が晴れないことも原因と分かっていながら。
(今朝、アニーさまが身支度のことに気づいてくれなかったから……『よく頑張りました』と褒めてくださると思って早起きしたのに。ま、まぁ眠れなくて起きてたことは秘密だけど!……つい冷たい態度をとったのにも何も言わない。アニーさまはやっぱり優しいわ。……わたくし、ひとりでへそを曲げてバカみたい)
モニカの気持ちがさらに沈み込むのを余所に、「あら」と、アニーは首を傾げた。眼鏡が光を反射して、彼女の方からは表情が分からない。
「わたくしがお茶を自分で煎れるようになったのは、人を呼ぶのが面倒だったからですわ。ですから、モニカさまが無理して覚えることではありませんよ」
「そう。でも……いいえ何でもない」
モニカはアニーの返答に、何故かひどくがっかりした気持ちになった。可愛げなくふてくされて声が硬くなった自覚にさらにしゅんと顔が俯く。
(せっかく美味しいお茶を煎れてくれたのに……わたくし、どうしてこんなに気持ちが滅入るのかしら。ずっと楽しみにしていたお茶会もこれじゃ台無しだわ)
「……モニカさま、やはりお好みではなかったのですね。何だかお元気がないようですわ」
茶器が優しく音を立て、アニーが立ち上がる気配にモニカは目線を上げた。何もかも億劫な心持ちに従ってゆっくりと。
だから彼女は、肩に乗ったアニーの手の体温を感じた瞬間、まるで作り物のように艶めく金髪の上を光が滑っていく様子をつぶさに見た。
粉をはたいたきめの細かい肌に、真っ直ぐで高い鼻梁。
細い顎の線。
――アニーは彼女の傍に跪いていた。
重く暗い靄に覆われていた彼女の胸は、ぎゅと理由なく締め付けられた。
親密な距離、長い指が丸っこい手に触れた。
「どうかお悩みをお話し下さいませ。モニカさまにそのような悲しいお顔は……そう、笑っている貴方さまでいて欲しいのです」
「アニー、さま……」
モニカはあぁ泣きそう、と目に力を込めた。ダーニャの台詞に似たアニーの言葉。
(……自分でもどうしてか分からないのに。そんなの上手く言えないわ)
アニーは肩から手を離し、彼女の手を今度は両手で再び包み込んだ。その美しい大きな手はとんとん、と彼女の膝の上を拍子をつけて弾む。
(止めてよ。わたくしが駄々っ子みたいじゃない……!)
再び込み上げそうになる涙に、彼女は弱々しく抵抗した。咄嗟に手を取り返そうとして、むしろ強く握り返されてしまう。
肩が跳ねた。
「も、もう大丈夫よ! ちょっと……そう、ちょっとだけ眠たかっただけですわ!」
「本当ですか?」
「本当よ! だって、ほら、今朝は身支度でいつもより早起きだったからよ」
彼女は包まれた自分の手――少々骨張ったアニーの手を睨みつけて誤魔化す。
「それなら良かった」とようやく握っていた手を離し、アニーはドレスの裾を気にしながら立ち上がった。
モニカがホッとしたのも束の間。彼女は髪に何かが触れる感覚に顎を反らした。
「あ、アニーさま……?」
「今朝の髪型は思わず見とれてしまう程、可憐でしたけれど……こちらの下ろした形もお可愛らしくて素敵ですわ」
「へ?」
くるりと指に巻き毛が絡む。
(なっ、何? アニーさま、近い!)
「この薄桃色のドレス、よくお似合いです。本当は朝、お伝えするべきでしたが遅くなって申し訳ありませんでした」
「えっ、いえ、いいのっ。別にそんな無理して褒めてくれなくっても!」
「……無理にではありません」
さらりとアニーの髪がひと束、視界に降りてきた。
耳元に顔を寄せた気配。
「今も……とてもお可愛らしいですわ」
きゅんっとモニカの背が伸びた。
(なっ、なな、何! 今の何!?)
モニカは混乱と当惑と動揺で爪先まで真っ赤に染まった。
その間にアニーは遂に自分の席に戻り、「あら、お茶が冷めてしまいましたね」などと呟いている。
(可愛いって! わたくしのこと可愛いって、褒めた……!)
呼吸すら正常にできず、はふっと熱い息を吐いては不器用に体を震わせるモニカは、姿勢を保つことに精一杯だ。
今さら何よ! と憎まれ口を言おうにも、唇が喜びで歪んでしまうのを押さえられずに彼女は呻いた。
先程まで重い靄に沈んでいた自尊心が、今はもう風船のように軽くなっていることには、まだ気づかぬまま。
◇ ◇ ◇
結局、アニスは手紙を一週間持ち歩き、八日目にして渡すことを諦めた。
アニーに恋人がいる件についても誤解されたままにしておくはずが、その話題になる度に暗い顔になる彼女が見ていられず、殆ど真実を話してしまった。
「……では、本当に恋人ではないの?」
「えぇ。実は、先日こちらに仕事で来たのはわたくしの幼なじみなのです」
「幼なじみって……小さい頃から仲良しだったってこと?」
「そうなのです。男性には間違いないのですが、兄妹のように育ちましたので一緒にお酒を嗜むことも多いのです。それで、あの夜はわたしくもつい飲み過ぎてしまい……」
「で、でも! 男性の前で首元を肌蹴させるなんて……」
「それは! 相手が眠り込んでからボタンを外しましたので、見られておりませんわ!……もし見られたとしても、先方には婚約者がおりますから」
そこで「そう。婚約者が」と、表情が突然に曇り俯く様子を見てしまい、アニスは
毎朝のように身支度を整えては、日に日に食事の量を増やすモニカを前に、彼はその明るい眼差しを曇らせることを躊躇してしまう。
ただしその甲斐あってか、朝食も二日に一度開くお茶会も、そして夕食も、モニカはアニーに対して常に笑みを浮かべるようになっていた。
また夕食だけなら、アニスと同じ献立の半分の量を摂れる日も出てきた。
ツンと可愛げのない言葉を言うことも、口を尖らせていじけることも多いモニカ。
しかし女性と親密になったことのないアニスからしても、モニカとの仲は非常に良好と感じていた。
「だが今日も、切り出せなかった」
アニスは執務机に項垂れ、深いため息を吐いた。
渡すことは諦めても、『婚約』について何某かの話題を出す努力はしていたが。
「このまま、話さないでいられればどんなに」
ハァ、と彼は何度目かのため息を吐いた。
ピケともこれには頭を悩ませ、結論が出ていない。「お嬢さまが『話をしたい』と仰るまで、お待ちになっては」とさすがの侍女も慎重論を展開している。
――ジジと燭台の火が揺れ、アニスは我に返った。
今は夜。書斎にて書類を片付けようと、夜着でペンを走らせていた途中で考え込んでしまっていた。
彼は、鬘を外し銀の髪を簡単に結わえている。もしまたモニカに出くわしてしまっても、銀髪と分からぬように。
(最近気づけばモニカ嬢のことを考えてしまう……僕は、バカだ)
自嘲に眉間を寄せ、ペンを持ち上げる。書きかけていた言葉を思い出すために、彼は一から書類を読み始めた。
「……アニーさま?」
――彼はハッと顔を上げた。ノックが聞こえない程、今度は集中していたらしい。
鈴の鳴ったような、不思議と耳に残る声。
(この声は)
そこには予想通り、モニカがいつかのように書斎の扉口に佇んでいた。
彼を見ていた。
「モニカさま、どうしたのです?」思わず立ち上がった彼は、彼女の立つ扉口まで駆け寄った。
「まさかまた侍女を付けずに……!」
「違うわ! ちゃんと送ってもらったわよ。戻るときは呼び鈴を、って今下がっていったわ」
あぁ、とアニスは安堵で額を覆った。安心しました、と告げれば得意そうな微笑みが返ってくる。
(全く、人騒がせな)
悪態を吐く内心とは裏腹に、彼の口元はつられたように緩んだ。
アニスは自然に彼女の背に手を添え、「ここは寒いでしょう、どうぞ中へ」と促した。
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