9.『小さな変化にも敏感であれ』

 ジャンを見送ったその足で、アニスは離れの食堂へ向かった。手紙はピケに預け、いつでも出せるよう指示しておく。

 池を巡らした離れ一帯はますます霧深く、玄関には明かりがぼんやりと灯されている。コートを脱ぎまとわりついた水気を払われる間、彼は人知れず呼吸を整えた。

 ジャンの見送りのあとすぐモニカに会いに行くことは、些か詐欺師紛いではないかと罪悪感が湧き上がったのだ。

 同時に、昨晩の誤解を抱えたままの彼女がどう反応してくるのかも気に掛かっていた。


「おはようございます、モニカさま。昨晩はご面倒をおかけして申し訳ございませんでした」


 真白な外を映す窓にモニカの影を認めた途端、彼は深く頭を下げた。

 それは正しく謝罪のためであり、恋愛云々はともかく雇われた者としての義務を果たすべきと判断したからだったが。


「おはよう、アニーさま。何をそんなに謝ってらっしゃるの?」


 深くお辞儀をし続ける彼に対し、モニカはとぼけた調子で声を掛けた。


「ここに来られたってことは、体の調子は良くなられたのでしょう?」

「えぇ、もう何ともございません。少々飲み過ぎましたこと、反省しております」

「ふふ。アニーさまも酔っ払った姿が見られてとっても愉快だったわ」


 その気安く意地の悪い笑みを浮かべたような声に、彼は少しく安堵し顔を上げた。

 一瞬、視線が交わる。

 ドキリとした彼がダメ押しの謝罪を口にしようとしたとき、彼女は素っ気なく顔を背けた。「もういいから席にお着きになって」と。


(何だ、機嫌が悪いのか?)


 朗らかさのない態度に違和感を持ちながらも、彼はとりあえず従順に返事をする。逆光の中、ぼんやりと窓の外を眺める彼女にゆっくりと近づいた。

 

……?)


 驚きから、アニスの足は自分の席にたどり着く前に止まってしまった。もし眼鏡を掛けていなければ、彼の琥珀はこぼれ落ちたかもしれない。


 ――モニカは侯爵令嬢然とした身支度でそこに座っていた。早朝にも関わらず。


 落ち着いた桃色のデイドレスは暖かそうな仕立てで秋らしい可愛らしさ。後れ毛を残して緩く結われた巻き毛は、ドレスに合わせた大ぶりのリボンで纏められている。

 案の定、寝不足の顔をしてはいるものの、薄く施された化粧のお陰か瞬きすら軽やかに見えた。

 さらには、いつもは簡単に櫛を入れただけと分かる髪が、今朝は珍しく結い上げられている。

 彼がそれに気づいた瞬間、霧が晴れ始めたのかパァッと部屋が一段明るくなった。

 小さな貝のような耳朶。くるりと巻く金の後れ毛に飾られた項。けぶる睫毛をささやかに彩る色粉の煌めきが、朝陽にいよいよ白く映えて彼の目を潰しに掛かった。


(か、かわ……)


 アニスは呆然と突っ立っていた。知らず口から感じたことが漏れそうになり、むぐっと口を押さえた。


(いや待て僕! 朝からドレスを着るなんて、当たり前のことじゃないか。何をそんなに慌ててる!)


 しかしアニスの体は何故かふらつき、手は椅子の背に縋りついた。


「……何よ。アニーさま、まだ何か言いたいことでもありますの? そんなにわたくしの格好が変ですの」


 彼の視線に横目で気づいたモニカは、つんと澄まして顎を上げた。彼は無礼を自覚し、慌てて椅子に腰掛けた。


「も、モニカさま。その、今朝はどう」

「止めて下さる? わたくしそんなに見詰められたら穴が空くかもしれませんわ」


 言葉遣いまで丁寧で嫌味。まさしく正統派令嬢と言える態度に、彼は「重ねてのご無礼、失礼いたしました」と、とりあえず謝った。長年の侯爵令息姉に遊ばれてきた弟としての本能がそうさせたのだ。

 懸命に表情だけは取り繕い、眉を下げた微笑みを返す。今朝の彼女は格好から何から全て別人。


「……今日はお茶会はできるのかしら」

「えぇ、もちろんです」


 アニスは大げさに肯き、「昨日の埋め合わせも含めて、モニカさまのお好みに合わせますわ。話題は『金と銀』と何にいたしましょうか」と言葉を継いだ。小説の名前を出せば機嫌は直るだろうと。

 しかし「そうね」とつまらなそうに首を傾ける彼女に、彼は内心で頭を抱えた。


(彼女の態度は一体。……ジャンからの手紙を渡すどころじゃない)


 とは言え、彼の理性は二日酔いを起こしていると言っても過言ではなかった。彼女に掛けるべき言葉が分からず、ただどこか不機嫌な様子を見守るしかできない。見守ると言っても、彼女の整った格好を直視はできずに。

 するとモニカが億劫そうに目を伏せ、少しも楽しくない――ドレスについた糸くずを払って頂戴、と指示するような――調子で言った。


「……それなら、アニーさまの恋人との出会いや熱烈な逢瀬のお話をお伺いしたいわ。昨晩はせっかくお目に掛かれたのに、お辛そうでしたから聞けずじまいで残念でしたの」


 ――しん、と部屋が静まり返った。


 静けさの中、瞑目しかけたアニスは「えぇ、分かりました」と辛うじて応えた。口の端は引き攣り掛け、微笑みもそれらしい何かとしか言えない代物だ。

 同時、ガタッと大きな物音が響いた。

 侍女の控える、アニスの背後の方からだった。食事を運ぶワゴンが不自然に止まった音。

 何事かと、彼よりも先に視線を遣ったモニカの顔があからさまに強張った。

  

「……まさかお嬢さま、またおひとりで母屋に行かれたのですか」


 アニスは僅か、首を竦めた。まるで獰猛な獣が牙を研ぐ気配が漂ってきたからだ。

 忠義深い侍女ドロシィの低い台詞に、モニカは遂に「げっ」と淑女らしからぬ声を上げた。淡く色を乗せた唇が忙しなく開閉する。


「ち、違うわよドロシィ! 聞き間違いでしょう? 小説の話よね、アニーさま」


 モニカは咄嗟、彼に片棒を担がせようとしたがそうはいかない。

 彼は慎み深く目を伏せた。


「いいえ。わたくしは昨晩、母屋で確かにモニカさまにお目に掛かりました。モニカさまはまた、夜着姿でおひとりで」

「う、裏切り者ぉ!」

「お嬢さま。『どんな夜分でもお伴しますのでお呼び下さい』とお話しておりますのに……何かあったらどうするのですか!」


 そうだそうだ、とアニスは肯きながら水を飲んだ。幸運なことに話が逸れ、モニカの奇妙な態度も己の緊張も解けた。常温の水が乾いていた喉を潤し、彼は急速に平静を取り戻す。

 それはモニカにとっても同じことだったようで、正統派令嬢の仮面はどこへか剥がれて飛んで行ったようだ。

 ドロシィが朝の清浄な光の中で、うっすらと青筋を浮かべて彼女に小言を放っている。苦々しく口を尖らせるいつもの表情に、アニスは苦笑を押し込めた。


(たっぷり叱られてしまえ)


 面倒な誤解も今朝の強く出られない状況も、元はと言えば全て彼女の夜歩きが原因なのだからと、そう思った矢先。一しきり説教を終えたドロシィの矛先が、彼に向いた。


「アニーさまがついていながら、どうしておひとりで帰したのですか!」


 鋭い切っ先正論。彼がギクリと目を上げれば、モニカも肩を竦めていた。リスのような瞳が何か訴えているが、よく分からない。

 ドロシィに対し、「いえ、その」と彼が言葉を濁すとモニカが「だって仕方なかったのよ!」と喚いた。


「わたくしがいいって断わったのよ! アニーさまはお疲れだったし、わたくしに構ってたら恋人との逢瀬の余韻を楽しむどころじゃないでしょう?」

「アニーさまの恋人? 逢瀬、ですか?」


 ドロシィが眉を寄せ、怪訝な顔つきになる。壁際からも侍女たちだろう鋭い視線が投げかけられる気配。


「モニカさま、それはその誤解なのです……!」


 彼は咄嗟に口を挟んだ。挟んでしまった。

 モニカの妄想を全て全肯定する決心の元にここへ参上したつもりだったが、皆の前で『逢瀬の余韻』などと大仰に語られ、侍女に睨まれては堪ったものではなかった。


「誤解、ですって?」


 しかし、モニカの思い込み読書量はそれを許さなかった。先程の令嬢然とした彼女が懐かしくなる程に。(彼女の語った内容は殆どが妄想だが不思議な説得力があったと、後にピケは語った。)


「何が誤解なものですか! あんなに首元を露わにして髪も下ろして。わたくしには『仕事の方』と手紙で説明しましたけれど、本当はアニーさまの恋人なのでしょう? あんな時間まで女性が客室でお酒を飲むこと自体おかしいですから! そうだわ、お相手は外務の同僚の方かしらと思ったけれど……あんなに遅くまでお酒を嗜まれて、アニーさまがフラフラになるくらいのむつ……えぇと体力のある方だとすると、恐らく軍の方よ」


 長台詞に唖然とし、最後ぎくりと顔を強張らせた彼に、「やっぱり」と笑みを深めたモニカはさらに言い募る。


「『夜薔薇』に拠れば、アニーさまのお好みは無口で体格のいいラングですから、その点からしてもお相手は軍の方で間違いないはず。……でも変ねぇ。逢瀬の翌日は肌艶がいいと聞くのに、アニーさまは」

「お嬢さまいい加減になさって下さい!!」


 モニカの迷推理はドロシィの一喝で幕を閉じ、彼の誤解がその場で解かれることはなかった。そこから二人は正しく淑女らしく、食事に集中しなければならなかった。


 


 ドッと私室のカウチにもたれ込んだアニスに、ピケは「お疲れさまでございます」と神妙に声を掛けた。


「……疲れた、眠い」


 モニカの薄桃色の可憐なドレスに対し、アニスは群青を僅かに淡くした楚々とした色合い。もちろん、いつもながら首元は高く隠されている。ただ、袖口がすぼまっていない形。たっぷりとしたレースと布で、まるで翼のように美しい広がりと華やかさを演出していた。

 その広い袖に半分顔を隠し、物憂げに眉を顰める彼に、ピケは鼻を押さえながら感嘆の息を吐いた。


「随分と寝不足のご様子、午前中の執務をお休みされては如何ですか」

「あぁ。……いや、また書類が届くだろう。今日は良くても明日以降、茶会を催す時間がなくなってしまう」


 「かしこまりました」と、返事をしたピケの動く気配に、アニスは「お茶を」と短く言った。しかしすぐさま返ってくるはずの応えがない。

 彼は不審に思い、重い袖を顔から外して気怠く起き上がった。


「……ピケどうした」


 彼女は元立っていた場所から半歩も動かず、そのまま佇んでいる。彼は再度、声を掛けた。


 「……アニスさま。大変差し出がましいと存じますが、発言をお許しいただけますか」


 彼は眉を上げ、「構わない」と彼女に向き直った。装い以外のことで彼女が発言を求めるときは、何かしら己に実のあることと決まっていた。

 しばしの沈黙。

 ピケははっきりと物申した。


「アニスさま、お嬢さまをお褒め下さい」

「ほ……は?」

「お気づきになりませんでしたか。普段のアニスさまと同じ身支度を、あの夜更かしのお嬢さまが早朝からお受けになったことを。お嬢さまのお髪はドロシィが苦労して結い上げなければまとまらないある意味剛毛。……ですが一度ひとたび結わえれば巻き毛が可憐なッ装飾品のように……あぁ申し訳ありませんお話が逸れました……こほんっ。とにかく、晩餐でもないのに薄化粧まで施された女性のご覚悟に何のお言葉もないだなんて、わたくしたち侍女はがっかり……いえ、侯爵令息の名折れと存じます。午後の茶会の場で結構ですので、是非に、お嬢さまの身支度をお褒め下さいませ!」


 アニスは素早く瞬きをし、言葉の意味を考えた。考えた。そして数瞬後、頭を抱えて髪を掻き毟りかけた。もちろん羞恥で!

 ただしすぐに「おぐしが崩れます!」と、ピケの叫喚によって止められたが。


「女性の容姿を褒めるなど、簡単だ……」

「そうでしょうとも。アニスさまでしたら、呼吸をなさるようにお嬢さまを賞賛して下さると信じております。それが、お嬢さまのお元気に直結致しましょう」


 アニスはほとんど唸り声で「分かっている」と、応えた。

 今まで彼女を褒めたことがなかっただろうか、と記憶を掘り起こす。なかった。

 彼は絶望に顔を覆いかけたが、袖の大ぶりなレースが頬を撫でたことでハタと気がついた。己がモニカにとってはアニー女性であることを思い出す。


(そうだ僕はアニー。簡単だ、やったことはないが。あの巻き毛の可愛らしさや肌の白さ、目元の煌めきを賞賛すればいい……そうだ姉さんたちを褒めるのと一緒だ、何が難しいものか)


 ピケは百面相する彼を気遣いつつ、しかし明らかに興奮を秘めた瞳を光らせた。鼻に力を入れ、俯かないよう気をつけて。


「ドロシィもあのお嬢さまのお言葉までは、嬉しさにいつ涙をこぼしてもおかしくない程でした。ですが……先程のお二人のご様子から考えれば、もしや昨晩何かあったのではないか、と」


(何もなかった、とは言えない)


「アニスさま。まさかお嬢さまに、ジャノルド殿下とご一緒のところを目撃されたのではありませんか」

「その可能性はない」


分の悪さを感じながら、彼はその問いをきっぱりと否定した。


「ですが、あれだけ殿下の特徴を射た『恋人』との逢瀬などと……一体どういう訳かご説明いただかないと、わたくしたち侍女は妄想が滾、お嬢さまのご心情が心配で堪りません」


 有無を言わせぬ口調。理性が二日酔いの彼に勝ち目はなかった。

 アニスはピケに、昨晩の出来事全てを白状した。

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