8.眠れぬ夜は誰のせい

(ななな、何、あれ! 何よあれ!)


 モニカの顔に張りつけていた余裕は、扉を閉めた途端に剥がれ落ちた。それはもう見事に茹で上がった色になった。


(何あれ、アニーさま何か出してた。出てた、ダダ漏れよ! あれが色気なの? ああいうものなの!? 首が肌蹴ただけであんなにエ……いかがわしい雰囲気になっちゃうの。それともアニーさまが事後だからなの!?)


 手で頬を仰ぎながら部屋から離れる。燭台を持たないまま来てしまったと気づいたが、彼女にもう一度部屋に戻る勇気はなかった。はぁぁぁと熱の籠もった息を吐き出し。フラフラ前に進む。

 モニカは庭を全力疾走したような疲労感を感じていた。実際、普段何の運動もしない毎日をしてきたところに急に人を支えて歩いたからか、体のそこかしらも気怠い。

 特に怠い腕を撫でれば、アニーに寄り添い絡めたときの感触や体温がまだ感じられて自分の腕ではないように浮ついていた。


(支えるためとはいえ、アニーさまとあんなにくっついたの初めて、だわ。いいえ、あんな風に寄り添ったのは夢の中のダーニャとしか……)


 羽織物を直されたことは何度かあったが、彼女から近づいたりは、とここまで考えてモニカの心臓はドキンッと強く打った。


 擦れた耳。

 首裏に差し込まれ、食い込んだ熱い指。

 闇の中でもうち光る髪が肌を滑りくすぐる。

 目眩すらした、心をかき乱される酒気と彼女の匂い。


 背筋を撫で上げるような怖気が走って、モニカはぶるり、と震えた。知らず目が潤む。


(よ、酔ってたのよ。きっとわたくしをお相手と間違えて! だからあんな風に頬ずりを……)


 『夜薔薇』のラングのような大柄な男性。背の高いアニーとはお似合いの美丈夫。普段は貞淑なアニーの髪が大きな男性の手に解かれ、腰を引き寄せられ幸せそうに頬を寄せる。彼女の真っ直ぐな髪もいつも美しく伸びた背中も、誰かの太い腕に囲われて乱れ首が露わになって――。


 モニカは自分の妄想に激しく首を振った。殆ど解けた胸紐ごと、丸っこい手で胸を覆う。ひどく胸がむかついた。まるで菓子を食べ過ぎたあとのように。


(嫌だ、なんか……気持ち悪い)


 嘘のように熱気は冷め、彼女は両腕を抱えた。寒い、と呟いた。

 羽織は結局、廊下に落としたまま来てしまったので、彼女は夜着一枚で通用口から足早に庭に出た。

 冷えた空気が巻き毛の隙間から項を抜け、彼女は肩を竦めて歩く。ひと足ごとに芯から冷えていく。

 急ぐ道にふと明るさを感じて見上げれば、黄色みがかった月が浮かんで彼女を見下ろしていた。


(まるでアニーさまの髪の色……)


 目が夜に慣れ、月明かりだけで離れへと戻る。


(何か、読みたい。そう『夜薔薇』を。ダーニャの甘い台詞を読み返したいわ)


 しかしそう思う間にも彼女のまぶたには、暗闇で呆然と眺めた髪の色や桃色に染まる耳元がちらついた。

 震えて吐く息はかすかに白く形を作り、すぐに夜に散り散りになった。


     ◇


 伸ばした手をゆっくりと下げたアニスは、混乱に自然に息を吐き出すことにも苦戦していた。


(な、何を言っていたんだ!? 恋人? 睦み合う……? 真っ直ぐ歩けなくなるとは)


 数瞬後。彼は思い至り、カァッ! と指の先まで赤くなる。ひとり目を剥いた。下ろした髪をくしゃくしゃにする。


「彼女は小説の読み過ぎだ……!」


 モニカにとっては自然な発想なのだろうが、如何せん彼は女ではなかった。 

 彼は、モニカと語り合おうと約束している『金の騎士と銀の魔術師』の男性同士の性愛的場面クライマックスのやけに微細な描写が浮かんでしまい、「勘弁してくれ」とカウチに転がった。それがジャンの顔にすげ変わりそうになり、うえぇと呻いた。

 が、すぐに起き上がる。


(僕は……彼女に抱きついてしまった)


 彼はまたも青ざめた。

 酒気を帯び、髪を下ろして首元を晒したまま部屋を出たところから記憶をたどる。モニカにばったり出会い、そしてどうしてか彼女に触れたくなって我慢できず髪に手を差し入れた。あまつさえ抱きしめた。離れたのはいいものの、酔いで足元が危うくなり、鼻息荒い彼女に引っ張られてここまで来た――深夜に女性を部屋に連れ込んだ。


(即、投獄案件だ)


 しかもよく考えれば、雇われ指南役が客人とこの時間まで酒を飲んでる時点でおかしい。事情を知る使用人たちは目を瞑ってくれたが、相手が王太子殿下だから許されたとしても無礼過ぎる行い。

 ジャンと樽一つ分空けて判断が鈍ったか、と顔を覆う。


(女性の身では、客人の前で首元を緩めるなんてあり得ない。娼婦でもなければ)


 だとすれば、と彼は膝に頬杖をついた。


(彼女の妄想は自分にとって好都合か)


 ジャンの名だけを隠して真実を告げ、不名誉な行いと思われるよりも、彼女の中で美化された恋愛物語として認識されている方が平和ではないか。

 彼はそう思い至り、己の格好をゆっくりと見下ろした。

 薄く色づけられた爪は夜になっても整ったまま、足を組もうとしてもごわつくドレスが邪魔をして淑女らしく座るほかない。


(僕は、彼女にとって女性だ)


 彼は分かりきった事実を反芻し、故に名誉が保たれたことを暗い気持ちで受け止めた。以前も感じた何かが胸を浅く抉っていったが、言葉にならない。


(すまない、ジャン。今夜のことはなかったことにさせてくれ)


 先程まで腕に巻き毛の触れていた肩口を、彼はそっと撫でた。本当はあのとき目の前をふわつく髪を撫でたかったのだと知った。

 撫でていたらどうなっていただろう、とぎった不埒な考えに頭を振る。すっかり酔いは覚めており、裏切りを許さぬ理性が息を吹き返していた。


「今夜限り忘れよう。朝には、いつものアニーになればいい。だから今は」


 それ以上は発せなかった。

 

 ――支えようと腕を絡め、『送って差し上げます』と強引に歩き出すモニカ。

 ――安易に彼の部屋に入り込むモニカ。

 ――『明日の朝食に来ないと許さない』と、独占欲めいた台詞を言い放って出て行ったモニカ。

 未だ鮮明な記憶に身を委ねる。


 火を消して回り、部屋が暗闇を迎えても熱の引かない体にアニスは力なくカウチに横になった。

 乱雑に眼鏡を放ると、カスタード色の満月が空に輪を放つのが見えた。いつの間にか随分時間が経っていたようだ。

 彼の琥珀色はしばし静かに月を溶かしたまま、閉じることはなかった。


     ◇ ◇ ◇


 翌朝、朝の支度を終えたばかりのアニスは、ジャンの見送りに出た。霧の濃い白やんだ空気が、二人の顔色の悪さ――片方は二日酔い、片方は寝不足顔――をさらに白く見せている。(ピケだけがこれを機会にこの薄桃色のドレスを! と興奮したが、以下略)


「じゃ、アニー達者でな!……モニカ嬢のことはお前に全部任せた!」


 ジャンは何度も彼の肩を叩いた。名残惜しいのだろう、耳の垂れた犬に似て眉を下げている。頭が痛いのかもしれないが。


「お前、最初っから僕に頼みっぱなしだろう。今さらだ。今朝書いた手紙は確かに渡しておくから、とにかく無事に帰って来い」


 そうだなすまん、とジャンは頭を掻いた。はらりと前髪が落ち、雑魚寝の乱れで後頭部はくしゃくしゃになっている。

 アニスは、彼を朝食の時間に間に合うよう蹴り起こし、モニカ宛てに“遠征に出る”と書かせた。走り書きだが、却って慌ただしい臨場感が演出されいい出来になっていた。


「昨日は楽しかったぜ。久しぶりにお前と過ごせたしな。今度は葡萄酒ふた樽、空けるぞ」

「お前が飲んだ分は、王宮に請求書出しておく。まさか侯爵に王太子殿下が泊まっていったとは報告できないからな」

「げっ……ま、いっか。明後日には出立だ」


 ジャンはハハハ! と笑って、アニスの肩を最後に強く叩いた。湿った空気が動いて彼の頬を撫でた。


「アニー。俺はお前の親友だからな、何でも相談してくれよ」

「どの口が言う。……分かったから、ほらもう行け。気をつけて行って来るんだぞ」


 「おう」とようやく手を離し、ジャンは馬車に乗り込んだ。彼がのぞくには小さすぎる窓から、手を振る。アニスも手を上げて応えた。

 鞭の打つ音に馬の嘶きが続き、車が走り出した。見送るアニスには、それが霧に呑み込まれていくように見えた。



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 恋愛小説メモ

『金の騎士と銀の魔術師』

 実在の人物をモデルにしたと巷で有名な男性同士の恋愛を描いた、センセーショナルなお話。これを皮切りに、ホセ国では『体格差』という言葉が生まれた。

 金の騎士は体格のいいちょっと頭の悪い美丈夫(偉丈夫とは言っていない)。銀の魔術師は中性的(むしろ女性的)で頭脳派だが、コミュ障が服を歩いていると称される。凸凹コンビが、王命を受けて冒険の旅に出る中、少しずつ距離を縮めていくじれじれが世の女性たちに評価された。初刊はハグまでだったが、続刊はかなりきわどいらしい。

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