7.『小説の読み過ぎには、注意』

 アニスは縫い止められたように、動けなくなった。

 テーブル越しでない距離はいつぶりか。

 お互い、ただ視線を絡め合った。翳りの中でもチカと光を宿すヘーゼルが彼を映す。


「アニーさま?」


 その瞳が突然くしゃりと歪み、彼の胸は跳ねた。伴う鼓動の早さは酩酊ゆえか。耳にまで激しい振動が届き思わず目を伏せた。そしてすぐに別の理由で身を震わせることになった。

 白い首筋。またしても無防備な胸紐。

 カッと頬骨が燃えるように熱くなったと同時、ほんの数瞬前まで彼女に触れていた半身が急速に冷えていく。


 触れたくなる。


 アニーさま? と、当惑の唇が彼を誘うように見え、彼は何かに促されるまま、空っぽの手を知らずその金髪に差し入れた。柔らかい巻き毛は奥へ進める程、彼の指を絡め取る。

 瞬間、清潔な香りが匂い立った。早鐘の胸がズキリと重く打つ。

 指が項に触れ、モニカは何の理由か身をすくめた。


「な、んですの。やっぱり酔って、らっしゃるの」


 月明かりにしかめられた眉の戸惑いは深く、そう問う声は不安をささやく。

 上向いたヘーゼルが細かく揺れる。見詰め合ったまま、彼の手のひらが指が、彼女の髪に絡む程――金糸を食みながら項を擦る程、縋るような困惑の色が灯る。

 ぐ、と指先に力が籠もった。


「アニーさま指が、あつ……ぁ」


 引き寄せた。

 肌蹴た首に円やかな頬が触れる。

 けぶる金髪に紅潮する頬がうずもった。鼻先がくすぐられ、身じろげば耳同士が擦れた。


(もっと)


 触れていない場所が寂しくて、彼は両手でかき抱こうとした。しかし、片手に持つ燭台がそうはさせず、煩わしさに唸る。

 代わりにと、体を強く寄せようにもドレスの裾が邪魔をし、押しつける胸も異物詰め物が熱を交し合うことを阻む。


(どうして、触れたいのに)


 もどかしさにこめかみを擦り合わせ、空いた手で、いつか我が物顔でダーニャとして触れた頬に触れた。あのときの自然な触れ合いをまぶたに描きながら。

 涙の数だけ撫でた髪。そっと口づけた……


「アニーさま! しっかりなさって!」


 叫び声が上がった刹那、ハッと我を取り戻したアニスは彼女に顔を寄せたまま硬直した。冷や汗が噴き出る。


(僕は、何を!)


 冷や水を浴びた如くに青ざめつつ、彼は勢いよく離れた。

 モニカは真っ赤に染まった頬を膨らませ、ぷるぷると震えて彼を見上げていた。「酔っ払い過ぎ!」と潤んだ目がつり上がる。


「も、申し訳ございません……」


 慌てて謝罪をしたものの半ば呆然とした頭は役に立たず、結局彼はただ彼女を見詰め続けていた。

 「もうっ」と肩を怒らせた彼女の巻き毛がこぼれ、うるさげにそれを耳に掛ければ、小作りな耳朶がのぞいた。

 目眩。

 再び鼓動がおかしくなった彼は、思わず目をキツく瞑った。理性を喚び起こす。


(一体、何をしてる! 今、僕は『アニー』だぞ。それに彼女には婚約者ジャンがいる。どんな理由があっても僕は彼女に触れてはいけない。我慢だ。……バカか! 何の我慢だ! 何を不埒なことを考えてるんだ!)


 さらにギュッとまぶたを閉じて、よく分からない衝動を抑えこもうとしたときだった。

 そ、と彼の腕に柔らかい物が触れた。


「アニーさま、お部屋に参りましょう。わたくし、送って差し上げますわ」


 引っ張られ、目を開けた。

 腕を組まれていた。


 「わ!」と驚きに離れようとするも、足がもつれ腕で繋がったモニカごとふらついた。支えようとした彼女がさらに体を寄せる。


(腕に詰め物が、いや本物が……本物、って僕は何を考えてる! あぁぁもう離れてくれ!)


 先程自分が我を忘れたことは記憶の外に、自分の腕を取り返そうと力を籠めた。しかし、横から一喝される。


「アニーさま、もう大人しくなさって下さい! ほら行きますわよっ」


 背の低い彼女に引きずられた彼は、よたつきながら宛がわれた私室へ向かうことになった。


     ◇


 部屋は暖炉の火を消したばかりか温まっており、二人はそれぞれ安堵の息を吐いた。


「ありがとうございますモニカさま……もうここで、結構です」


 歩き慣れた廊下と階段を、たった数十歩引きずられてきただけだが、アニスは今にも寝付けそうな程ぐったりとしていた。今度こそ、と腕を取り返そうとする。


「まだですわ。カウチに座るまで支えて差し上げますっ」


 ぐいっと改めて抱え込まれ、彼は新たな刺激に天を仰いだ。

 悲鳴を上げそうになったが、堪えた。触れない、と決意した矢先に相手から腕を回されひっつかれては、それ以上は致し方なかった。


 既にピケの下がった部屋は薄暗かったが、所々に火が残されて歩くには困らなかった。道中「持たせていられません」とモニカに奪われた燭台の炎も加わり、二人の様子をはっきりと照らす。

 アニスは引っ張られる間、肌蹴たままだった首元のボタンをいくつか留め、喉仏を隠す努力をした。何とか一番上を留めたところでカウチにたどり着いた。


(髪は仕方がない。何か指摘されたら誤魔化すか)


 ひどくくたびれてはいたが、お陰でしっかり酔いの覚めたアニスは冷静さを取り戻していた。

 どう、と腰を下ろして「感謝申し上げます、モニカさま」と頭を下げた。


「全く、お気をつけあそばして頂戴。……長い滞在のせいで、恋人と羽目を外してしまいたい気持ちは理解できますから」

「モニカさま、今なんと?」


 彼は彼女の呟きが聞き取れず、眉を寄せた。何か不穏な単語が発音された気がしたのだが。


 「何でもないわっ」と口を尖らせ、彼女はそっぽを向いた。

 いじけた顔に一抹の不安を覚えながらも「そうですか」と肯首しておく。


(今夜はもう別れて、早く離れに戻さなければ)


 アニスが何と言おうか言葉を選んでいる内、モニカが腰に手を上げてビッと指の先を向けた。


「とにかく、貴方はもう休んで頂戴」

「はい。モニカさまも離れにお戻りになられますよね?」

「……書斎に行くつもりだったけど、興が削がれたから戻ります」


 「安心しました」と返し、アニスは眉を下げた。紛れもない本音だが、彼女の物言いが変に素直な気がして違和感を持つ。心がざわめくのを抑え、ゆっくり立ち上がりかけた。


「では少々お待ちいただけますか。今、温かいコートなどをご用意いたしますから」


 そのままの格好で外を歩かせるわけには行かなかった。こっそり侍女も呼びつけるつもりで隣室へ向かおうとする。しかし「ダメよ!」と厳しい剣幕のモニカが背もたれに彼を押し留めた。


「わたくしは大丈夫ですわっ。それより……か、体が辛いのではないの? 早く寝室に行きなさいよ」

「体?」


 妙な表情だ、とアニスはモニカを見上げた。何か言いづらそうだが、恋愛小説を語るときのような高揚した瞳。


「何のことでしょう」

「だってあんなにフラフラになるまで……その、お酒を嗜んで、そのむ、む……」

「む?」


 首を傾げた彼に、彼女は「もうっ!」と丸っこい両手を握りしめた。


「真っ直ぐ歩けなくなるくらい睦み合ってたんでしょう!? わたくしのことはいいから早く寝なさいってば!」

「……………………は?」


 思考の停止した彼に彼女は鼻息荒く――赤いベリーの如く額まで染め上げて言い放った。


「そ、それで疲れたからって、明日の朝食に来ないなんて許さないんだから」

「モニカ、さま」

「あ、でも本当に体が辛いなら強要はしませんけれど! でもアニーさまは今はラベリ侯爵家にお勤めだってことを忘れないでいただきたいわっ」

「ちょ、待」

「でも明日は絶対、お茶会をしていただきますからね! ではおやすみなさい、ごきげんよう!」


 すさまじい早口で捲し立て、驚く程の駆け足でモニカは出て行った。

 バタン、と扉が閉じられたのを、アニスは伸ばした手をそのままに聞いた。

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