6.夜歩きにはご用心
離れから急ぎ母屋に向かったアニスは、応接室で寛ぐ人物を一目見て「たまには先触れくらいしたらどうだ、ジャン!」とスカートの中で地団駄を踏んだ。
「すまん、アニー!……その、今日はまずかったか?」
「今日も明日も昨日もない! ラベリ侯爵家にはもう来るなと言ってあっただろう!」
「す、すまん。つい」
ホセ国の王太子ジャノルド=ホセ――ジャンはその大きな体躯を縮めてアニスに頭を下げた。相変わらず軍の軍寮生活を送っているようで、顔には髭、髪も伸びっぱなしという有様。しかし彼の金髪と碧い目は不思議と目を引く明るさで、その快活で直情的な性格も好ましい。
今も王太子という身分ながら、親友であり幼なじみのアニスにすぐ謝罪をする様子は何の
離れの食堂でピケから「殿下が見えられたそうです」と聞いたとき、アニスはモニカの前で脱力しそうになった。そうだろう、母屋から侍従が走って来るなど、大概は先触れのない客人のせい――ジャンのせいと相場が決まっている。
「アニー、そんなに怒るなよ。俺にも事情があって急いで来たんだぞ」
「お前の事情など知るか。どうせ『大きい風呂に入らせろ』だの、『腹が減った』だのと言いに来たんだろう」
「……まぁできればそうさせてもらえると……お、おぉぉ違うぞ! 今日は本当に用事があってだな!」
アニスが怒りのままに目を眇めれば、ジャンは降参とばかりに諸手を挙げた。「これはモニカ嬢にも関係してることなんだ!」と言い募る。
それには彼も「何?」と反応せずにはいられなかった。
「手紙に書いて、万が一のことでもあったらと、足を運んだんだ」
「モニカ嬢にも関係が?……仕方がない、聞こう」
アニスはジャンが嘘をつかないことを知っている。
どうやら本当に急用らしい。ピケに何かあれば知らせるよう命じ、他の者も皆、人払いした。そうして彼もようやく椅子に腰を下ろした。
ジャンはひとつ肯いて話し始める。
「……西の隣国とキナ臭くなってる。元々、年明けから遠征に行く予定が早まった。三日後、発つことになったんだ」
「は?」
「父王は聖誕祭には俺だけ戻って来いって言うからそのつもりだが。表立って何か起こるのは春になってからだと見当づけているが、先手を打つそうだ」
「何故、王太子が前線に?」
「まだどうなるか分からんからだ。……隣国とは使者も遣ると言うが、国境でも警戒してることを見せつけたいんだろう。王家が動きを見抜いていると」
アニスは唸った。ジャンは碧い瞳を細め、軍人の顔だ。
(まさかそんな状況とは)
「遠征になるか出陣になるか分からん国境に行くんだ。王侯の中で、俺の他には適任者はいないだろう。子もいないし、継承権も一番遠い」
「ジャン!」
アニスは、ハハと面白くもなさそうに笑ったジャンを睨みつけた。彼はそれにニヤリと応じ、「心配するな」と朗らかに言う。
「ま、外務の使者が上手くやれば、何が起こるわけでもないとは思うぜ?……だからさ、父王が春までには絶対結婚しろって煩くなっちまって」
「……春までに結婚?」
アニスはどこかで聞いたことのある響きに、眉を上げた。
「あぁ春までだそうだ。でもほとんど遠征で国にいないのに、仲良くなるなんて無理だ。無理だよな? どうしようもないだろ?……未だに手紙も一度も返ってきてないのにさ……」
彼にジャンの話はほとんど聞こえていなかった。
(もしや侯爵がやはりなにか上申したのか……いや、しかし隣国との情勢から戦になる可能性を知っていれば……あるいは)
「まさか侯爵は彼女に心積もりをさせるために……?」
「アニーィィ!? 俺の話を聞いてくれよぉぉぉ!」
「ちょっと黙れバカ殿下」
「アニーがひどいぃ」とジャンは顔を覆って背を向けた。本気でいじけているようだが、体が大きすぎてソファに足を乗り上げてもまだ余っている。
軍寮生活は嫌だと喚く割には、更に体を鍛え込んでいると、アニスには見えた。彼の倍程もありそうな肩幅から背にかけては、かっちりとした軍服が窮屈そうになっている。
(そうか。この急な王命は、ジャンの遠征と出陣を見越したものだったのか……! ふた月前から情勢は動いていたということだろう。それで戦になる前にジャンとの結婚をまとめるために、王宮は急いでいた。情勢如何に関わらず、ジャンとモニカ嬢の結婚を通すつもりで)
アニスは深く納得したものの、思い至った持論にひどく動揺した。
今朝のモニカの顔が浮かぶ。
(まだスープしか食べられない彼女を王宮になど放り込めるか? 結婚しても夫は遠征で……いつ戻るかも)
夫、という言葉に彼は思わず俯いた。胸が押し潰され、今すぐにコルセットを脱ぎ去りたくなる。
(バカか。これでジャンとモニカ嬢の結婚を……王命を優先するべきだとはっきりしたじゃないか)
彼は落ち着こうとカップを持ち上げかけ、ふと手を止めた。
――自分の爪が薄桃色に美しく染められているのが目に入る。
それは自分の爪と分かっていても形良く、細やかに手入れされた女性のものにしか見えない。僅かに傾ければ、艶やかに光を撥ねた。
それをぼんやりと見詰めた彼の思考が形を造る直前、ジャンが喚き声を上げ、それは霧消した。
「お、俺だってアニーに知らせないとと思って、真っ先にここに来たんだぞ! ちょっとは褒めてくれたって!」
「……ジャン。悪かった。すぐ知らせてくれて助かった、ありがとう」
「うぅぇぇ……アニーィィ! 俺行きたくない……遠征だけでも環境劣悪で、毎日風呂に入れないし冬の石砦は寒くて死にそうだし、威張ってるのも面倒だああぁぁぁ」
アニスは心底気の毒になり、立ち上がるとジャンの隣に腰掛けた。女性なら三人掛けのソファも、ジャンが占領しているので狭い。しかし彼は気にも留めずジャンの肩に手を置いた。
「ホセ国の進退がお前の肩に掛かってるんだ。辛いだろうが、頼む。聖誕祭に戻って来たら、久しぶりに酒でも飲もう」
「あ、ああぁアニーィィ! 俺、男のお前と早く酒が飲みたいぜ……もう嫌だ! ラベリ家の家令は冷たいし、お前ん家の家令の方が優しいし」
「……誰のせいでこんなことになってると……それに先触れがない客はどこの家でも迷惑だろう」
「す、すまんアニーィィ……!」
本気で涙を滲ませ、ジャンはアニスを抱きしめた。彼はその背を軽く叩き、国を背負うことになった幼なじみを労った。
しかし彼はジャンの逞しいその肩越し、窓からのぞく冬の気配には眉を寄せずにはいられなかった。
◇ ◇ ◇
「いいから、もう寝ろ!」
「嫌だあぁ……あと、いっ、ぱぃぃ」
「床で寝る奴があるか」
ぐぅと
使用人も皆、下がって二人きりの夜分。彼は酔い潰れたジャンの腕を軽く蹴った。
視線を巡らし壁に掛けられた鏡に目を留めれば、結い上げられた髪はひどく乱れている。はー、と酒気の強いため息をつきながら、カウチに乱暴に座り
押し込まれていた銀髪がさらりと垂れ落ちる。
ジャンはその後、「今日は俺、絶対アニーと夕食を食べたい、酒を飲みたい! ここでダメならお前を実家に無理矢理でも連れて行く!」とごねた。
鍛え抜かれた筋肉には、アニスがどう抵抗しても勝てそうにはなく――彼自身、ヘレンゲル家に来てからというもの、運動らしき運動ができていなかった――「仕方ない」と急遽、ジャンは宿泊することになった。
以前、アニスがダーニャに扮した際は「ソファにでも寝かせておけ!」と応接室に転がされたジャンだったが、今回ばかりは客人としてもてなされることになった。
「ようやく扱いが客になった……」と客室に通されたジャンは、満足気に昼からグラスを傾けた。アニスはその客室に書類を持ち込み、ペンを走らせる。
「おい、飲み過ぎるなよ」
「アニーもこっち来て飲もうぜ! これ、結構いける」
「僕は執務で忙しいんだ、勝手に飲んでろ。お前がいると、書斎にも行けないじゃないか」
「……行けばいいだろ?」
「モニカ嬢と鉢合わせしたらどうするんだ!」
「んー、遊びに来たとでも言えばいい」「バカか」と子どものような遣り取りをしながら昼間を過ごし、早い時間から夕食を摂った。
うまいうまい! と三人分は食べるジャンに、挨拶に出た
王太子殿下とは思えぬ敷居の低さと快活さに、初めはその無作法さに渋顔だった家令も遂に頬を緩めたのだった。
鬘に押し込められていた銀髪を解し、背に払う。もうひとつため息をつくと、アニスは立ち上がった。
(今日は執務にならなかったな。少しだけ書斎に行くか……いや、その前に着替えたいな)
しこたま酒に付き合わされた彼は、暑さと締め付けに耐えかねて首元を露わにしていた。男臭いジャンにくっつかれ、汗臭くもある。水浴びしたいくらいだ、と客室から出た。
バタン、と扉が閉まり晒した首をすぅっと外気が抜けた瞬間、アニスは暗がりに浮かぶ燭台の火を見た。使用人か好都合だと、声を掛けようとして動きを止める。
「アニーさま?」
(まずい!)
彼は咄嗟、肌蹴た襟を掻き合わせた。足音なく近づくその見慣れた金髪に、焦りから震えが走った。
「も、モニカさま」
「アニーさま、もしかしてまだお客さまが?」
「いえ、えぇと……実はそうなのです」
彼がそう答える間に、モニカは顔が間近になるくらいまで側に寄った。そしてパッと鼻を手で覆った。眉が跳ね上がる。
「お酒を飲んでらっしゃるの? こんな時間まで?」
「えぇ……そのお断りできず」
と、
「モニカさまこそ、このような時間にそのような格好で! また具合を悪くしては」
「……書斎に本を取りに来ただけよ」
「またコートも着ずに!? 今すぐお送りしますから、離れにお戻り下さい」
「嫌よ」
あぁ、とアニスは顔を覆おうとした。しかし襟を押さえた手が離れ、はらりと鎖骨まで露わになる。
まずい、と隠したときには遅かった。
「……どうしてそんな格好で……? 髪も……朝は結い上げ……はっ!」
モニカは何かに気づいた様子で目を剥いた。わなっと唇を震わせる。
(『はっ』て何だ!)
「見苦しい格好で、申し訳ありませんモニカさま! さぁお部屋に戻りましょう今すぐに!」
彼はどんな誤解も面倒と、彼女の肩に触れ半ば強引に歩を進めた。羽織は掛けていても彼女の肩はやはり冷えており、彼は舌打ちしかける。無理に火のついた燭台を奪って先を照らした。
「こんなに冷たくなさって。急ぎましょう」
「で、でも……お客さまは? 貴方に見えたお客さまなのでしょう? 一人にしては」
「いいんです、もう寝てますから」
「ね、寝てっ?」
薄暗い廊下でも分かる程度に、ボボッとモニカの頬が赤らんだ。はわわっと視線が揺れる。
しかし彼は焦りも助長し気が回らず、何故赤くなったのか判断できない。
むしろ彼は、強引に掴んだ肩の柔らかさや、晒した首にささやかに触れる彼女の巻き毛にゾクッと背を反らしそうになるのを必死に堪えていた。
(婚約者のいる女性の肩を抱えるなど許されない! でもここで手を離してしまえば僕の髪の色に気づくかもしれない。仕方ない耐えるしか……!)
十数歩、アニスに引きずられるように歩いたモニカは「ちょっとアニーさま!」と不満に声を上げた。
「分かりましたからもっとゆっくり歩いて下さいませ! 息が切れてしまいますっ」
「あぁ失礼しました……このくらいでしょうか」
「えぇ。……って、わたくしひとりで歩けますわ! 何もこんなにくっつかなくても!」
そう言われても、彼は手を離さない。
しかも歩調を緩めたことで、ますます彼女のぬくもりや存在を意識してしまい今さら酔いが回ってきた気すらした。
対するモニカからすれば、彼は首まで熱したように赤らんで何か芳しい匂いすら漂わせていた。凄まじい色気に、目眩をもよおしそうになる程に。
「あ、アニーさま、もしかして酔ってますの?」
鈴の音のささやき。彼女にしては珍しく険を含まない声色。
彼は誘われるようにして、金に縁取られたヘーゼルをのぞき込んだ。と同時、ひたとモニカが足を止める。アニスは彼女の肩を抱いたままで足がつられ、手はその丸く柔らかな肩から背を滑った。
ぁ、と羽織が落ちた。
自然と向き合った彼の影が、彼女を覆う。
揺らぐ、明かり。
――二人は見詰め合った。
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