5.全て先触れのない客人のせい
かすかな物音に、モニカはページを捲る手を止めた。
「お嬢さま、おはようございます」
「……ぅ、もうそんな時間……?」
「またずっと起きていらしたんですか?……少し温かい湯を準備致しますね」
朝ドロシィが起こしに来るまで、モニカはいつもシーツにくるまっている。
寝ているときもあれば、目が覚めているときもあるが、とにかくシーツにまるまってベッドに転がっている。
今朝はその格好でアニーから借りた新作を読んでいた。集中していたせいか、カーテンの隙間から差す光には気づかなかったらしい。
シャ、と全てのカーテンが開け放たれ、モニカは「目が潰れるぅ」と呻いた。
「全く。今にモグラみたいになってしまいますよ。さぁ、急いで身支度を済ませましょう」
彼女はひどく億劫そうに起き上がると、洗面器に張った湯で顔を洗い、ドロシィにくちゃくちゃになった髪の手入れを受ける。彼女の軽やかな巻き毛は夜にどんなに手入れしても朝には爆発してしまうが、ドロシィに掛かれば難なくまとまっていくから不思議だ。簡単に結い上げ――どうせ朝食後はベッドに直行なのだ、顔の手入れと着替えを終える。
「また隈が出ておりますよ。アニーさまもご心配されることでしょう」
「いいのよ。昼に寝てるんだから、どうってことないわ」
最近、小言の増えたドロシィを一蹴し、食堂へ向かう。秋も深まってきて、朝も冷える時間帯。
以前なら寒さと眠気で絶対に起きたくなかったのに、とモニカはぼんやりと窓の外を眺めた。白く霧がかって外に出れば濡れてしまいそうだ。
(薔薇ももう終わりね。また来年の夏までお別れ)
見事だった薔薇の茂みは茶色にくすみ、棘の突き出た蔓が枯れかけている。彼女は少し悲しくなって目を逸らす。再び歩き出す。
(ダーニャ、あれから夢に現れてもくれないわ……やっぱり夜に寝ないとダメなのかしら)
モニカは薄れかけたダーニャの面影を懸命に思い浮かべた。さらりとした黒髪を後ろで束ね、背に払う仕草。覗き込む琥珀色の瞳が溶けるように自分を見詰め、黒く艶やかな睫毛が触れそうになる。
髪を撫で頬をなぞって涙を拭う、騎士にしては華奢に見える細い指。モニカが弱っていたからだろうか、小説とは違う、温かく包む込むような優しさを与えてくれたダーニャ。
日を置けば置く程にぼやけていく彼は、秋の薔薇の精だったのかもしれない、と彼女は思い始めていた。
「おはようございます、モニカさま」
「おはよう、アニーさま」
モニカが席に着く前にアニーも到着し、挨拶をし合う。
アニーの髪はいつも通り完璧に造形されていたが、小さな水の粒が少しく髪をしっとりとさせていた。眼鏡も暖められた室内では曇るようで、アニーはそれを外して侍女に拭いてもらっている。
そのとき、モニカの心臓はドキリと跳ねた。
(アニーさまの瞳の色……ダーニャに似てない?)
先程まで思い浮かべていた色が鮮明だったからか。モニカの鼓動は速まった。
髪の色より色の薄い睫毛が伏せられて、その色は近づかないと定かに見えない。我を忘れて凝視した。
「……モニカさま、どうかなさいましたか」
視線を感じたのか、アニーがサッと眼鏡を着け、困ったように眉を下げた。分厚い眼鏡のガラスが邪魔で、瞳の色がよく分からなくなっている。
「な、何でもないわ!」
「あら、また夜更かしですか。目の下に隈が。もしかしてお貸しした……」
「そう! 『
「お昼にお読み下さい、とお願いしましたのに」とアニーは席に着きながらため息を吐いた。侍女たちが配膳を始める。
「だって、本格的な冒険譚と二人の淡い恋が絡み合ってもう……!」
「ふふ、そうですわね。ではその続きはお茶会でお話し致しませんか。ようやく執務に余裕ができましたので、今日にでも」
「そうしましょう!」
モニカの喜色満面にアニーは口の端を少しだけ上げ、それを手でそっと隠した。その瞬間、モニカの胸にじわりと安堵が広がった。
――彼女はその笑みが好きになっていた。食事の前にアニーが笑うと何故かホッとできるのだ。
(父上が帰ってからちょっと口煩くなった気がするけど……でもわたくし、アニーさまなら怖くないわ)
彼女は肩の力を抜き、スープを見下ろした。
湯気を立てた温かそうなミルクのスープには、軟らかく煮た根菜や小さな肉が入っている。徐々に具が大きくなっていると感じてはいたが、今朝は肉入りだ。彼女は眉を寄せた。
ちろっと向かい側を見れば、アニーは流れるような仕草でスープを啜っている。形のいい唇が何かを咀嚼する様子は絵に描かれてもおかしくない程、麗しかった。
ごく、と緊張を飲み込み、彼女はスプーンを取った。
そしてそうっとスプーンを差し入れ、僅かに震える手でそれを口に寄せた。野菜が煮溶けた香りが鼻を通る。音を立てぬように口内に流し込めば、まったりとしたミルクの舌触りと塩味が感じられた。あとにはこっくりとした旨味と野菜の甘味。
(今朝も、味が分かる……良かった。食べられそう)
すぐに肉の欠片を含み、あぁお肉ってこんな味だったわ、と素早く飲んだ。まだ少し怖いのだ。
モニカは一仕事終えた心持ちで、ふと顔を上げた。アニーの皿はほとんどなくなりかけており、自分が随分と逡巡していたことに気づく。
急がないと、と大きな根菜をもぐつく。アニーがそれに気づき、労るように微笑んだ。
「モニカさま、ゆっくり召し上がって下さいね」
「ふぁ、ふぁふぁってふ」
(見透かされてるみたいでちょっと悔しい。でもアニーさま、食べ終わるまで一緒にいて下さるのよね)
彼女はゆっくりと食べ続け、スプーンを置いた頃には全身が温かくなっていた。頬は桃色に染まり、肌も明るく見える。
「頑張りましたね」と、アニーが優しく言ったのには照れくさく、「これくらい平気よ!」と言い返す。
しかし肉が入っていたからか、満腹感で急速に眠たくなってきた。正直、何も食べなくてもいい気がしたが、彼女は素直になれない。まぶたを叱咤してドロシィにデザートを頼んだ。「プディングの木苺ソース掛けです」とドロシィが持って来た皿の輝きには僅かに心が動いたが、やはり腹が重かった。
「モニカさまのお好きな甘さになったと、ギィトが」
「そう、それは嬉しいわ」
モニカが無理して食べようとしたときだった。
扉の外で慌ただしい足音がし、「アニーさまに急ぎお伝えしたいことが」と侍従の声が響いた。
アニーは一瞬だけ顔を強張らせ、侍女に話を聞くよう手を振った。
(何か、あったのかしら)
扉から戻って来た侍女は、アニーの耳元で伝達を終えるとすぐさま食堂を出て行った。その侍女――アニー付きの侍女が側を離れるのだから、よっぽどのことだろうと知れる。
モニカは不安が込み上げ「アニーさま?」と声を掛けた。悠然とカップを傾けるアニーの表情はいつも通りで、急ぐ様子はない。そして茶を飲みきった彼女はふぅ、と満足気に息を吐き、やっとモニカと目を合わせた。
「モニカさま、外務の者が母屋に来たとのことでした。緊急のようですから、わたくしはここで退席してもよろしいでしょうか」
「……構わないけど」
「申し訳ございません。また後程、お茶会についてお知らせ致しますね」
「では」と、アニーは優雅に立ち上がると、礼を取って背を向けた。
モニカは何となく彼女の背を見続けていたので、扉を出て、外にいる侍従に向けた横顔を一瞬だけ見ることができた。
そのひどく厳しい表情を。
――結局モニカは、プディングを残した。
すぐに寝室に籠もり、眠気のままベッドで過ごした。
◇ ◇ ◇
その日、約束した茶会は流れ、アニーは夕食にも現れなかった。
“急な仕事で申し訳ありません。明日の朝食はいつも通りご一緒致します”
簡単な手紙が届き、モニカは初めて夕食をひとりで摂ることになった。しかし全く食が進まない。味がしない訳ではないものの、食べる気が起きずにスープもほとんど残した。デザートも。
ドロシィは気遣わしげな目を向けたのにも、彼女は気づかない振りをした。
言われるままに風呂に入り、髪を乾かされ、再びベッドへ入った。「おやすみなさいませ」と声が掛かったのにも、返事ができなかった。
人気がなくなったのを見計らい、モニカはもぞもぞとベッドから這いだして窓に近寄った。窓枠に手を掛け空を見上げる。
――満月の夜だった。
薔薇の絶えた庭に、カスタードクリーム色の光が柔らかく降っていた。何度目を凝らしても、もう花は見当たらない。
(寂しいわ、ダーニャ。…………アニーさま)
残してしまったプディング、手をつけられなかった夕食のスープ、そして空席だったアニーの椅子……まぶたに浮かんだ光景に、彼女は気持ちが深く沈んでいく。
「あの方、夕食は食べたのかしら」
知らず声が出た。
彼女は気恥ずかしくなり「いくら忙しいからって、食べるでしょ」と慌てて呟く。
(まだ、お仕事してるのかしら)
さすがに客人は帰っただろうと、ぼんやり思う。
どうして自分はこんなに落ち込んでいるんだろうと、のろのろ月を見上げた。
「『金と銀』のお話、したかった……久しぶりのお茶会だったのに」
モニカが寝室に籠もって体調を崩してからは、ずっと茶会は開かれてなかった。一日二回の食事を始めて慣れるまでは、とアニーが配慮したことだった。それは仕方がない、実際菓子じゃない食事は眠くなるのだからいい提案だった。
しかし侯爵との晩餐もあり、『溜め込んでいた仕事が一段落したら』と延び延びになっていた予定が、また延期。
「こんなんじゃ、すぐに聖誕祭になっちゃうじゃない。あの方がいなくなるまで、できるだけたくさん小説を読もうって決めたのに。たくさんお話しようって思ってたのに」
彼女の虹色の光彩が、月の光に潤んで揺れた。
(わたくし、バカみたい。子どもみたい、寂しいなんて変よ)
晩餐の翌日、侯爵からの手紙を読んだ瞬間、彼女はアニーとの別れを正しく理解した。
そしてアニーと交す会話が、彼女の自然な優しさが、不器用な笑みが自分を強く支えていることに気づいた。
それが失われてしまったら食事すらままならなくなることも、今夜はっきりと分かってしまったのだ。
「アニーさまが来なかったから、食べられなかったじゃない……デザートはクリームパイだったのに」
月の光がカスタード色に見えたのはそのせいか、とモニカは目尻の涙を拭った。
「……なんか、だんだん腹が立ってきたわ」
彼女の口が尖っていく。
(いくら忙しいからって、今は家に雇われてるんだもの。わたくしの相手が最優先じゃないの?)
モニカはキッと母屋の方を睨みつけた。扉へ向かう。
柔らかな布靴を踏みしめながら勇ましく部屋を出ようとし、ふと動きを止めた。ベッド端に置かれた羽織を取りに戻り肩を隠すと、今度こそ寝室を出た。
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