4.深い沼で喘いで、知る
「まぁったく! あんの頑固父上、もう絶対に腕なんて組んでやらないんだからぁ!」
「モニカさま、口に物……いえ、何でもありません」
「何よ、アニーさま。何か文句あるの?」
アニスはパンを咀嚼していたので反応は返さず、ただ静かにせよとモニカに目線を送った。「フン、分かったわよ」と口を尖らせ、彼女はようやく食事に集中し始める。見ない振りをしつつ彼もスープを飲み込んだが、今朝は全く味が分からない。
(いつも通り過ぎる。一体、彼女はどう思っているんだ)
離れに着き、出迎えの侍女から「もう食堂でお待ちです」と聞いたとき、彼の頬は緩んだ。ピケから「どうか落ち着いて下さい眩しい目が潰」と
しかしモニカは侯爵への悪態を延々と述べるだけで、肝心の懸案――婚約に対する感情や結婚を早められることには、全く触れないのだ。
彼は違和感で喉がつかえる。
食欲なくモニカに目を遣れば、彼女も睡眠不足なのは明らかだった。恒例のクマを蓄え、頬にひとつ赤みの差した吹き出物もできている。
香油で顔を揉まれていないのだろうか、と的外れなことを思う。
(いや違うか、彼女の場合は生活の時間をもう少し正すことが必要なんだ。今夜からでも夜に寝て朝に起きることを習慣づけて……待てよ、部屋に籠もりきりだから健康のためには運動も必要か。だがまだ時間が掛かる)
走り出す自分の思考を余所に、アニスの目は向かい側に座る黄銅色の巻き毛が揺れるのを無意識に追っていた。
モニカへの違和感が呼び水となり、またしても侯爵の働きが気に掛かってくる。
侯爵の上申内容によっては、ラベリ侯爵家から即時撤退を命じられることもあると思うと、スプーンを持つ手はますます仕事をしなくなる。
(まだジャンとの仲を取り持つどころじゃないんだぞ。……彼女の健康を)
あーんと大口を開けてクリームサンドを頬張ったモニカをぼんやりと眺めた。くふふっと幸せそうに笑む顔に自然と眉が下がる。
彼女はいつの間にかスープを攻略したようだった。
今朝のスープは口溶けのいい根菜が大きめに入ったものだが、モニカは難なく平らげていた。
今はご褒美の甘味が必須でも、無理せずに少しずつ献立を増やしていけば満腹になってそれも必要なくなってくるかもしれないと、
(もしかして彼女はもう、僕がいなくとも前に進んでいけるのかもしれない。結婚についても何も言わないのは、全て納得ずくと言うことか……?)
そうであれば、と彼はひとり動揺を嚥下した。
(ジャンともうまくやっていけそうじゃないか)
悶々と考え込んだまま、アニスはモニカが食事を終えるのを遂に見届ける形になった。
「あら、アニーさま。今朝はゆっくりされてますのね」モニカがヘーゼル色をくるりと煌めかせて言うのにも、「えぇまぁ」と歯切れの悪い応対。彼はまだスープもサラダも食べきっていなかった。
「変なアニーさま」とモニカが口元を拭ったとき、ドロシィがそっと一通の手紙を差し出した。ひらりと差出人を確認した彼女の苦い顔。
アニスはその光景を視界に認め、ハッと我に返った。
「モニカさま、それは」
「……父上からよ。わたくし、読みたくありませんからいつも通り読んでおいて頂戴。緊急のときだけ教えて」
彼女は侯爵からの手紙をあっさりと手放した。
それが再びドロシィの手に渡ったのを、彼は咄嗟に止めていた。
「わたくしに読ませていただけませんか」
彼はいつもの冷静さを欠いていた。
実の父からの手紙を読ませるなど――しかも侯爵からの――などと、親しい友人ですら許される訳がないと失念する程には。
「アニーさま、何を仰ってるの?」
「えぇとその……わたくしの解雇に関わるお話かもしれません」
「え?」
咄嗟に捻り出した言い訳は苦しいものだった。モニカの判然としない表情。
彼は無理に事情を取り繕った。
「昨晩、モニカさまがご退室なされてから、侯爵さまをご不快にしてしまったのです。解雇を申しつけられてもおかしくないでしょう。どうか、拝見させていただけませんか」
「……だから何か様子がおかしかったのね」
モニカは合点がいったとばかりに肯き、彼を見詰めて口をひん曲げた。菓子で緩んだ目尻が急に持ち上がる。
「父上は絡み酒なんだから、アニーさまもサッサと部屋に戻れば良かったのよ……あぁわたくしまた頭に血が上りそう。せっかくお菓子で忘れたと思ったのに。父上ったら、今まで放っておいた癖に春には結婚しろだなんて! ふざけるのもいい加減にして欲しいわ!」
「モニカさま」
ドロシィが「落ち着いて下さい」と声を掛けるが、モニカは収まらない。
「それにどうせ酔っ払ってアニーさまに絡んだんでしょう? 自分が雇ったのに今度は解雇だなんて、わたくし許さないわ! ドロシィやっぱりわたくしが読みます、事によっては抗議してやるっ!」
アニスが彼女の剣幕に目を瞬く内に、封筒は見るも無惨に破り捨てられていた。誰の制止の間もなく、鼻息で紙が飛んで行きそうな程に意気込んで。
「お嬢さま、何と?」
ドロシィが脇で祈るような格好で問いかけた。モニカの眉は読み進めるごとに寄っていくように見え、彼は固唾を飲んで見守った。
「“聖誕祭まで”……とあるわ」
モニカの顔には何の色も浮かんでいない。怒りも喜びも感じ取れない。
彼は辛うじて聞き取れた単語をオウム返しした。
「えぇ、アニーさまの“雇用期間を聖誕祭まで”と決めた、って。“聖誕祭の舞踏会に二人で参加”するようにって」
「……拝見しても?」
モニカは肩を竦め、ドロシィに手紙を渡した。ドロシィがアニスにそれを届けた。
“アニー=ヴィンセント嬢の雇用期間を聖誕祭までと定める。これはアニー=ヴィンセントが自ら解雇を求める場合の他は、決して覆さない決定事項だ”
“聖誕祭に行われる舞踏会に参加しなさい。その頃には母の不調も落ち着くはずだ、元気な顔を見せてやりなさい”
“少しは部屋から出るように”
最後まで読み、アニスは深く息を吐いた。
(どうやら首の皮一枚で繋がったらしい)
目眩を覚える程の安堵に、しばし目を瞑った。
予定通りモニカを支えられる、それが許されたのだと。
しかしその心地よい感慨はすぐに破られた。
「アニーさまは、あとふた月でここを出て行くのね」
淡い暗闇の外で、モニカの声がした。
アニスは慌てて顔を上げ、そうですわ、と返そうとした。肯こうとして、それは叶わなかった。
「ちょっと、寂しいわ」
「……モニカ、さま?」
まるで子どものように、彼女はいじけた顔をしていた。
向けられたヘーゼル色の視線は少し湿り気を帯びて、彼の胸をひたりと
「あ、ちょっとだけよ! いいえ今のは嘘! いつ出てったっていいんだから、『いなくなったら清々するもの!』」
「お嬢さま……もう分かってますから」
「う、うるさいわね!」
モニカが侍女相手に喚く間にも、彼はひとり息を止めていた。
深い沼にひとりでに沈んでいく如く、呼吸を忘れて喘ぐように。
(そうか僕は、彼女を)
朝露の降りる、晩秋の朝。
彼は遂に、初恋を自覚した。
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