3.『父親とはできるだけ穏便に』(後)

「全く、食事の途中で席を立つとは。いくら一人娘とは言え、甘やかし過ぎたな」


 侯爵はそう独り言ち、料理の続きを所望した。

 アニスは主人が席を立たないために同席する他ない。先程と打って変わったような沈黙の下りる大食堂で、侯爵と彼は黙々とデザートを食べることになった。


(モニカ嬢は結婚が早まるのが嫌だったのか? それとも本人同士の問題に介入して欲しくなかったのか?)


 これまでアニスから婚約について話題にしたことがなかったため、あれ程の拒否反応があるとは思っていなかった。その原因はもちろんジャンとの婚約自体に納得しているのかどうかも、まだはっきりと分からない。

 彼は葡萄酒を傾けながら、先程の彼女の様子を何度も反芻した。


 時折、侯爵からは視線を感じたが、彼は知らぬ振りを通す。身分差を考えるとモニカが不在となれば、彼からおいそれと声を掛けることはできない。

 視界の端の侯爵は皿よりもグラスを空けることに執心しているように見えた。その杯数が片手で足りなくなった頃。


「よくもまぁそこまで化けたものだ。遠目なら誰が見ても女に見えるな」


 アニスが上品な舌触りのバニラペーストを味わっていると、少々ろれつの怪しい声が届いた。不意の皮肉に、彼は上辺だけの笑みを向ける。


(酔っ払いの相手は勘弁だ)


 しかし視線が絡んだ瞬間、彼は思わず身を強張らせた。侯爵の目は全く酔っているように見えなかったからだ。まずい、と咄嗟に笑みを深める。話を止めようとしてみる。


「侯爵さま。この場でそのお話は」

「ふん、私の邸だ。それにモニカにさえ知られなければいい。……いや、私としては今すぐにでも知られてしまえばいいと思っているが」

「ご冗談を」


 侯爵は今や、眼光鋭く彼を睨みつけていた。

 急激に汗が噴き出して首回りの布を煩わしく感じつつも、彼は微笑みを貫いた。ここで負けては何もかも水の泡だ。不幸中の幸いは、使用人たちには話が通っていたことか。


「冗談で物など言わぬ。どこを探っても、お前の出自が分からぬ。……本当に外務の人間なのか」

「えぇ、もちろんです。お疑いならアナベル王太子妃殿下にお問い合わせを」

「アナベル殿下が尻尾を出す訳がないだろう? 『アニス=ヴィンセント』か……王太子妃殿下は何をとち狂って自分の弟の名前を宛がったのか。おい、お前。本当の名前を教えよ」


(本名だよ)


 しかしアニスは意味ありげに肯きを返すに留まった。どう解釈されようと、これ以上の会話は核心に触れてしまう、と内心でおののいていたのだ。ヘレンゲル家のアニスと繋がってしまったことに恐怖すらあった。

 ダーニャ役以来、緩んでいた表情筋が引き攣りそうになったが、堪える。

 そしてどうやら侯爵はやはり酒に酔っている、と彼は認識を改めた。言葉も姿勢も取り繕いが感じられない。


(何より姉さんへの不満が垂れ流しだ、酔ってるのか)


 もはやテーブルに肘をついて漏れ出る難癖は、アニスへと言うよりはアナベルに向けたものだった。


「それにモニカの行儀指南役と言うだけならば、女でもいいではないか。おい、何故お前はアナベル殿下から指名を受けたのだ」


(ただ姉さんたちが楽しいからだろう!……つまり侯爵も、この話に納得はしていなかったということか。姉さんにうまく言いくるめられたんだろう)


 「おい、だんまりか」とまぶたの下がりかかった侯爵が野次を飛ばす。家令が「旦那さま」と気遣わしげに声を掛けたが、アニスを逃すつもりは毛頭ないようだ。


(面倒なことになった。女性の演技でこの場を乗り切りたい。それこそ尻尾を出したくない)


 思案のために侯爵から目を逸らした彼は、真ん前の空席に視線を留めた。そして先程モニカに『名女優に』と話したことを思い出す。

 彼女の決意に満ちた横顔――例えそれが新たな小説につられたものだとしても――の鮮明な映像に、僅かに口の端を上げた。


「おい、何とか」

「……侯爵さま。わたくし実は、アナベル王太子妃殿下から半ば強引にこの役に任ぜられたのです。ですから、貴方さまのお気持ちも察して余りある程、こちらに滞在を始めたときには深い困惑に陥りました」


 反論があると思わなかったのか、彼の表情がひどく悲しげに見えたからか、それともその両方か。侯爵は野次を止めて沈黙した。

 アニスは目を伏せ、涙を堪えるような仕草で侯爵に語りかける。半分は実話なので台詞の臨場感は勝手についてきた。


「“聖誕祭までに舞踏会へ”と王命が下った折には、息が止まるかと思いました」

「何……聖誕祭?」

「それにもし、わたくしの出自が知れたらと、もしモニカさまに性別を偽っていることが知れたらと……わたくしは今でも毎日怯えておりますわ。例え王命だろうと、女性の装いをすることでモニカさまを騙していることには変わりませんから」


(そうだ、僕は彼女を騙している)


 それは時折、アニスの胸を苛む見えない棘となっていた。モニカが彼を女性と信じて話をするときには殊に深く刺さって取れなくなっていくようでもあった。

 しかし彼は、ダーニャに扮するとき腹を括った。その自覚だけが彼を支えていた。


 ――彼は真っ直ぐに侯爵を見詰めた。


「ですが今、わたくしはモニカさまをお一人にはできません。許されぬ嘘をついたままでも、わたくしは寄り添う覚悟ですわ。モニカさまには心身共に回復していただきたい。そうしてお幸せになっていただきたいのです。……今夜のモニカさまをご覧になりましたか。以前よりもお元気になったとお思いになりませんか?」


 彼がそう問いかけても、侯爵は強情そうな眉根を寄せたまま。困惑にも憤然とも分からぬ表情。

 彼は反論のなきは催促と受け取り、すぐに先を継いだ。


「ですから侯爵さま。もうしばらく、せめて聖誕祭までは見守っていただけませんか。わたくしを、そしてモニカさまを」


 紡いだ言葉には何の偽りもない。想いも、表情すらも真実。

 それははっきりとした輪郭を持って、侯爵の目に映った。

 ただ分厚いガラスに遮られた瞳だけがぼやけて見えていた。


「嘘で塗り固めたその外見で『信じろ』と、言うか」

「はい」


 長いことアニスは返事を待った。

 しかし侯爵は最後に手を振っただけで、彼に退室を命じた。


     ◇ ◇ ◇


 翌朝アニスが普段通り起床したとき、既に侯爵は邸を発っていた。

 「奥さまのお体がご心配とのことです」家令はそう言葉を濁した。


(本当に夫人の体調が思わしくないのか。それとも王に上申を急いだか)


 アニスは陰鬱な心持ちでピケに身支度を任せていた。

 侯爵からは手紙も伝言もない。


(僕はどうなる。モニカ嬢も)


 悩んでいても、支度は始まった。

 銀髪はひとまず高く結い上げられひとまとまりに留められる。すると顔から首にかけてトロリとした香油で肌を整えられる。昨夜は酒を飲んだせいか「浮腫みを取ります」と首筋から頬骨から上向きに揉まれ――指を滑らせるだけなのだがあとに火照る程熱くなるから不思議だ――香油の落ち着く間に爪などを整えられる。

 「そこまではいい」と言うのだが、目の色が変わったピケには話は通じない。ドレスに合わせて色まで塗られるのだ。

 爪が僅かに重くなると、今度はドレスを着る。コルセットを締め、胸の隙間に詰め物を挟み込む。そのあと胸当てを付けてまた詰め物で形を整える。このときばかりは彼は口をつぐむ他なく、慣れぬ感触にじっと耐える。


(これだけは慣れない……いや慣れてはいけない気がする)


 よし今日も美巨乳、と至近距離で恍惚とするピケから分かりやすく目を逸らし、彼は「寒い、早くしてくれ」と促す。ぐふ、と漏れ聞こえる奇声は聞かぬ振りを通して、彼女の選ぶドレスに着替え、金鬘をかぶって完成。


 髪に対しても専属侍女のこだわりがまかり通るので、彼は実際早起きなのだが侯爵はそれより早く出かけたということになる。

 アニスは全方位を確認するピケ――「あぁどうかアニスさま眼鏡を」(以下略)をそのままに立ち上がり、「モニカ嬢の部屋へ」と告げた。


(彼女は朝食を食べるだろうか、会ってくれるだろうか)


 「もしまた振り出しなら恨むぞ侯爵」と、彼は朝露の降りる小径を進んだ。

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