2.『父親とはできるだけ穏便に』(前)

「貴殿がアニー=ヴィンセントか」

「はい。お初にお目もじ致します、アニーと申します」

「アナベル殿下の推薦だけあって、美しいな。その眼鏡は野暮だが」


 アニスは「お褒めいただき光栄でございます」と、にこやかな笑みを向けた。向けた先は、ダミアン=オリバ=ラベリ――ラベリ侯爵、その人。

 今、彼らは母屋の応接室で初対面を果たしていた。


(ラベリ侯爵、見ない内に少々老けたな。まぁ最後に会ったのが二、三年前……今は五十近くか)


 侯爵は年相応に恰幅がよく、白髪の交じる焦げ茶色の髪を撫でつけた偉丈夫。アニスは父から聞いた話――以前は政敵同士だったが、爵位廃止と同時の王による静粛以降はうまいこと仲良くしている――ことを思い出した。父曰く、『敵には容赦ない』と。

 アニスは促され、応接テーブルの側まで寄った。侯爵はソファに腰掛けているが彼は立たされたまま。完全に信用しておらず見下していると、はっきり知らしめられていた。


「まずは、娘が世話になっていると感謝すべきか。モニカはこちら母屋の私室に居ないところを見ると、まだ離れに籠もっているようだな。貴殿が来てから少しは部屋から出ている、と聞いたが」


 アニスはその心ない物言いに、僅か眉を動かしたが口元だけは笑んだまま答えた。


「モニカさまは大変聡明な方で、行儀作法も申し分ございません。ただ実践が足りないため、王宮作法に少しく不安がございます。残りの二ヶ月はそちらを重点的にお教えしていく予定でございます」

「……いつ王からお呼びが掛かるとも分からん。教育内容についてはそれでいいが」


 侯爵は不自然に言葉を切り、同時に彼の全身をめつけた。「本題に入ろう」と声を低める。腹の底から不快だと、その表情が語った。


「貴殿が男と知ってこの邸に住まわせているのは、ひとえにアナベル殿下の口添えがあるからだ。男に行儀指南役などとドレスを着せるなど、悪趣味も度が過ぎる。……もし、モニカに指一本でも触れたら、お前を王国裁判に掛けて市中引きずりの末無期限の投獄に陥れてやるから覚えておけ!」


(無期限投獄はともかく、市中引きずりはもう百年前に廃止されてる)


 アニスは内心で反論しながらも、侯爵の態度に対していささか驚きを隠せなかった。冷静さを欠いたか分かりやすく目を瞬いてしまい、見咎めた侯爵は鼻を鳴らした。


「アナベル殿下のお気に入りだとしても容赦はしないぞ。フン、怯んだな。王宮作法を教授する者がこれくらいの脅しで顔色を変えては、大したことがない」

「……侯爵さまは、モニカさまのことを深く思ってらっしゃるのですね」

「当たり前だ。王太子妃になる娘だぞ! 貴殿のような男が近づいていい相手ではない、と心得よ」


 その瞬間アニスは、先程感じた驚きと感慨を撤回した。

 そして予定通り、そつのない晩餐を遣りおおせる方針を固める。


(『王太子妃になる娘』ね。愛情の欠片も感じられない台詞だ。モニカ嬢に僕が男だと言うことも漏らす気はなさそうだし……サッサと別邸だかどこかに帰っていただこう)


 これ以上モニカの話はするだけ無駄と、彼は「ところで侯爵夫人はどちらにおられますか。ご挨拶を、と思っておりました」と話題を変えて目を伏せた。まるで耳を伏せた犬に見えるように。

 彼は、自分に対する危機感があるだけ侯爵の帰宅は遅くなるだろうと、踏んだ。従順な態度を見せ続けることが肝要だと、じっと返答を待つ。


「……妻は今夜は来られない。お前とモニカの様子を見に来ただけなのだ、私一人で事足りよう」


 侯爵は明らかに歯切れの悪い返答をすると「もういい」と、手を振った。退室の合図だ。

 アニスは侯爵夫人の不在を訝しく思いながらも、素直にお辞儀をして背を向けた。


(何か夫人にあったのか? 部屋に戻る前に、家令か侍女頭に聞いておくか)


 そう思案に暮れながら扉を出た先には、ピケが待っていた。これは丁度いいと目を合せたアニスはしかし、遂に顔を引き攣らせた。

 高揚した彼女の目の輝きはドレス支度――戦場に赴く軍人の如き風情を爛々と醸し出していた。

 アニスは何も言わず、降参の万歳で意を示し、着替えのために部屋へと戻ったのだった。


     ◇ ◇ ◇


 シャンデリアが煌々と光を降らせ、幾つもの燭台に惜しげもなく火が灯されている。

 まるでアニスは光の女神の化身のようだった。ごく淡いクリーム色の生地の光沢は素晴らしく、柔らかな光を纏うようなドレスは一目で最高級と分かる。腰にある大ぶりのひだ飾りは彼の美しい曲線美――胸は偽物だが――を際立たせていた。眼鏡を外して下さいませ! とピケが懇願したが(以下略である)


「そろそろ侯爵がお見えになります、モニカさま。大丈夫です、わたくしがついていますから」

「えぇ」


 眉を寄せたモニカは胸元からふわりと広がる、薄藤色の薄く透ける織物オーガンジーを重ねた可憐なドレスだ。黄銅色の巻き毛は同じ色の髪飾りが彩り、可愛らしい。柔らかで広がる衣装はうまく体型を隠す効果もあるようだった。

 肯く声はしっかりと響いたが、やはり緊張は隠せない様子で目の前の畳まれたナプキンを見詰めている。

 そしてアニスも、そんな彼女を見詰めていた。


(彼女は何を不安に思っているんだ……婚約のことか、それとも父との確執か)


 すると、侍従が侯爵の先触れに現れた。

 アニスはため息を殺して立ち上がり、自分の向かい側に座るモニカにわざと意地悪な笑みを向けた。


「さ、モニカさま。ここからは名女優でお願い致しますよ」

「……めい、女優?」


 えぇ、と彼は答え、彼女にも立ち上がるよう合図を出す。扉の外には数人の足音。


「お父上に元気なお姿を見せつけるのです。わたくしたちは何も問題ないと分かっていただいて、早くお帰りいただきましょう。そして明日は、久しぶりに反省会と称してお茶会などいかがです? わたくし新しく取り寄せた小説もございますの」

「新しい小説!? あ、アニーさま、お貸し下さるの!」

「もちろん明日、侯爵さまがお帰りになりましたら」


 ですよ、と言う前に大食堂の大きな扉が開かれた。

 二人は視線を交し合い、それぞれ動き出す。

 モニカは父を迎えに、扉へ歩み寄った。アニスは深くお辞儀をし、親子がそれぞれ硬い表情で会話するのを見守る。

 侯爵の腕に形ばかりの手を添えたモニカがボソボソ言えば、侯爵ももごもご返す。

「父上、お変わりありませんわね」「お前も元気そうに見えるな」


(……もしかして似たもの親子なのか)


 じわりと項に悪い予感が滲み、アニスは微笑みを努めた。席に着いた侯爵がちらりと彼に視線を投げすぐに逸らした。モニカが席に着くのを待ち、アニスも椅子に腰掛けた。


「酒を」


 侯爵が始まりを促し、表面上はつつがなく晩餐が始まった。



「ほぉモニカ。ちょっとは勉強しているようだな、寝室に籠もりっきりと聞いていたが」

「……わたくしだって学んだことは覚えております」

「モニカさまは読書家ですから。先日も我が国の歴史書を読破しておられましたわ」

「どの本か。ならばリオン王の経済政策について思うことは」


 酒の進んだ侯爵は、機嫌良く娘との会話を楽しんでいるように見えた。モニカは面倒そうな表情を隠しもしないが、侯爵は全く気にしていない。むしろ突っかかっては苦々しげにでも返る言葉を待っているようだ。


(意外に反りが合っているようにも見える。ケンカにならないのなら放っておくか)


 はじめこそ警戒していたものの、アニスは二人に合いの手を入れながら今夜の食事を楽しんでいた。


「リオン王の御代の経済を語るには、まず当時の流行病はやりやまいに関する衛生環境の改善政策から話さないと……食事の場では気が進まない話題ですわ、父上」

「ふむ。それが分かっていればまぁ合格点だ。リオン王の次代……あー何と言ったか」


 侯爵は葡萄酒を呷り、言葉を濁らせた。モニカも誰だっけ、と言う顔をしている。アニスは今思いついた顔で、正解を挟んだ。


「えぇと、ギタリウス二世でしたか。リオン王の公共事業政策を受け、隣国と共通貨幣を用いることで市場を活性化させようとしました」

「そうそう、その方だわ!……でもちょっと間抜けよね。西側でまだくすぶってた流行病がその強制的な流通のせいでまた大流行したのよね。それくらい予想出来そうなものなのに」


 彼女が肩を竦めながら彼にそう返した。彼は肯き、同意を示した。


「流行病の影響で人口が減り不作も続いたせいで、農耕収穫量も激減していたのですよ。唯一、不作を免れた織物産業で逆転を狙ったと言う説があるようですが。あえなく失敗して在位は短かったはず」

「でもお陰で織物産業は技術面が飛躍的に伸びたのよね……あら、アニーさまのドレス生地、この話にお誂え向きね。 そういえば! ギタリウス二世はね、絵姿を見ると結構素敵な方なのよ……!」


 「そうでしたか? わたくしとしては次代のナサドナ王の方が堅実で」と二人の軽口が盛り上がったとき、侯爵がゴホン! とわざとらしく咳払いをした。


「あら、父上どうしたの」

「……モニカお前、アニー殿と随分仲が良さそうじゃないか」


 侯爵は戸惑いに顔を顰め、モニカをじいっと見る。内心を見透かすような視線に気分を害したか、彼女も顰めっ面になった。


「いけませんの? アニーさまは父上が雇われた方でしょう。仲良くして当然では?」

「ま、まぁそうだが」

「わたくし、アニーさまを指南役に選んだ父上の慧眼にはお見それ致しましたわ。ご覧の通り、行儀作法にも学問にも秀でて外務のお仕事も忙しそうなご様子。きっと官吏の同僚の方々からも頼りにされているのでしょうね。わたくし、いいお話相手ができて嬉しいです。それにとても優秀な方と、そっ尊敬しておりますわ」


 嘘でも、彼女の口から自分への肯定的な話が出るのは心から嬉しいものだ、とアニスは唇が歪む。じわっと酒の酩酊に似た心地に力を抜けかけた。

 ただしここは侯爵の手前だと、彼は謙遜せねばならなかった。「光栄なお言葉、嬉しいですわ」と精一杯、困ったように眉を下げた。


(ちょっと……褒めすぎだ。こっちが恥ずかしいし、侯爵の心証も悪くなってしまうかもしれない)


 侯爵はモニカの台詞に何を思ったか、目を細め低く笑い声を上げた。そしてひとしきり笑い、彼らには届かぬ声で「じゃじゃ馬が随分しおらしくなったじゃないか」と呟いた。目元を隠し、俯く。

 「父上、何が可笑しいんです?」照れ隠しに葡萄酒を飲み干したモニカが声を張り上げた。

 侯爵はそれにちろりと目を向け、俯き加減のまま口元に微笑みを浮かべた。


「……そうだな。春までにはお前とジャノルド殿下との結婚も調いそうだ、と安心していたのだ」


 ハッとアニスとモニカは目を剥いた。


「は、る? 父上、それはどう言う……」

「そのままの意味だ。お前の母も話が全く進まないのを心配している。いい加減お前もいい年だ、殿下には私から申し上げておく」


 アニスは思わず「侯爵さま」と声を掛けた。

 先程まで酒気で薔薇色だったモニカは、真っ青だ。


(まずい)


 彼は、とにかくこの話題を逸らさねばと、焦りに身を任せて口を開きかけた。

 しかし数瞬、モニカの方が早かった。


「わたくし、そんなの嫌です! 絶対に、嫌!」


 彼女は立ち上がり侯爵に食ってかかった。薄藤の生地がふうわりと揺れた絵がまるでちぐはぐ。

 アニスは慌てて「モニカさま!」と声を掛けた。


(この場で揉めるのは勘弁してくれ!)


 婚約に対してモニカがどう思っているのか、彼も知りたいところではあった。未だにジャンからの手紙にも贈り物にも知らない振りを通している彼女だ。情報はあるだけいい。ただし彼女の剣幕を見れば、すぐにでも話題を変えなければならないと判断した。


(ケンカになってしまう)


「どうか落ち着いて下さいませ。明日もご予定があるのをお忘れ」

「こんな……! 落ち着いてられない! いくら王家との婚約だって、結婚の時期くらい本人が決めたっていいじゃない。殿下からは何にも言ってこないんだもん、まだいいはずよ!」

「……わがままを言うな。父も母私たちも、何年も待った。……体の弱いお前の母を安心させてやれ」


 烈火の如くに咆えたモニカは、そこでぐぅ、と言葉を飲み込んだ。ぶるぶると肩を震わせる。


「とにかく、これは決定事項だ。明日にでも王家に上申しておく」

「嫌よ!」

「モニカ、聞き分けよ!」


 ガタッと椅子が鳴った。

「失礼致します!」と言い放ち、彼女は扉に縋りつくようにして出て行った。

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