Ⅱ.引きこもりを外に引っぱり出すのは難しい
1.察しの悪さは美徳か幸運か
秋の長雨が去った朝。
ラベリ侯爵家の離れ――食堂では女性たちの声が賑やかに響いていた。
臙脂色の細身のスカート、肩が大きく膨らんだ流行の形のドレスを纏い、艶のある金髪を結い上げたアニスは今朝も麗しい。唯一、顔を半分隠すような眼鏡が野暮ったく、彼の銀の睫毛や琥珀色の瞳をぼんやりとさせている。
「モニカさま、それはさすがに乗っけすぎでは?」
「うるふぁいわね! いいの、これがおひひいんふぁから!」
行儀悪くも頬に物を入れたまま反論するのは、このラベリ侯爵家の令嬢、モニカだ。アニスとは違い、柔らかな部屋着のドレス――ただしこれも上等なしつらえで、生成りの生地に可愛らしい刺繍やレースが飾られている――を着ている。以前ならば、朝早くの時間帯はベッドから出られなかったが、今の彼女は身だしなみも髪も整っている。顔色もいい。
「貴方さまは口に物を入れて……」
「ふぁによ」
「いいえ、何でもございません」
アニスは苦笑を手で隠しながらパンを咀嚼した。
対面のモニカと言えば、今朝も塩気のあるスープを飲み干したので、ご褒美のスコーン――ジャムとクロテッドクリーム重ね乗せを口いっぱいに頬張る幸せに満ちあふれている。まるで冬支度のリスのようだと、彼は笑いを堪えた。
これは毎朝のことだが、どうにも彼の頬は緩んでしまう。
――そんなことは知りもしないモニカは、彼の伏せた顔をまじまじと見、可笑しそうに目を瞬かせた。
「あら、アニーさま。やぁっと睫毛のインクが取れたのね、良かったじゃない」
「え、えぇ。お陰さまで」
「寝惚けてインクをこぼして睫毛だけ真っ黒になるなんて、アニーさまも結構ぼんやりしてるわよね」
ぐっと眉が怒るのを抑えて「……面目もございませんわ」と彼が言えば、モニカにお茶を出すドロシィの顔も不自然に強張る。控えの侍女たちの頬も今にも吹き出しそうだ。
(まさか染め粉が六日も取れないとは……侍女たちめ、他人事だと思って!)
だがまぁ、とアニスはお茶をすするモニカに視線を戻し、嘆息した。
(察しの悪い相手で良かった)
するとすぐさま「あ! アニーさま、何か失礼なことを考えたわね!」と指摘が飛んでくる。変なところで目敏いのだ。
いいえ何も、と笑みを深めて誤魔化し、彼もカップを持ち上げた。
――モニカが「スープを飲みたい」と言い始めてから、今日で七日。
アニーとモニカが一緒に朝食を摂るのも七回目だ。
あの朝、モニカが部屋から自分で出てきたと聞き、慌ててドレスに着替えたアニスは彼女の部屋に向かった。ダーニャの感覚がまだ残っていたためか、先触れも出さずに。
すると椅子に座っていたモニカは当然、「な、なんでアニーさまがいるのよ! 入ってこないで!」と入室を拒否。それもそのはず、モニカは起き抜けのままで顔も洗ってなかったのだ。
しかし目の前で扉を閉められたアニスは咄嗟に叫んだ。
「よ、『夜薔薇』のラングが枕元に立って、モニカさまと朝食をご一緒するようにと!」
「なんですってぇ!」
そうして、初日こそ渋々だったモニカもひとりではない食事にすぐ慣れた。軽口が飛び交う程には。
朝食にもモニカの食事の様子にもアニスは満足してはいるが、一つだけ心底面倒なことがあった。
「あぁ! 今日もダーニャは夢に出てきてくれなかった……」
(毎朝ダーニャの話になるのは、もう勘弁してもらいたい)
モニカは毎日飽きもせず、「ダーニャに会いたい」と口を尖らせて愚痴をこぼすのだ。そして彼は、それを背に冷や汗しつつ微笑みで
アニスが食事を終え優雅な仕草で口を拭うと、ピケが「アニーさま、そろそろ」と声を掛けた。彼は心得て立ち上がり、モニカに向かってお辞儀をした。
「朝はこれで。今夜は侯爵夫妻との晩餐がございますので、わたくしは先に執務を片付けてきます」
「そうだったわね」
途端に気分が沈んだ様子のモニカに、彼は気遣わしげに眉を下げた。
「やはり今夜は取り止めに致しますか。体調不良を理由に延期にしてもよろしいのですよ」
「……いいえ、予定通りでいいわ。延期なんてしたら後々煩いもの」
「献立は当初の通り、甘い味付けですからご安心下さいませ」
「えぇ」
力なく首を振った彼女が心配になりそう取り成してが、浮かない顔は変わらない。
彼はゆっくりとスカートの裾を揺らし「何かまだご心配なことが?」と、彼女の側まで近寄った。そ、と肩に手を乗せて返事を待つ。
「……何でもないわ」
しかし彼女は気まずげに目を伏せ、黙り込んだ。
(まだ心の裏を見せる仲ではない、か)
わかりました、と彼は諦めて背を向け、食堂を退室した。
◇ ◇ ◇
モニカと食事を摂るようになってから、彼の日課はより規則的になった。
起床し、庭を散歩。モニカと離れの食堂で朝食を摂り、書斎で執務。書斎で昼食後、侍医や実家の侍従、家令やコック長のギィトなどと打ち合わせ。読書をし、離れの食堂でモニカと夕食、就寝まで再び執務に当たる。
ダーニャの振りをしていた二日間は一切仕事にならず、その分がまだ解消されてなかったのだ。侍従からも催促の手紙が日に二度届くようになっている。
今夜は夕方から晩餐、その前には侯爵との面談があるアニスは、急いで書類を捲っていた。
「アニスさま、家令から伝達が」
「分かった」
彼はさらに、離れから出て来ないモニカの代理として晩餐の準備も取り仕切っていた。大食堂が整った知らせに、忙しなく部屋を出た。
(全く、何で僕がこんなことまで!)
自分の実家でもないのにと内心で悪態を吐くが、一方では仕方がない腹を括るか、と思う。
(モニカ嬢があれだけスープを飲めるようになったんだ。もう少し見届けたい)
結局はそう結論が出てしまうと彼はため息を吐きつつ、見事なスカートさばきで廊下を急いだ。
大食堂ではこの邸のほとんどの使用人――離れに勤める者以外が集まっていた。
家令が迎え入れ、他の者も一斉に礼を取る。まるで邸主人と相違ない待遇にアニスは「そこまではいい」と手を振った。
「今夜は侯爵夫妻を招いての晩餐。皆の協力がなければ、僕は明日にでも実家に戻されるだろう」
ごく、と誰かが唾を飲んだ。
そうだとばかりに彼は肯き、話を続ける。
「男性と偽ってこの邸に来たことを、皆が納得し受け入れてくれたのは本当にありがたく思っている」
「アニスさま、お礼を申し上げるのは我々の方でございます。貴方さまの献身的な看病……装いを変えてまで尽くして下さったご恩は、ラベリ侯爵家に勤める者たちの間で語り継がれるでしょう」
(語り継いでどうする!)
アニスはヒクッと頬を引き攣りかけたのを全力で抑えこみ、物憂げに眉を寄せた。
それは女性の装いをしている彼をさらに女性らしく見せ、ごく近くに控えていたピケは鼻をそっと押さえた。頬を染める者もいた。何故なら、臙脂のしとやかなドレスを着こなしながら自分を『僕』と言うちぐはぐさが「背徳的……!」と、ピケを先頭にした一部の侍女たちを熱狂させていたのだ。
「頼むから、それは勘弁してくれ。まだモニカ嬢を健康にし、舞踏会へ連れて行けるようになるまでは気は抜けないと思ってくれ。差し当たっては今夜だ。使用人たちが僕の肩を持っていることを隠すことで、主人である侯爵夫妻を
アニスの言は当然だった。
もし自分の邸で同じこと――主人の命令よりも他家の令息の言いなりになっている――が起きていた場合、意外に気の短い父親やアナベル姉は全員解雇を言い渡しておかしくない状況だ。
家令は難しい顔で目を伏せ、「致し方ございません」と唸るように答えた。侍女頭も一歩前に出ると「お嬢さまのためならば」と普段の厳めしい顔をさらに厳めしくした。
「もし不測の事態には、王太子妃殿下に口添えして、君たちのことは全て不問にするよう頼むつもりだから安心して欲しい」
「アニスさま……どうか、お嬢さまをよろしくお願い申し上げます」
ザッと皆が礼を取り、彼はひとつ肯いて準備の確認に入った。
――ダーニャの一件により、アニスが男だということは邸内で周知のものとなった。そのため一時、離れの侍女侍従を中心に混乱を極める状況になってしまった。
しかしピケとドロシィ、彼の女装を知る家令と侍女頭によって表面的には鎮圧。モニカが落ち着いたその二日後、使用人を集めての事情説明会が行われたのだった。
さらに、アニスがヘレンゲル侯爵家の嫡男令息であることを知るのはピケ、ドロシィ、そして家令と侍女頭となった――家令は彼が家名を明かした途端、跪かんばかりになり、侍女頭はジャノルド王太子殿下との関係も全て納得した様子を見せた。
つまり、今ラベリ侯爵家でアニスを男と知らないのは、モニカ嬢のみ。
あと二ヶ月間、隠し通せるかどうかは、今日一日に掛かっていた。
(モニカ嬢の察しの悪さを利用する形になる……正直、気分は良くないが。王命のためだ)
胸に湧き上がる暗い靄に気づかぬ振りをしながら、アニスは女主人よろしく会場の最終確認を始めたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます