19.『俺が側にいる』
「うぅ、ぅ……だって、侍医がぁ……無理しちゃダメってぇぇ……ズビビィィ!」
「うんうん」
「えぐっ、美味しくないのに……わ、わたくし……頑張ら、ないとぉ……たべ、食べられないのに……びえぇぇ!」
「はい、鼻」
ズビビィ! と盛大な鼻水の音が響く。
ベッドの端に腰掛けたモニカは、背をアニスの胸に預けてハンカチをぐしゃぐしゃにしている。
「食事を……楽しむ、なん、て……うぅぐすっ。ひっひとりで、どうやって……」
「ご両親とは一緒に食事しなかったのか」
「……父上も母上もお忙しくていつも……でも時々は一緒だったわ……でも、でも、妃教育が始まってからは、わたくしだけ違う献立で……わっわたくしだけジャムもクロテッドもぉぉぉぉ……!」
それは辛かったな、とアニスは彼女の頭を撫でた。
(妃教育か。アナベル姉さんはうまくサボっていた気がするな。成人近くなってからの彼女には、当然厳しかったのだろう……彼女も負けん気が強いから。裏目に出たか)
「たくさん我慢したんだな、頑張ったじゃないか」
「うぅ……でもやっぱりわたくし……うえぇぇん」
(好きな物も好きな趣味も否定されて、寄り添う者もいなかった)
アニスは陰鬱な気持ちになり、肩口に頭を乗せるモニカの顔を覗き込んだ。目は何度も擦ったので腫れ上がり、鼻は真っ赤になっている。眉は下がり、軽やかなはずの巻き毛も絡まってくしゃくしゃだ。
覗き込んだアニスに気づき、モニカは僅か頬を緩めた。ぽろっと、止まりかけた涙が一粒だけこぼれ、彼はいじらしくて仕方ない。
「ねぇダーニャ。どうしたら、美味しく食べられるの……? 楽しいの?」
「モニカ、思い詰めないでくれ」
(彼女はずっと苦しんでいたと、はっきり分かった。やはり時間を掛けて、無理をさせない方法しか)
彼はもう話題を変えようと彼女の頬に手を当てた。
(夢と信じる世界でまで、辛い気持ちになることはない)
モニカは「ダーニャの手、温かいわ」と幸せそうに微笑んだ。
「『あんたは笑ってる方がいい』、その方が可愛い。」
「ふふ嬉しい……あぁ、そうだ思い出したわ。この間のお茶会はとても楽しかったの。アニーさまと『金と銀』の話をして……」
またアニーか! とアニスは身をかすかに硬くした。焦りから話の内容が頭に入らない。彼女の頬の手さえ、汗ばんできていた。
「も、モニカ。アニーの話はちょっと」と遮るアニスにお構いなし、モニカは自然に微笑んだ。
「あの方ね、いつも澄ましてるのに言い淀んだりして。うふふ、可笑しかった。そうだわ……結局お薦めの小説を紹介できなかった」
「残念ね」と急に低めた声に、彼もようやく耳を澄ます。
「本当はあのとき、『明日もお茶会を』って言いたかったの。今まで意地悪してしまったけれど……『楽しかったわ』って、言おうと思ってたのよ……」
「まさか」
思わず本音が漏れてしまったアニスに、モニカは顔を顰め口を尖らせて振り向いた。
「何よ、わたくしだって意地悪ばかりじゃないのよ」と文句を言うと、また首を戻す。気落ちしたような声。
「本当よ。もっと、お話したいと思ったのに」
アニスは今度こそ驚きに目を剥いた。鼓動が高鳴って煩いくらいだった。
この瞬間まで心から嫌われていると、お茶会は義務感で出てきているものと思っていた。
気の利いた返しもできないまま、彼は腹の底が急激に温かく満たされるのを感じていた。
(女装は、無駄ではなかった!)
――彼は歓喜のまま、彼女を抱きしめたくなった。
小さい子どもにえらい、可愛い! と頬ずりをするように力いっぱい身を寄せたくなった。感激で口づけさえできそうだった。しかし。
「ねぇダーニャ。わたくし、眠い」
こて、とモニカが横向きに縮こまった。寄り掛かって目を瞑ってしまう。
彼の両腕は勢いを失いぐるうりと回旋して元の位置――自分の膝の上に戻った。
(落ち着け、僕! 心までダーニャになってどうする!)
激しく逡巡しつつ、彼の手は彼女の肩を温めることになる。もう片方は、髪を梳く。
モニカは心地よさそうにうとうととして、小さく欠伸をした。
アニスは正体の分からない熱くくすぶる想いを押し込め、優しく優しく彼女を撫でる努力をした。
「……ゆっくり寝るといい。たくさん泣いて疲れたろう」
「なんだか、お腹も減った気がするわ。でもいま……寝てしまったら、ダーニャにはもう、会えないの……?」
「モニカ」
ぐすっと、また鼻の潤む音がしアニスは眉を下げた。彼を見上げて眠たそうに呟く。
「貴方となら、スープくらい……食べられそうな気がす」
「あんたがスープを飲み終わるまで一緒にいると約束しよう!」
「あぁうれ、……し」
すぅ、と寝息が聞こえてしばらく経つまで、アニスはモニカを抱え続けた。
深く寝入っているのを確認して、ゆっくりとベッドに横たえる。
「おやすみ、モニカ嬢」
彼は決意を秘めた瞳で、彼女に背を向けた。
彼女の寝ている間に、するべきことはいくらでもあった。
◇ ◇ ◇
(ダーニャに会った夢を見た気がするわ)
モニカは揺蕩う眠気に任せて「うふふ」と笑った。
ひどく幸せだった。
会いたいと願っていたダーニャが目の前に現れて、髪を撫で、体を抱いて涙を拭ってくれた。
異国の黒髪、もたれても力強い胸、琥珀色の瞳――。
(思ったより線の細い……いいえ、しなやかで美しかった)
覗き込む瞳は優しく、甲斐甲斐しいダーニャ。
『笑った顔が見たい』『俺が側にいる』と耳元で囁いたダーニャ。
モニカは目を閉じながら顔をにやけさせ、それが鮮明な夢だったことに悲しくなった。寂しくなった。
滲んできた涙をごしごしと擦る。たくさん泣いたからか、
すっかり目が覚めてしまった。しかし彼女は目を開けるのが怖くなり、キツく眉根を寄せた。
まぶたの裏は朝が来ているのか、薄明るくてなおさらだ。
「もっとダーニャと一緒にいたかった。……目を開けたら、またわたくしは独りなのかしら。」
「俺ならここにいるぞ、モニカ」
「えっ!」
ガバッ! と、モニカは勢いよく起き上がった。
(内鍵を掛けたはずなのに!)
途端、くらりと目眩がして頭を抱える。
「モニカ!」と慌てた声がし、彼女の肩を何者かが強く支えた。
「だ、誰?」
「ひどいなあんたは。一緒にスープを飲もうと言ったのはそっちだろ」
まさか、とモニカは恐る恐る顔を上げた。
僅かに開いたカーテンの隙間から差し込む明るい陽射しが、彼の瞳をきらきらと輝かせていた。
その琥珀色。首元で結わえられた黒髪の艶めき。
「……ダーニャ? まさか本当に?」
「あぁ、俺は本物だ。だけどここはまだ、あんたの夢の中」
彼の髪がモニカの頬にさら、と触れ、モニカは近すぎる距離を知覚してカッと赤面した。
(あ、あれは夢じゃなかったのね! あぁ違う、あれも夢で今も夢? ど、どういうことワケが分からない! 待って、わたくし顔も洗ってないし……夜着のままじゃないのぉ!)
モニカは混乱と羞恥で叫んだ。同時に彼を押し退けた。
「きゃぁぁ! ダーニャだめぇぇ!」
ダーニャは「わ!」と体勢を崩し、危うく床に転がりかけた。
対するモニカは、顔を洗って来なければ! とベッドから這い出そうとし、再びの目眩に呻いた。
どうして、と手をつき体を支えたが、肘が笑ってすぐに突っ伏す。
「モニカ、大丈夫か?」
「ダーニャ。わたくし力が入らない……目眩も」
「起こすぞ」と、声が掛かりモニカは助けられながら起き上がった。背にクッションを宛がわれ、ようやく自力で座っていられる状態になる。
ありがとう、とぐったりして言えば、ダーニャは「問題ない」と口の端を上げた。
そしてベッドの側の椅子に腰掛けると、彼女の手を取って自分の頬に当てた。
(だ、ダーニャってこんなに甘いキャラだったかしら!?)
具合が悪いにも関わらず、鼓動が早鐘のように鳴ってモニカは息も絶え絶えだ。
「モニカ、あんたに食事を用意した」
「え、えぇ? 食事? ここは夢なのに?」
「……俺となら食べられる気がすると言ったのは嘘か?」
(そんなこと言ったような言ってないような! あぁでもダーニャ、どうしたの昨日の夢より何だか、何だか色気が……!)
爽やかな朝の光が差し込んではいるものの、程よく薄暗い室内では彼の麗しい容姿が際立って見えた。彼女を見上げる、上目遣いの彼は目が潤んでいるようだった。
仄かな明るさでさえ、その長く黒い睫毛が艶めいて頬に影を落とし、化粧をしたような赤い唇が飴のように甘く見える。
そんなダーニャが、恨めしげに寂しげに眉を寄せて彼女を見詰めた。
「あんたにスープを食べさせてやれると思って、楽しみにしてたんだが」
「……そうなの?」
あぁ、と肯いた彼は「モニカ、『いいよな?』」と囁いた。そして彼女に少しずつ近づいてくる。
(そ、それは薔薇園でく、口づけをするときのッ! まさか、ダーニャあぁそんなわたくし!)
内心は大荒れながら、煩悩に抗えなかったモニカはコクリと貞淑に肯いた。
彼が彼女の手を離し、ギシリとベッドが軋む。
ふわと空気が動いた。
彼女は来たるべき瞬間に備えて目を、瞑った。
――ガチャ。
唇を突き出していたモニカの耳に、扉の開く音が響いた。
「あ、あら?」と目を開け、彼がスープ皿と水差しを手に戻って来るのを呆然と見た。
「さぁモニカ、あんたに食べさせてやるよ」
ダーニャはベッドの端に腰掛け、湯気の立ったスープを
◇ ◇ ◇
(ダーニャに会った夢を見た気がするわ……しかも『あーん』してもらって)
モニカは揺蕩う眠気がサァッと晴れていく心地に「ダーニャ」と口にした。
ひどく幸せで最高の夢を見た気分だった。
スープを口にする度、優しく目を細めるダーニャ。
食べきったとき「えらいぞ」と、頭を撫でたダーニャ。
寝入るとき、口づけをくれたダーニャ。
(夢だったのに、本当に食べたみたいだった……美味しかった)
幼い頃の好物に、腹が温かくなってすぐに眠くなったことを思い出す。
「もったいないことをしたわ。あと二日分くらいおねだりしておくんだった」と頬を膨らませて寝返りを打った。
一体何日眠っていたのか、頭がすっきりと冴えている心地に起き上がる。体も何となく軽く、喉も水を求めてカラカラだった。
彼女は目脂を擦り、目を凝らした。
――寝室は見慣れたそのまま、ダーニャの姿はどこにもない。
(やっぱり、夢だったのね)
しかし彼女は目を開けていても、彼の一挙一動を思い浮かべることができた。
想像よりも少しだけ高かったアルトが聞こえてくる。
『俺が側にいる』
「そうよねダーニャ。貴方はいつも側にいてくれるのね」
『俺は、どんなに辛いときも笑ってるあんたに惹かれたんだ』
分かってるわ、とモニカはゆっくりとベッドを降りた。
僅かに目眩をもよおしたが我慢した。ひと足ひと足、裸足の彼女はふらつきながらも確かに前に進む。
――そして、自ら内鍵を外し、扉を開けた。
すぐそこにいたドロシィが跳び上がった。
彼女の巻き毛はくしゃくしゃで目も腫れて厚ぼったい。夜着はシワが寄って、百年の恋も覚めるような有様。
お嬢さま、と目を丸くした。
モニカは朝陽に目を細めながら、扉を大きく開け放った。
「ドロシィ、わたくしスープが飲みたいわ」
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恋愛小説メモ
『夜薔薇』より引用
『俺は、どんなに辛いときも笑ってるあんたに惹かれたんだ』
仕事に苦労し、故郷に帰ろうと塞ぎ込んだ主人公に、ダーニャが唯一掛けた“惚れた理由”。彼の粗野な行動は、好きな子に恥ずかしがる裏返しなので、告白的な台詞はこれしかない。
『いいよな?』
終盤の薔薇園の奥で、主人公を不埒に求めるときの台詞。想いが通じ合い、手を握っただけで赤面したダーニャが通常営業に戻る合図。
※徹夜のダーニャは、ピケの指導で厚化粧。
絶対に成功せねばならないダーニャは、侍女たちの指導で原作に忠実。
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