18.『役になりきる』

「アニスさま、よろしいのですか」

「いいんだ。さぁピケ頼む」

「……わたくしは女性の装いの方が楽し……いえ、そこまでのお覚悟ならば全力を努めさせていただきますわ!」


 目が爛々とし始めたピケに苦笑し、アニスは鏡に映る自分の髪が黒く染められるのを見ていた。



 ――ロティアナ姉とジャンに書いた手紙はすぐに届けられ、夜になるまでには手紙の返事も大量の荷物も届けられた。


 “すぐに用意して届けさせます。あぁ可愛い弟の凜々しい姿を見られないのは残念ですけれど、今回は諦めます。これは貸しですから、実家に戻ったらもう一度着て見せて頂戴ね”


 “今、宿舎に居るからすぐ追っかける。騎士時代のが見つからなかったら、今の軍服の黒いヤツでいいな? あ、ついでに食事と風呂と酒を飲ませてくれぇぇぇ! もう宿舎生活は嫌だあぁ!”

 

 そうしてジャンは宣言通り自ら荷物を運び込み、「アニーィィ! 休暇を取ったから明日も一日泊めてくれぇ!」と喚いた。今ジャンは、母屋の応接室でくつろいでいる。

 正直構っていられないのでやりたいようにさせているが、ここはラベリ侯爵家。アニスの邸ではない。家令には緊急事態だからとキツく口止めしたが、口さがない噂は既に持ちきりだろう。それに離れの侍女たちが彼を見る目には、恐れが混じっている。


(モニカ嬢が落ち着いたら使用人たちには真実を話さねば……これで僕は実家に帰ることになるだろうが)


 もちろん無作法過ぎるバカ殿下にもお灸を据えてやらねばならない、と問題は山積みだった。


 (いや今は彼女のためになることだけを考えよう……本来はジャンがその役目なのだが、今だけは)


 アニスは心のままに何度目か、そっと目を伏せた。しかしその度、


「! アニスさま、今は瞑ってはダメです! 色粉が乾くまでは!」

「はい」


 本気のピケがくゎっと喝を飛ばす。怖い。

 アニスは髪も、睫毛も眉も黒に染め、異国の男性の装いをしていた。ピケは何事かブツブツ読み上げながら作業を進める。


 ――傍らには『夜薔薇』が開かれていた。


     ◇


 半日に渡る奮闘の末、ピケは鼻息荒く「お待たせ致しました」と一礼した。


「アニスさまわたくし、小説を読んでいなくともダーニャに恋する気持ちが分かりました」

「そうか、変じゃないか? 黒髪だと別人に見えるな……男性の下衣ボトムも久しいと心許ない気がするな」


 アニスは黒髪の長髪をモニカのお気に入りのリボンで一つ結び――ロティアナが染め粉と上等な香油を寄越したので、髪は艶やかだ――黒く染めたためにより長く見える睫毛をしばたたかせた。

 式典でしか使われない古風な騎士服――もちろんジャンが権力を濫用して持って来た――を着て、腰にはやはり古風な銀細工の剣。


 まるで小説から抜け出した、本物のダーニャのよう。


「ご心配ありません! お美しさは損なわれておりません。むしろこのままのお色で女性の装いをあぁどうしても色味が合わずにいたあの黒いドレスをこのあと着ていただければわたく」

「では行って来る」


 う、と口を覆ったピケは不承不承「行ってらっしゃいませ」と目礼した。


 部屋を出ればドロシィが控えていた。ギョッとして動きを止めたが、アニスは構わずモニカの部屋へ向かう。会う使用人、皆が目を丸くして彼を見た。


(フン……見たいだけ見ればいい)


「アニーさま」

「何だドロシィ。何か文句が」

「……今、お嬢さまは眠っておいでです」


 ドロシィは彼の前に進み出、モニカの部屋の扉を開けた。

 人払いしてあるのか、居間には誰もいない。

 ドロシィは彼を寝室の前まで促し、またも扉の前に立ち塞がった。


「アニスさま、わたくしは入室致しません」


 またか、と苛立ちかけた彼にドロシィは微笑んだ。その表情は憑き物が落ちたように穏やかだ。

 アニスは想定外の言葉に分かりやすく狼狽えた。また一悶着あるか、と身構えていたのだが。


「君も一緒に控えていればいい……未婚の女性の寝室に独りで入ることは……」

「いいえ。お嬢さまの夢の中は、わたくしたち侍女でもあずかり知らぬ世界でございます」

「夢?」

「えぇ。ここから先の部屋は、お嬢さまの夢の世界。わたくしはこちらに控えておりますので、何か御用があればメモでお知らせ下さい」


 だが、と彼は逡巡した。


(婚約者のいる女性の部屋に、ひとりで入るなど)


 ドロシィは彼の戸惑いに構わず、深く一礼した。


「ダーニャさま、お嬢さまの看病をお願い致します」


     ◇ ◇ ◇


 ――モニカはすぅすぅ、と寝息を立てて眠っていた。


(少しは顔色がいい)


 控えの椅子をベッドに寄せ、アニスは腰掛けた。床に倒れていた彼女の白く力の入らない体を思い出し、彼は眉を寄せる。

 座ったまま身を乗り出し、顔を覗き込んだ。乱れて顔に掛かった巻き毛を優しく払う。

 触れた指先が痺れるような心地がして、アニスはすぐに手を離した。


(何故痺れて……だが良かった、温かい)


 琥珀に安堵を宿し、彼女を見つめる。

 ちろちろと揺れる橙色の灯りが睫毛の影を揺らし、彼女は今にも目を覚ますように見せていた。

 すると不意に、けぶる彼女の眉が顰められた。


「うぅ、ダーニャ……ダーニャぁ」


 苦しげに声を漏らす。声が掠れてまるで泣いているようにその名を呼ぶ。


「モニカ嬢」


 アニスは胸が詰まり、掛布からはみ出したモニカの手を取った。

 すると譫言は落ち着き、規則正しい寝息が彼に届いた。


(どうやら、僕も少しは役に立ちそうだ)


 彼もひとつ息を吐き、彼女の手を掛布の中に戻そうとした。しかしその丸っこい手のひらが既に冷えていることに気づき、思わず自分の手に閉じ込める。

 ――言葉が漏れた。


「……モニカ嬢、すまない。僕が君を苦しめた、許して欲しい。君がずっと苦しんでいたことも知らずに」


 決してアニーの口からは言えない言葉。

 女性と偽って、侯爵に雇われたと偽る。男性であることを、王命を隠すままでは決して口にできない台詞。


(なんて身勝手な吐露)


 彼は顔を歪ませた。すまない、と繰り返す。

 アニスには未だ、モニカが何に苦しんでいるのか『根本的な原因』が何なのかも、分かっていなかった。どうすれば癒えるのかすら、分からない。しかし。


(どうか、彼女の苦しみよ。早く癒えてくれ)


 彼女の手にぬかずき、「どうか」と祈った。


「……ダーニャ」


 譫言か、とアニスは彼女の手を強く握った。ドロシィの言ったように夢だけでも幸せに、と呼び返す。


「モニカ嬢」

「……ダーニャなの?」


 弱々しく掠れた声。

 アニスの鼓動が跳ねた。

 恐る恐る見れば、彼女がこちらを見ていた。

 ヘーゼル色の瞳が見る間に潤み、橙に染まる頬に一筋流れる。シーツを濡らす。

 ダーニャ、とかすかに唇が動いた。


 彼は力強く見えるよう、深く肯いた。本物のダーニャがそうであったように。


「『俺』だ、ダーニャだ」

「あぁダーニャ……本当に?」


「本当だ」と囁き、アニスは彼女の涙を拭った。


「夢なのかしら。いいえ夢でもいいわ、貴方に会えたのなら……」

「あぁ。君があんまり呼ぶから来たんだ。君の夢の中に、モニカ」


 「あぁ、嬉しい」と彼女は涙を流しながら微笑んだ。

 花がほころぶように、瞳を溶かすように目を柔らかく細めて。


(彼女はこんな風にも笑えるのか)


 アニスは内心動揺しながら濡れ続ける頬を撫でた。途端、ダーニャありがとう、と幸せそうに頬をすり寄せられる。

 ちりっと心臓が痛んだ。

 モニカが頬に添えた手に自分の手を重ねれば、さらにじわりと痛みが広がる。


 何故だ、と胸を押さえようとしたが両手が塞がってできず、アニスは眉根を寄せた。と、すぐにモニカが反応する。


「ダーニャ……あっ、ごめんなさい! わたくし馴れ馴れしくして」


 彼女はパッと手を離し、「あぁわたくしこんな格好で!」と真っ赤になった。目が覚めたのだ。シーツを引き上げようと、もだもだと必死で動いている。

 アニスは苦笑しつつ「問題ない」と立ち上がった。掛布の足元にいつか見た羽織ストールが置かれていることに気づいていたのだ。


「……ぁ、ダーニャ」


 立ち去ると思ったのか、モニカが泣きそうな声で彼を呼び止める。起き上がって、彼に取り縋ろうとした。

 彼は「『大丈夫、俺はここにいるぞ』、モニカ」と口の端を上げ、持ち上げた羽織を彼女の肩に掛けた。ぎゅう、と肩から胸まで覆い、留め具で解けないようしっかりと留める。

 ズレないことを確かめ、「これで良し」とアニスは顔を上げた。

 「寒くないか」彼女の髪を撫でて整えると、モニカはパチパチと目を瞬かせた。


「ダーニャ貴方、まるで……アニーさまみたい」

「は?」


(しまった! バレる、どうする……!)


 図星で視線を彷徨わせたアニスを気にする様子もなく、彼女はふふっと吹き出した。


「ごめんなさいダーニャは知らない方よね。アニーさまはわたくしの行儀指南役をしてる人なの」

「あ、あぁそうか」


 まさか自分の話題になるとは思っておらず、返事もしどろもどろになる。頬が引き攣らないよう、表情筋に力を入れる。

 モニカは凜々しい彼の表情に頬を染めながら、可笑しそうに笑った。


「彼女、変な方なのよ」

「へ、へぇ。どんな風に?」

「行儀指南に来たのに口うるさくないし、恋愛小説……そう貴方が出てくる『夜薔薇』も読むの」

「いいじゃないか、何が問題が?」

「だって、今までの先生たちは皆『ふしだらだから』と禁止していたのに。……あの頃はわたくし、夜のベッドでこっそり『夜薔薇』を読んでいたわ。庭に薔薇を植えてもらって、ダーニャが、貴方が薔薇園で励ましてくれると思いながら……」

「そうだったのか。それは、辛かったな」


 アニスは小説の話をするときの、彼女の瞳の輝きを思い出す。それを禁じられていたとは、と目を細めた。


(王太子妃教育のときか?)


「そうなの。わたくし、とってもつまらなくて……叱られてばかりで辛くて、食事も美味しくなくなっちゃって」

「食事も……?」


 思わぬ話に彼は身を乗り出した。「モニカ」と話を詳しく聞こうとする。

 しかし彼女の話は止まらず、すぐに彼は口を噤んだ。


「ふふっ。でもいいの。わたくしもう何も食べたくないから。このまま死んでもいいわ、最後にダーニャに会えたもの」

「……モニカ」

「もしかしてダーニャはわたくしを迎えに来てくれたのかしら。あぁそうならなんて」

「そんな訳ないだろう!」


 アニスの大声に、モニカはギクリと肩を強張らせた。

 つう、と両目から涙が伝う。


「わ、わたくし……わたくしは……ダーニャ、怒らな、いで」

「死ぬなんてこと『俺が許すと思うか?』」


『夜薔薇』の主人公も、ダーニャに弱音を吐いて故郷に帰ろうとした。しかしダーニャはそれを許さなかった。そのときの台詞。


「『どうして?』」

「『俺は弱音を吐くあんたが嫌いだ。』モニカ、俺は……君を勇気づけるために来たんだ」

「ゆう、き? あぁいやよ、ダーニャ嫌いにならないで……」


 モニカは滂沱ぼうだと彼を見た。赤ん坊のように両手をアニスに向けて伸ばした。

 彼は彼女の手を優しく取った。そっと握る。


「ならない。君が……あんたが自分を大事にしてくれるなら」

「わたくしが……?」

「『俺は、どんなに辛いときも笑ってるあんたに惹かれたんだ』」


 モニカは息を止めた。視線が揺れ、遂に目を伏せ閉じた。それでも止まらない涙に、アニスは思わず顔を歪めた。


(涙を、止めたい。泣かせたくない)


 アニスはモニカの手をぐいっと引き寄せ、彼女の頭を抱きしめた。黄銅色の巻き毛に、片手を差し込む。

 自分の衣装が彼女の涙を吸い込めばいいと、強く自分の胸に押しつけた。


 ダーニャ、と弱々しい声が彼の胸を震わせた。


「話してくれ俺に。そんなになってしまった理由ワケを」


 うわぁぁぁぁ……! と、モニカは堰き切ったように声を上げた。彼の胸に埋めるように顔を擦りつけて。

 これまでずっと我慢していた涙と泣き声を出し切るように、彼女は泣いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る