17.誰が彼女の手を握るのか

 入り込んだ先には誰もいなかった。

 居間らしき部屋を見渡せば、奥にもうひとつ扉がある。

 アニスは大股でそれに近づき、躊躇なく扉に手を掛けた。しかしノブは回らず、鍵が掛かっている。

 内鍵か、と舌打ちしかける。


 彼は「鍵を」と振り返った。じっとりと水を含んだドレスの袖は重く、ひと息ごとに彼から体温を奪う。しかし今、彼にとって重要なことはモニカの安否だけ。

 列をなし、彼を睨める女たちの視線も何の意味もなさない。


 「そちらは寝室でございます!」ドロシィが再びアニスに食ってかかった。彼女が近づく間、彼は苛立つ眉を隠しきれない。

 と、ピケが彼とドロシィの側に駆けてきた。その手には鍵束。


「だからどうした。ピケ、早く鍵を」

「いくらアニーさまでもそこまでは! ピケ、ダメです」


 ドロシィが立ちはだかった。

 彼女には、彼女の正義があることを彼はもちろん理解していた。彼がモニカの寝室に許可なく、いや許可があっても入室することの意味を。侍女の鑑と褒め称えられるべきドロシィの行動を。

 しかし彼は納得できない。


「……それなら今すぐ彼女をここから出してみろ。そして何でもいいから食べさせるんだ。それを見届ければ僕はここから立ち去ろう、さぁ」


 彼は一歩下がり、扉を明け渡した。

 さぁ! と、そこにいる侍女たちを睨みつけた。

 色をなくした侍女たち――ドロシィだけは苦痛に顔を歪ませ、今にも泣き出さんばかりだ。部屋には強い雨音が響き続けており、彼らに重苦しく降った。


 誰も動かない。


 アニスはフンと鼻を鳴らし、ピケに鍵を寄越すよう促した。彼女も真っ青になってはいたが、求めに応じてそれを手渡す。口を引き結び、手を震わせて。

 感謝する、と言えば強い眼差しが応えた。


「……誰か一緒に来なさい。僕が無体をしないことを証明して欲しい」


 アニスは焦燥に手を滑らせながら、ノブと同じ色の鍵を見つけだし、扉を開け放った。


 ――果たしてモニカは、絨毯敷きの床に倒れていた。


「モニカ嬢!」


 体の半分がシーツにくるまったまま。

 力尽きたようにうつ伏せ、『夜薔薇』を抱えて固く目を閉じていた。


 鍵を投げ出し、アニスは駆け寄った。


「モニカ嬢! おい誰か侍医を、水を!」

「お、お嬢さま!」「侍従を呼んできます!」


 侍女たちも騒然となり、一瞬で慌ただしくなる。

 アニスは側に膝をつき、その真白な頬に触れた。彼の冷えた手には熱い程の体温。


(良かった、生きている)


 安堵する間もなく、抱え上げようと膝に乗せる。しかし、完全に意識を失っている彼女の半身は仰向けにした途端、ぐにゃりと床に落ち掛かった。

 バサリ、と『夜薔薇』が落ちた。

 アニスはゾッと背を冷やし、咄嗟に強く抱え上げた。ベッドへ運ぼうとした。

 しかしその瞬間、ぽたりと髪から水滴が落ち、彼は自分がずぶ濡れであることに気づく。彼女の膝裏をすくう腕も、ほつれた金髪をもたれさせた胸も、薄い夜着などすぐに濡らしてしまう。


(彼女を冷やしてはダメだ。ダメだ、僕では)


 アニスは再び床にモニカを横たえた。ドロシィが「お嬢さま!」と手を取って何度も呼びかける。


「誰か、モニカ嬢を!」


 周囲を見回し、戸口に立つ侍従に叫んだ。部屋の中はベッドを整え、お湯を運ぶ使用人たちでいっぱいになっている。ひとりと目が合った、こちらに駆け寄ってくる。

 彼は知らず唇を噛み、息をしていないような彼女を再び見下ろした。


(すまない、モニカ嬢。僕は君に何も)


 ひどい無力感から、今すぐに彼女の確かな体温に触れたくなった。

 その頬に手を伸ばす。

 寸前、「お嬢さま!」呼ばれた侍従が彼の目の前でモニカを抱え上げた。ドロシィが「早くベッドへ!」と喚く。

 伸ばした手は弾かれた。

 水を吸ったドレスは重く、彼はしばらく立ち上がれなかった。


     ◇ ◇ ◇


 離れのこぢんまりとした客室に落ち着き、アニスは食事を摂っていた。


 モニカは一度意識を取り戻したようで、侍医が新しい薬を置いていった。外はひどい嵐。宿泊して彼女に付き添ってもらいたい、と願い出たが叶わなかった。


「『ダーニャ』と譫言うわごとを繰り返しております。私が付き添うよりも、ご家族のどなたかが手を握って差し上げるとよろしいでしょう」


 そう言って「明日も朝から参ります」と帰って行った。


「……ダーニャか」


(彼女が心を寄せるのは家族でも友人でも、使用人でもない。小説の中の、空想の人物……誰も信じられないと言うことなのか)


 アニスはフォークを置き、両手で顔を覆う。

 普段なら美味しいはずの食事は味がしない。心が乱れているせいと分かってはいるが、全く手に付かない。


(こんなことになって、今さら彼女の気持ちが分かるとは……)


 庭での茶会で頬を染めていたモニカ。

 大好きな小説を語り、彼の手を興奮のままに取ったモニカ。

 何の役にも立たなかった自分の手を見る。

 ――固く金の睫毛に閉ざされたヘーゼル。力なくぶら下がった半身。

 あぁ、と彼は後悔と罪悪感に呻いた。


 ――はっきりとしたノックに、彼はのろのろと顔を上げた。誰だ、と問えば「ドロシィです」と応える。

 入れ、と促した。硬い顔で入室したドロシィは礼をとり、その場に膝をついた。


「ドロシィ」

「アニスさま、先程のご無礼をお許し下さい。貴方さまが来て下さらなかったら、お嬢さまは……申し訳ございませんでした」

「……いや、いい。君の態度は侯爵家の侍女として正しかった。……僕を男と知っているならば、当たり前の行動だろう。もういい」


 彼は手を振り、退室を促した。独りになりたかった。

 しかしドロシィは跪いたまま動かず、手を組み祈るような格好で彼を見上げた。


「まだ何かあるのか。あぁ侯爵夫妻には黙っているから安」

「アニスさま、お嬢さまにお付き添いいただけませんか」


 「は?」と言ったきり、彼は声が出なくなった。その真意が分からない。


「……お嬢さまはお心を病んでらっしゃいます。何年も誰にも会わず、本の世界に閉じこもって生きてらっしゃいました。ですが、アニーさまとのお茶会では、まるで以前のお元気だった頃のお嬢さまのようでした」


 ドロシィは涙をこぼし、言葉を継ぐ。


「アニーさまでなければ。お医者さまでも長年仕えたわたくしたちでもなく、貴方さまでなければ……どうか、お嬢さまのお手を握って下さいませ。すぐに元気になる、とお言葉を」

「だが僕は……彼女に食事を摂らせることは。無理強いさせたのは僕だぞ」

「いいえ。この邸の中では、アニーさまの他には誰も。……あぁお嬢さまは本を抱きしめて離さないのです。お水も甘いスープもお召し上がりにならないのです」

「『ダーニャ』か」


 アニスのまぶたに『夜薔薇』を抱えた顔色の悪いモニカが浮かんだ。

『ダーニャと譫言を繰り返しております』『本を抱えて離さない』

 なんて悲しい、と彼は唸った。


(寝室に籠もる内、誰も彼女に寄り添わぬ内。彼女が信じられるのは小説の中の男性だけだ)


 ドロシィの啜り泣きが部屋に響き、彼の心を重くする。先の見えない状況に彼が深く息を吐いたとき、ドロシィが泣きながら呟いた。


「あぁ『ダーニャ』が実際にいるのなら、首根っこ掴んでお嬢さまの看病をさせるのに」


 アニスは目を見開いた。

 「今、何と?」ドロシィの側に寄る。彼女はほたほたと涙をこぼしながら繰り返した。


「夢物語でございます……もしダーニャがいれば、連れてきて看病をさせるのに、と」

「ダーニャが……看病……?」

「アニス、さま?」


 ドロシィはアニスの琥珀色の瞳がみるみる輝き出すのを、見上げた。そして僅かに口の端が上がり「それだ」と囁いたのを見た。


「ドロシィ、今すぐピケを呼べ、手紙を書く。それから早馬の用意を」

「アニ、スさま?」

「いいから、早くしろ! 僕の気が変わらない内に」


 「はいぃ!」と慌てて立ち上がったドロシィは、アニスが首元を肌蹴させるのを横目に扉に走った。退室の礼に顔を上げたとき、彼は金の鬘を脱ぎ去っていた。

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