16.何が大事かはっきりしろ
「アニーさまは『
「ふふ。姉から勧められて読んだのですが、『彷徨う愛の行方』の方は少し過激な内容で驚きました」
モニカは首を縦に振る人形のようになってアニーに何度も肯いた。
「仰る通りですわ! まさか主人公が意に沿わぬ結婚に納得できないとは言え、出会ったばかりの男性と駆け落ちするなんて、誰が想像したでしょう! でもそこが現実離れしていて素敵なんですわ!」
アニスは困ったように眉を下げ、「本当に」と首を傾げた。
緩くまとめた後れ毛が風にふうわりと揺れる。今日のアニーの装いは、夜着に近い柔らかな素材のドレス。秋薔薇の庭を背にした姿は、まるでどこかの女神のような美しさ。
(こんなに長く外に出っぱなしなの、いつぶりかしら。部屋の中では陽射しなんて大っ嫌いだったのに)
今日の茶会はモニカの住む離れの庭に準備されていた。夏が戻って来たような陽気がもったいないと、アニーが提案したのだ。本来なら招待した方――アニーが席を設けるべきだが、彼女が“モニカさまの落ち着く場所で”と手紙を寄越したことで離れに決まった。
木陰にしつらえられたハイテーブルに二人はまたしても、ごく近くに座って話をしている。初めこそ話が堅い雰囲気も、アニーが恋愛小説の話題を出せばすぐに話が盛り上がった。
(『さま愛』はあぁ思い出しただけでも頬がニヤけてしまう。心理描写もさることながら、濃密なまぐあいの場面が! こんなお日様の下でアニーさまとお話ししていいのかしら。この方、行儀指南役なのに……あぁでもでも)
モニカはどうにも心が沸き立って、話を止めることを抑えられない。
出された菓子にもほとんど手をつけず、ずっとおしゃべりに興じていた。
「しかもそれが名のある隣国の貴族だっただなんて。結末には驚きませんでしたか? なかなかよく考えられた大団円でした」
「本当に! もし無頼者だったら愛があっても夫婦には……とわたしくもドキドキしながら続きを読みましたわ! まさに運命の糸に導かれたのですわね!」
モニカは何度目か、自分が大声になっていることに気づき、むぐっと口を噤んだ。誤魔化すようにお茶を飲む。実際、喉もカラカラだ。
(この方は一応、行儀指南役なのよ。落ち着いて、わたくし)
そうは思うが、アニーも興味深いのか絶妙な話題を投げてくる。
「『金と銀』……と略すのですか、こちらはその、男性同士の深い友情を描いた作でしたわね。わたくしこのように男性がその、親密になる様子は読み慣れなくて時間が掛かってしまいました」
「まぁ、この二人は実際の男性がモデルと噂されていますのよ!」
「……は?」
アニーはあまりに驚いたのか、珍しく口が開きっぱなしになっている。モニカはそれが可笑しくて楽しくなってしまう。あとがきまで舐めるように熟読しているので、語ることはいくらでもあるのだ。
「わたくしはあまり社交に顔を出しませんから、詳しく存じあげないのですけれど……かなり有名な方々らしいですわ。きっとお美しい方々なのでしょうね」
「え、えぇ?……そんな奴いたか?」
「あぁぁ、でも熱い男性同士の友情。素敵ですわね! 『何処にいてもお前を探し出して守る……!』『分かってる、信じてる』……はあぁぁ、信頼し合って命を預け、それぞれの闘いへ……心が沸きますわね!」
モニカはハッと動きを止め、咄嗟に首をすくめた。
(また声が大きくなっちゃったわ! そろそろ行儀が悪いと叱られてしまいそう。相手がアニーさまとは言え、気をつけないと)
恐る恐るアニーを盗み見る。
そのとき、アニーは眼差し優しくモニカを眺めていたが、丁度、心地よい風についと視線を外したところだった。
その横顔は微笑んではいないものの、何の苛立ちも呆れも感じ取れなかった。彼女はただ心地よさに目を細めているように見えた。
モニカの肩からホッと力が抜いた。安心したせいか汗が冷えたときのように、少し寒気をもよおす。
「……モニカさまは薔薇がお好きなのですか? 母屋の庭も素敵でしたけれど、こちらはまだ薔薇もたくさん残って。夜も月明かりで美しいのでしょうね」
視線を庭に遣ったままアニーは感嘆をこぼした。
彼女はそれに少々得意になる。そっと腕をさすりながらフフン、と鼻を鳴らした。
「えぇ。わたくし『夜薔薇』を読んでから、すっかり薔薇が好きになりましたの。庭師に頼んで、いつでも花が見られるようにお願いしたのです」
「なるほど、そうでしたか。モニカさまは本当に恋愛小説がお好きなのですね」
「……そう、ね」
(好きになったのは……勉強ばかりで外に出られなかったから。あの頃は窓の外に薔薇が咲いているだけで心が慰められたわ。ダーニャがそこにいるような気がして)
彼女の沈み込む雰囲気を感じ取ったか、アニーがそっと肩に触れた。「気分でも悪いのですか」心配気な少し低めの声が、ぼんやりしていた彼女に届いた。
(アニーさまの手、大きい。それに温かい)
「お体が冷えて。いくら今日は暖かいと言っても、長居はお体に障りますね。申し訳ありません、楽しくて時を忘れてしまったようです」
「大丈夫よ、まだ」
モニカはそう返しながらも、確かに体が気怠いと感じていた。ドロシィが慌てて羽織を掛け「もう中へ」と、彼女を強引に立たせる。
「ピケ、侍医をすぐに」アニーが鋭く言い、すぐ硬い顔で「申し訳ありません、モニカさま。連日ではお疲れでしょう」と頭を下げた。
「少し日を開けて。またお手紙を届けさせます」
(いいえ、明日も。わたくし、楽しかった)
今日は素直に伝えたかった、そうしようと思って来たのに――しかし彼女は声が出なかった。
ふらつく体を支えられながら寝室に戻り、気がつけばベッドへ倒れ込んでいた。
目覚めたモニカに、侍医は慈愛に満ちた瞳を向けた。
「アニーさまや侍女から聞きました。毎日、少しずつでもスープを召し上がっていると。頑張っておられますね」
「……いいえ、わたくし頑張ってなんて」
「ですが少々頑張り過ぎではありませんか。菓子の量を減らされているのでは? このままでは栄養不良が進んで本当のご病気になってしまいますよ」
彼女はクッションに寄り掛かりながらだんまりを決め込んだ。
事実だった。この三日、彼女は菓子を食べないようにしていた。目を回す程食べたい! と、思うこともあったが、お茶や本で誤魔化していた。
(だってお腹が減れば食べたくなるかもしれないって、思ったのよ……)
初老の侍医は眉を下げ、侍女たちを下がらせた。
モニカは叱られるのではないか、と急に不安になった。背を強張らせて声が掛かるのを待つ。
(食べられないことを誰も責めない。でも食べた方がいいに決まってる。きっと皆が食べて欲しいと思っているのに……わたくしは)
食事の話題は嫌だった。息苦しさに呼吸が乱れる。目眩もして頭を手で支えたが、ぐわんと揺れた視界に目を瞑った。
「モニカさま。わたくしも確認致しましたが、貴方さまに出されている菓子は健康に留意された素晴らしい『お食事』です。材料ひとつとっても、料理人が気を配っている。安心してお召し上がり下さい。倒れられては皆が心配しましょう」
叱責ではなかった、とモニカは辛うじて肯いた。皆が心配する、そんなことは分かっていた。
「食事は楽しむもの。頑張って無理しては美味しく感じるはずがありません」
侍医が背を撫でた。まるで小さな子にするような仕草に、彼女は恥ずかしくて侍医の言葉を理解するのに時間が掛かった。
(楽しむ?……食事が楽しいだなんて思ったことなかった、考えたことも)
視線が揺らぐ彼女のまぶたに、先程の光景が広がった。
大好きな小説の話題、薔薇の香りの風、アニーの横顔。
甘い酒気、甘い料理、領地や外国の話題、アニーの下手な笑み。
暗転――いつもひとりの食事。父母とは違う、ジャムもクロテッドクリームもパンに付けてはいけない体にいいだけの食事。ぼそぼその舌触りの何かを噛み下す食事。
「頑張っては、ダメ? 楽しむ?」
モニカは呆然と呟いた。
「そうですよ。心安く、楽しくですよ」
侍医はそこで侍女を呼び戻すと「消化のいい物を。また様子を診に伺います」と彼女の肩を撫でて出て行った。
――モニカはまた、一口も食べられなくなった。
◇ ◇ ◇
「アニーさま何とかして下さい!」「アニーさま! このままじゃお嬢さまがまた」「お願いします神さま女神さまアニーさま!」「アニーさまぁぁぁ」
書斎に詰め掛けた使用人たちを力尽くで扉の外に追い出し、ピケは荒い息を吐いた。
アニスはそれに「ご苦労」と肯いてから、痛むこめかみを押した。
(僕が無理をさせたせいだ……)
昨夜から窓を叩くような雨が降り続いていた。
診察を終えた侍医から話を聞いたアニスは、またしても深く眠れず、今は頭痛に悩まされていた。追い出しても追い出しても湧いてくる使用人たちに辟易もしている。恐らく今も何人かが扉に耳を付けているだろうと思うと、気も休まらない。
「それでモニカじょ、モニカさまは今は……?」
「はい。お茶会の時点でほとんど何も召し上がっていない状態で寝室に籠もられていると。元々食事の約束のために部屋から出て来られるようになっておられたので。もう二日……お体が心配です。お菓子も気分が乗らないから、と」
アニスは目を剥いた。
「今度は菓子も? では、彼女は何も食べられないじゃないか!」
ピケはアニスの言葉に目を伏せ、静かに肯定を示した。
彼は大声を出したことに「すまない」と詫び、荒く息を吐いた。
侍医はアニスに、彼女に差し迫る病気の気配を示唆して帰った。このままでは体が狂って、空腹でも満腹でも一生不調に悩ませてしまうこと。薬を飲み続け、安穏な生活を送れなくなることを。
(このままでは重い病気に……いや、下手したら死んで)
ピケは深く頭を下げた。
「どうか、アニーさま」この侍女も自分と同じ考えなのだ、とアニスは悟った。慎重なこの侍女が、無言で強く背中を押すのを感じる。
――来週にはもう、侯爵夫妻との晩餐だ。そこでの失敗がどんな結末になるか。
(ジャンとの結婚は)
その瞬間、彼は幼なじみの快活な声を久方ぶりに思い出した。ぎりっと体中の血管が軋む、痛みを伴う違和感。
(違う)
薔薇の薫る庭で見た、あの彼女の自然な姿が永遠に閉ざされてしまったら、と彼は低く呻いた。そして彼女が彼に初めて素を見せた日の、手のひらに包み込んだ丸っこい手がまだそこにあるかのように、彼はゆっくりと拳を作った。
(違う、もう王命どころじゃない。もしモニカ嬢が、何も食べられなくなったら。彼女は、僕は……)
アニスはしばし俯くと、やおらに立ち上がった。
「行こう。先触れを、ピケ」
外に出たアニスを、雨は容赦なく打った。フード付きのコートを羽織りはしたものの、髪は瞬きのうちに濡れ化粧も取れてしまった。ただし彼の美しさが損なわれることはなく、水が付き使い物にならなくなった眼鏡を外した彼――アニーは本物の女神のように麗しく見えた。
お直しを、とピケが玄関先で申し出たが、彼は「必要ない」と突っぱねた。
「これでモニカ嬢が食べられなくなってしまえば、僕は結局お払い箱だ」
「アニ、スさま。ですが」
「構わない、彼女がよく見えた方がいい」
ヤケクソだ、とアニスは自嘲に眉を寄せた。
(僕が会って、どうにかなるとは思えない。だが今だけは、手をこまねいていては、ダメだ)
離れの玄関で軽く水気を拭き取ると、彼はすぐにピケの案内でモニカの住む部屋に向かった。二階に上がればドロシィが待ち構えており、それらしい扉の前で彼に通せんぼした。他の侍女たちも戸惑ったように控えている。
(入れないつもりか)
彼は喉に力を入れた。他家のやり方に口を出してはいけないと、ずっと我慢していた負の感慨が表出しそうになったからだ。
彼は今、アニー=ヴィンセント。抑えなければ、と侍女たちを見据えた。
「ドロシィ。そこを通して下さい」
「アニーさま。お嬢さまは成人された淑女。許可なくお部屋に入れることはできません」
当然だ。
未婚の主人の部屋に招かれてもいない客を入室させたとあれば、咎められるのは侍女。ただしドロシィの伝えたいことはそうではない、と彼は理解した。
――睨み合う。
「ドロシィそこをどいて下さい。わたくしはモニカさまに指一本触れたり致しません、誓いましょう」
「いいえ。ここを通せば、お嬢さまと侯爵家の
目の前が真っ赤に染まった。
「――今、そんなこと言ってられるか!」
男の言葉になっていると、どこか遠くで気づいてはいたが制御はできなかった。彼はそれ程、頭に来ていた。
お仕着せを着た侍女たちは、彼の怒鳴り声に一様に顔を強張らせた。
「主人が倒れるのをただ指をくわえて見ているだけなのか! 君たちはまた同じことを続ける気か!」
「……そんな、つもりは」
「侯爵家の誇りが何の役に立つ! 彼女に食事を摂らせるか!? お前たちが大事なのは侯爵家かモニカ嬢か、いい加減はっきりしろ!」
サッと青ざめたドロシィをアニスは払いのけた。
ずぶ濡れの髪から雫が滴り、彼の頬を首を流れた。
アニスは勝手に、扉を開けた。
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