15.変化を受け入れるには勇気が要る
モニカは物心ついたときから、物語の世界が好きだった。賢く、文字覚えの早かった彼女は、ラベリ侯爵家に生まれながら冒険物語の主人公に憧れて、天真爛漫で真っ直ぐな気性に育った。侯爵夫妻の決断は早かった。
彼女が十の頃には、『お前は結婚して家から出て行くのだよ』と説いた。体の弱い夫人にはモニカしか子どもがおらず、傍家の少年を跡継ぎに決めたのだった。
モニカはずっと、そのつもりで生きてきた。成人したら自分で生きていくのだろうと。
お前は必要ない、と言われているような気がしていたが、父母の目はいつも真摯に優しかった。自分の幸せを願ってくれているのだと、彼女は信じていた。
体が大人になっていけば、読む本も空想物語から現実的な小説や恋愛ものに変わっていった。
それは折しも伯爵以下の廃爵による混乱が落ち着き、女性の官吏進出が華やかに取り立たされた頃――彼女は「自分も官吏になって素敵な男性と出会って幸せになりたい」と、願い始めていた。
転機は――四年前、モニカが十九の年。
「モニカ、お前にジャノルド殿下との婚約の打診が来ている」
「どうして急に? 嫌よわたくし、絶対に王家になんて嫁ぎたくない! 官吏になるんだから!」
「我が儘を言うなモニカ。侯爵三家と王家の繋がりを安易に絶つつもりか!」
「そ、そんなの今さら何よ! わたくしは、わたくし……!」
モニカが二十になった三日後、正式にジャノルド王太子との婚約が王家と侯爵家の間で交されることとなった。
ただしこのときジャンは、軍の僻地遠征で一年の不在。本人同士が顔を合わせることなく婚約が成立した。本人たちのサインは必要なかった。
そうして何もかも納得せぬまま始まった妃教育――数え切れない座学、行儀作法やダンスは、モニカ精神を磨り減らした。
当然だった。
彼女は生まれたときから降嫁する娘として、最低限の令嬢教育しか施されていない。舞踏会も夜会も社交も必要ないと言われ、彼女はほとんど参加してこなかったのだ。
物語の舞踏会に憧れたことはあっても、実際に参加してみれば苦痛でしかなかった。彼女はエスコート役もおらず、いつもひとりで壁際に立っていなければならなかった。
(もう嫌……好きな本が読みたい。お菓子を食べて、のんびりしたい。そんな少しのことも許されない)
そう苦しみつつも、モニカは持って生まれた負けん気で妃教育に必死で食らいついた。
『甘やかされて育った』と揶揄されることも『できないからしないのだ』と言われることも、決して良しとはできなかった。しかしどう懸命になっても、他人より教育が遅れた彼女は周囲に手放しで認められることはなかった。
現在のホセ国に王太子は三人いても、その誰もが次代に恵まれていない。
周辺国では次々と王が倒される時代。全て民意で決まる風潮。
この国で、王と侯爵三家と平民官吏の権力を均衡させるためには、今、侯爵家と王家の婚約は必須だ、と彼女は理解している。
理解してはいたが、突然自分に白羽の矢が立ったことに納得できてはいなかった。納得のいかないまま、話が進んでいくことにも。
(侯爵家の令嬢として我が儘を言ってはいけないことくらい、分かってる。でも、嫌なのに)
そうして彼女の心と理性は乖離したまま時は過ぎていった。
「貴殿がモニカ=ラベリ嬢か」
二十一歳の夏。モニカは遂に
見上げるほどの長身、驚くほど大きい体格。短すぎるほど刈り上げた明るい金髪に、晴れ渡る空のような瞳の男性。
彼女は、その逞しいジャンの姿を見上げ、ほのかに胸を高鳴らせた。
(ジャノルド殿下、噂通り快活そうな方……遠征から戻られたのね! でも夜会でお目にかかれるなら知らせの一つくらい寄越してほしかったけど……)
だがそれも、ダーニャのようにちょっと粗野でいいかもしれない、とモニカは夢見心地で頬を染めた。この頃の彼女は、寝る間を惜しんで恋愛小説を読むことで心を慰めていた。『夜薔薇』に出会ったのもこの頃だった。
相変わらず自由のない生活の中。
彼女がひとり見出した希望は、小説のように『夫となる人に愛される』こと、その一点だけになっていた。
婚約者との間に、甘い恋の訪れを期待しない女性などいない、幸せな愛を望まない者などいない、と。
「はい。お初にお目もじ致します、ジャノルド王太子殿下」
優雅に見えるよう、深く頭を下げた。少しでも美しく見えるように。
そうお辞儀をした途端。
ひどい目眩が起きてモニカはふらついた。
「おい」と大きな手が彼女の二の腕をしかと掴んだ。
昼も夜もない勉強、睡眠不足、さらに食欲不振で彼女はこのとき痩せ細っていた。何を食べても美味しいと感じない日々。
(! 無作法を……)
王太子妃に求められる素養とは誰に対しても『余裕』であることだ、と教師たちからキツく教えられていた。だから彼女は精一杯の微笑みを彼に向け、謝罪を口にしようとした。
しかし彼女の目に映ったのは、はっきりとした顰め面。ジャンは彼女に言った。
「君は痩せすぎで酷い顔だ。もう帰った方がいい」
では近々手紙を出す、と言ったきり彼はサッサと背を向けて歩き出した。そしてすぐ別の女性に話しかけられ、立ち止まった。横顔に優しげな笑顔を浮かべて。
――その瞬間、彼女が唯一縋っていた期待は、粉々になった。
(わたくしは、あの方の妻に……?)
宣言通り手紙は来た。本心なのか偽りなのか分からない定型文の手紙。『嘘文』ののような想いの溢れる恋文とは程遠いもの。
突っぱねれば手紙すら遠のき、婚約者なのだからと強引に顔を出すわけでもない。
モニカは、ジャンからはっきりとした結婚の打診がないのをいいことに父を半ば脅し、離れで好きなように暮らし始める。
妃教育も部屋に籠もって全て拒否した。
(どうせ結婚するのでしょう。本人たちの意志など関係なく。それなら今の内に好きなことをするわ!)
腰を細く見せるため、と禁じられていた菓子を好きなだけ食べた。はしたない、と取り上げられていた恋愛小説を日がな一日読み耽った。惰眠を貪って、夜の訪れと共に目覚めた。
そうしていつしか、彼女は甘い物しか食べられず、寝室から出ることもできなくなっていた。
◇ ◇ ◇
ぼふん! とモニカは自分のベッドに飛び込んだ。
うぅ、と清潔なシーツに顔を埋めて呻く。嗅ぎ慣れた香りに混じる、知らない匂い。
(まだアニーさまの匂いがする……あぁ恥ずかし過ぎる!)
先ほどの記憶を消し去ろうと、顔をシーツに擦りつける。
バカ笑いしてしまったことも、小説の台詞に興奮してしまったことも。よく考えれば、ホイホイと茶会に出向いたことも。
鼻先がヒリヒリしたところで、彼女はようやく鳥の巣のような頭を上げた。
(でも、今日も怒ってはいなかったわよね)
厳しい妃教育によって、無作法をすれば叱責と罰を受けていたモニカは、もう一度先ほどの記憶をまぶたでなぞった。
(あの方。一度もわたくしに声を荒げたこと、ないわ)
啖呵を切っても、パイを投げても。興奮して腕に掴みかかった彼女に対して、呆れたように目を細めたアニーの掠れた声が甦る。
(『離してくれ』なんて、まるで男性のような言葉遣い。確かにわたくし力いっぱい引っ張ったから……でも叱られなかった。一度もわたくしを否定しない)
アニーは怖くない、とモニカはどうしてか心が乱れた。
動揺から、抱えるのが習慣になっている本に触れる。明かりの消された部屋には窓越しに月の光がぼんやりと差している。
――いい夜だった。
彼女はそっと本の表紙の手触りを確かめながら呟いた。
「ダーニャ、わたくし……今日はたくさん笑ったのよ」
ダーニャは、モニカが猛烈に気持ちを寄せている、『夜明けの薔薇が開くとき』に登場する騎士のこと。この二年、彼女の心を慰めたのは彼たったひとりだ。
妃教育が始まってから友人とも疎遠で、本の感想を語り合う機会など皆無だった彼女にとって、昨晩のアニーの提案は魅力的だった。菓子の甘さ程、彼女の心を掻き立てた。思わず誘いに応じてしまうくらいには。
不意に、アニーが触れた手と髪の感触が甦って、夜に沈むベッドの上で彼女は赤面した。
(私ったら! 甘んじて撫でられてどうするのよ!)
肩に触れ、髪を撫でたアニーの手の温かさ。
まるで毛先からじわりと染み込むように感じたことを思い出す。知らず甘えた目を向けてしまったのにも。
(……誰かから髪を撫でてもらうなんて、久しぶりだったから。どうしたらいいか分からなかった)
細身で背が高くともしなやかな仕草、美しい月の光を宿すような色の薄い金髪、眼鏡で隠れていても分かる麗しい瞳。
苛立たしいほどに美しいアニー。完璧で、優しい女性。
(また、本当にすぐ手紙が来るのかしら……あぁわたくし、どうしたら)
そう黄銅色にけぶる眉を顰め、モニカは再びシーツに顔を埋めた。
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