14.『甘い言葉か抱擁か』もしくは『愛読書の確認は必須』

「これはモニカさま、ようこそいらっしゃいました」

「えぇ……お招きありがとうございます……アニーさま」

「さぁ、今日は気軽な会ですわ。どうぞ、ソファにお掛けになって下さい」


 どこに身を置いていいか分からない、と言うように視線を逸らしたモニカを、アニスは彼の部屋に招き入れた。



 モニカを書斎で見送ったあと――ドロシィが血相を変えて彼女を探しに来たので、結局彼は離れまで送らなかった――彼女の前で大笑いしてしまったことに、アニスは頭を抱えた。明らかに浮かない顔をしていた、失礼なことをしてしまった、と執務も手につかなくなっていた。

 今朝方、ドロシィからの書き付けが届くまでは。


 “モニカさまが夜通し、離れの書斎に籠もられていたようです。聞くところによればアニーさまに薦める本をご検討させていたとのこと”

 “お嬢さまはこれからお昼まで仮眠をとられます。略式のお茶会でよろしければ、夕方前には準備を整えられるように致します”


 アニスはすぐさま招待状をしたためた。場所は彼の滞在する客室、設定はごく私的なお茶会――つまり差出人はアニー=ヴィンセントだ。


「ピケ! これを今すぐ離れに!」

「かしこまりました!」


 慌ただしく招待状を離れに届けさせれば、ピケは返事を持ち帰ってきた。その表情は明るく、彼は期待に封を切った。


“眠くて気が乗りませんけど、伺いますわ”

“急なお話ですぐには思い浮かびませんが、何冊か見繕ってみます”


 アニスはその返答に笑いを堪え、同時に深く安堵の息を吐いたのだった。




 既に夕方近い時刻。アニスとモニカはローテーブルを挟んで、直角の位置――手を伸ばし合えば簡単に届く距離で腰掛けていた。ほどよく視線が合うよう、そして本の見せ合いがしやすいよう侍女たちが進言してのことだった。


(せっかく繋がった機会だ。無駄にはできない)


 素直にソファに腰掛けた彼女に、彼はごく自然に微笑みかけた。


「急なお誘いになってしまい申し訳ありませんでした、モニカさま」

「べっ、別に気にしないで頂戴。……ぐっすり眠って、丁度目が覚めたところだったから、暇潰しになるかと思っただけですわ」


 「それは良かった」と返しながら、アニスは彼女がお茶を飲むのを横目で眺めた。


(嘘つきめ。仮眠も僅かと聞いたぞ。クマができてるじゃないか)


 しかしそれが自分への選本でできたと思うと、彼は何かむずがゆい心地になり落ち着かない。

 しかもこれまでよりもかなり近い距離。下手を打てば装いの嘘がばれてしまうかも知れない可能性があると、彼は若干の緊張をお茶と一緒に飲み込んだ。

 そのせいか、何を話そうかと彼は珍しく逡巡していた。恋愛小説の話をする前に何か、と思うのだが一向に思い浮かばない。


(天気……いや今日は曇りで面白みが。今朝の食事……ダメだ彼女は食べてないかもしれない。では昨夜の……)


 と考えれば、モニカの薄い夜着姿を思い出し、ぐぬぅとおかしな呻きが漏れそうになる。これまで話の話題に困ることなどあっただろうか、いやない。

 じれったい沈黙に壁際の侍女たちが二杯目のお茶を準備し始めようとした頃、モニカが不自然に言い淀みつつ彼に話し掛けた。


「そっ、それでその……。えぇとそう! 貴方の請け負ってるっていう仕事は終わったのかしら」

「仕事ですか? いいえ残念ながら、また書類が送られて来ました。恐らく毎日増えるでしょうから、こちらでも執務を日課にしなければと思っております」


 それは全くの事実で、ヘレンゲル家の側近侍従は今日も彼に紙束を運んで来ていた。しかも「ロティアナさまに『素性がバレては困るから、次回からは王宮外務を偽った手紙を使いなさい』と、知恵をいただいたので、明日からはそうしますね!」と、非常にいい笑顔で去って行ったのには、彼も膝を崩しそうになった。


「そう……あれだけやってもまだ終わらないだなんて。意外に忙しいのね、官吏って」

「ま、まぁ今は忙しい時期なのです」


 モニカは何か深く納得したような表情で、ひとり肯いた。「確かに『嘘文』も仕事が終わらない場面があったわね」「でもそれが二人の距離を縮めるきっかけにブツブツ……」唇から心の声がはみ出ていることには気づいていない。

 アニスとしては偽りの身分――外務勤務について詳しく問われることは避けたいので彼女の独り言を受け流す。そしてようやく思いついた台詞を口にした。


「モニカさまはどのような菓子がお好きですか」


 しかしその瞬間、自分の過ちに気づいた。


(ちょっと待て僕! それは晩餐の献立作りで知ってるじゃないか。クロテッドクリームだろう!)


「……クロテッドクリームとジャムを乗せたスコーンですわ。ですがアニーさまはギィトとお話なさって、わたくしの食の好みなどご存じなのでしょう? 今のは少々、悪趣味では?」


(それ見ろ!)


 あぁぁぁ、と彼は狼狽えて視線を彷徨わせた。しかし待てよ、と何か引っ掛かりを覚える。


(この話の流れ、どこかで……『今のは少々、悪趣味では?』……これは)


嘘つき文官の恋文嘘文』の台詞だ! と、アニスは内心で刮目した。ごくり、と唾を飲み込む。


「……『貴方の口から聞きたかったのですよ』、モニカさま」

「! そ、それなら許して、差し上げますわっ」


 カッと赤らめた頬を手で包みながらあからさまに顔を背けたモニカに、アニスも首から顔から赤くなっていく自覚に目を伏せた。


(何だこれは。ただ台詞をなぞっただけなのに、ひどく恥ずかしい……だが)


 モニカの頬は緩み、スカートが小刻みに揺れているところを察するに――今日はローテーブルだから丸見えだ――足をばたつかせているようだった。


(かなり喜んでいる)


 彼は目を瞬かせた。よしそれなら。


「『僕は今日、貴方に会えただけで……とても嬉しい』」


 不自然でないくらい、声を低めて。彼女にだけ聞こえるよう、小説の中の恋する男がそうだったように囁いた。

 目を見開き押さえた頬をそのままに、モニカははくはくと荒い呼吸を繰り返した。

 今の台詞も効いたらしい。

 現実離れした歯の浮くような会話を女性は本当に好むのだな、と彼はその様子を眺めた。羞恥もあったが興味深さが勝り、色々試してみたい気持ちになる。


「『貴方と飲むお茶は美味しい』」

「!?」


 モニカは勢いよくアニスの方に顔を向けた。そのヘーゼルが彼を確かに移している。しかし声はなく、彼の次の台詞を待っていた。固唾を飲んで。

 アニスは昨夜眠れぬままに読み切った『夜明けの薔薇が開くとき』の記憶をたどる。


「『貴方とのお茶は甘い。舌が溶けてしまいそうだ』」

「! アニーさま、『夜薔薇』をお読みになったのですか!」


 ガッシィ!! とモニカの手が彼の腕を掴んだ。ソファから身を乗り出して、彼を引っ張る。同じくソファに腰掛けていた彼は容易くバランスを崩して彼女に顔を寄せる形になる。


「なっ」


 ふわ、と彼女の柔らかな温もりに触れた場所から、痛みに似た感覚が走った。アニスは知らず腰から背を震わせた。近距離で凝視する瞳の圧力に、「え、えぇ」と辛うじて返す。


(ち、近すぎる)


 引け腰の彼に気づかず、彼女は彼の腕を掴んだまま頬を紅潮させ、瞳すら潤ませていた。腕は完全に抱え込まれている。熱っぽく見つめられた彼は戸惑うものの、視線を逸らせない。


「モニカ、さま、離れ」

「あ、あのっ、アニーさまは無口なラングがお好みなのですか? ハッ、それとも筋肉がお好み!? あのあの、騎士のダーニャについてどう思われますか。あぁでもラングがお好きなら結末は悲恋ですもの何てこと!」

「あぁでも多くの男性の中からダーニャを選んだ主人公が彼と愛を確かめ合う場面はどう思われますか? 粗野でただ強引だった彼があのように女性を気遣うようになる薔薇園でもシーンは!」

「あぁぁでもでも今の台詞を実際に耳にするとラングにぐらついてしまう気持ちも分かりますわいいえそれでもずっとわたくしはダーニャ一筋でしたから裏切ることは」


 モニカが興奮して言い募る間にも、アニスは彼女の髪の香りに目を回しかけた。彼は熱で霞み始めた視界に酔い、力加減できず自分の腕を取り戻そうとした。


「離してくれ!」


 切羽詰まった大声に、モニカはパッと彼の腕を手放した。


「ご、ごめんなさい!」


 しん、と気まずさが二人の間に寝そべった。

 侍女たちが取り成すようにカチャカチャと音を立ててお茶の準備をし始める。

 アニスはそれに少しく冷静になりながらも「いいえ」と彼女の反対の方に顔を背けた。まだ柔らかさを残す腕を忙しなくさする。

 モニカはその貞淑に隠された首が真っ赤に染まっているのに気づき、自分が我を忘れたことに気づいた。


「アニーさま、申し訳ありません。わたくし、その……少しばかり、あの」


(少しどころじゃないだろう。いや僕も煽りすぎたか)


 どうやらモニカ嬢には甘い台詞の引用がかなり有効、と身を以て理解した。ちらり、と目をくれると肩を落とした彼女が目に入る。モジモジと羽織の端を触って顔を俯けている。視界の隅ではピケとドロシィがこちらを凝視している様子も。


(ここで彼女に気分を害されては……せっかく皆で用意した茶会が)


 侍女たちも心配でならないのだろうと、彼は呼吸を整えた。


(僕は女性、ロティアナ姉さんを思い出せ)


「失礼致しました、少々驚いてしまって。モニカさま、申し訳ありません」


 アニスは自ら彼女に手を伸ばした。その沈んだ肩に触れ、軽やかな巻き毛を優しく払う。モニカがおずっと目を上げた。その悪いと思ってるもののどこか恨めしげに見えるヘーゼルに、彼は何故かホッとした。


「モニカさまはダーニャがお好きなのですね。わたくし、この方と決めて読んではおりませんでしたが……仰る通りラングが最も好ましいかもしれません」

「そ、そう?」

「薔薇園のシーンは幻想的で美しかったですわね。あんなに強引で我が儘に見えたダーニャが、手を繋ぐだけで赤面する一文には……」


「そう! そうなのですアニーさま!」


 モニカは再び気持ちが高ぶり、勢いよく立ち上がった。そしてアニスの美しい形で膝に置かれた手をガッシィ! と取る。


「そこで主人公と共にわたくしたち読者も『このまま腕の中に』と殊勝なダーニャにほだされてしまうのです! 二人の気持ちが重なる、最高の場面!」


 テーブルがガチャン! と揺れて音を立てた。刹那、角に太腿を打ち付け、モニカは「きゃぁっ」と彼の方に倒れた。

「危なっ」とアニスが彼女を受け止める。痛い、と呻く彼女をぐいっと引き寄せた。お茶がこぼれテーブルにこぼれ掛かっていた。

 彼女に熱いお茶がかかっていないかを素速く確かめ、彼はハァと息を吐いた。


(危なっかしい)


 そして彼女を正しく抱擁していることに気づき――そのまま硬直した。黄銅色の髪が乱れ、真白な項を晒していた。骨などないのではと疑う程、綿菓子のような感触が彼をべったりと甘くくっついて。咄嗟に強く抱きしめた両手が、まるで錆び付いたように動かない。手のひら全体で感じるドレス越しの温く柔らかい彼女。


「いたた……あ、ちょ、アニーさま離し、く苦しい!」


 くぐもった非難の声に僅か、力を緩めた。そして「アニーさま」と、咎めるようなピケの声に手をパッと離した。途端、自分が存外に汗をかいていたことを知る。

 モニカはまだ彼に縋りつき、膝立ちのままで深く息をしている。「あぁ驚いた」と呟いて、彼を見上げた。リスのような瞳が真っ直ぐに彼を映す。


「な、何ですの、アニーさま。そんなに驚かれて……ふふふ、眼鏡がずれてますわよ」

「え、あっ。あぁ失礼」

「そんなに慌てなくても……ふふ、ふふふふっ」

「モニカさま?」

「変ね……なん、だか。貴方の顔、ふふっ。可笑しいわっあはは!」


 いつかのアニスのように、モニカは目尻に涙を溜めて笑った。あはは、と彼の膝の上で彼女は何度も「可笑しい」「変なの」と、笑った。

 膝をしたたかに叩くので、彼は彼女の丸っこい拳を包み込んでやらねばならなかった。


 ――モニカはしばらく笑い転げた。それはもう、何年分か分からぬ程だった。

 ソファに座り直した彼女の表情は明るかったが、アニスは目敏く、くたびれたような仕草を見て取り「すぐまたお誘いします」と、茶会を閉じた。


「『また手紙を書きます』、わ」

「『勘違いなさらないで。貴方と会うのは暇潰しですから』」


 退室する彼女の瞳には、一筋の翳りもなかった。

 ただ虹色の光彩の輝きがきらり、と彼に届いた。



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恋愛小説メモ

『嘘文』より引用

『僕は今日、貴方に会えただけで……とても嬉しい』

終盤、主人公の想い人(両片想い)が決死の覚悟で言った台詞。

「言ったアァァァ!」と、読者の全ホセ女子が叫んだシーン。


『夜薔薇』より引用

『貴方と飲むお茶は美味しい』『貴方とのお茶は甘い。舌が溶けてしまいそうだ』

主人公が、偶然にも街で居合わせたラングと喫茶に入ったときの台詞。

このときすでにラングは堕ちているが、本人も主人公は気づいていない、ラング派が血反吐を吐いたシーン。

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