13.『大切なものは大切に』

(書斎というよりは図書室だ)


 アニスは棚に仕舞われた貴重な蔵書や立派な書見台を見回し、感嘆の息を吐いた。

 日当たりの良さそうな書斎部屋の仕切られた奥には、所狭しと陳列された本棚――収められた本は一目で整理されていると分かる――が並べられていた。


(見ているだけで一日過ごせそうだ)


 ホセ国の古語で書かれた歴史書や希少そうな図鑑があると思えば、最近の大陸諸国の経済書や小説も置かれている。明らかにモニカの趣味であろう恋愛小説が新しい棚を占領していた。

 読んだことのない題の多さに興味を引かれ、何冊か手に取ろうと背表紙をなぞる。


(ん? 何故、これだけ二冊も)


「『夜明けの薔薇が開くとき』……。誤って購入してしまったのか?」


 一冊は読み込まれた風情、もう一冊は新品のようだった。


(『嘘つき文官』よりも装丁の角が丸い。お気に入りか?)


 そう判断し、彼は古びた方をぱらりと開いてから小脇に抱えた。さして長い話ではないようだから明日にでも、と他の本も選んで書庫を出た。

 重厚で使い込まれた執務机。そしてそこに納められた革張りの執務椅子に深く腰掛けると、一瞬懐かしい心地になった。以前は日がな一日書類と睨めっこしていたのにな、と滑らかに磨かれた飾り掘られた肘掛けを撫でる。


(昼間ならば日当たりも良さそうで、なかなかいい部屋だ。侯爵の執務室も兼ねていたのかもな。ありがたく使わせてもらおう)


 するとまもなく、列をなした侍従たちが彼の前に山を築いていった。その書類の山は、三つ。しかし客室のローテーブルに比べれば机の高さは丁度よく、椅子の座り心地も抜群。

 新しい居場所を得たからだろうか、彼の鬱々としていた気持ちは軽くなっていた。使いづらい部屋で無為に過ごす他にも選択肢ができたのだと、純粋な喜びが生まれていた。


(閉じこもりきりはやはり良くない。ここなら仕事もいい気分転換になりそうだ)

 

 扉が閉じられているのを確認し、アニスは耳に重い眼鏡を外し満足気に口の端を上げた。次いで緩く結われた髪を手櫛で梳かし、解けたリボンで一つに結い直す。

 そして「これでコルセットがなければな」と、ひとり苦笑しながらペンを取り、猛然と書類に向かったのだった。


  


 途中、夕食を挟んでアニスは仕事を再開した。山は一つ片付き、二つ目を切り崩そうと言うとき。彼は、前触れなく扉が開いた音に手を止めた。

 ピケが何か置き忘れたかと、急いで署名を終える。ノックもなしとは珍しい「誰です?」と、顔を上げたが。

 動きを止めた。

 相手もこちらに気づいていた。半開きの扉に縋りつくようにして燭台の火にそのヘーゼル色を揺らしている。


「ぁ、アニー=ヴィンセント……?」

「モニカ、さま」


 二人はしばし、驚きを瞳に宿したまま見つめ合った。邸内で偶然に出会うなどと考えてもみなかった。

 咄嗟に声が出ず、アニスはただペンを握りしめた。幻のように影を揺らすモニカは、下手に動くと逃げてしまう妖精のようだった。

 

 ――先に動いたのはモニカだった。夜着に厚手の羽織ストールを引っ掛け、片手に本を持った彼女はゆっくりと部屋に入った。「どうして貴方がここに?」と、扉を半開きにしたまま中へ進む。彼女の灯に照らされた巻き毛が、歩く程に肩から落ちるのをアニスは見た。

 そこでようやく彼は我に返り、慌てて立ち上がった。


「驚きましたモニカさま。まさか、お目にかかれるとは。まさかおひとりですか? そのようなお姿で?」

「……えぇ、わたくしの家ですもの。誰にも文句は言わせませんわ」


(いやその格好は、無防備過ぎるだろう!)


 真新しいと分かる白い夜着はひらと軽やかに翻り、秋の夜を歩くような代物ではなかった。片方の肩口は羽織がずれ、彼女の薄着の胸元が露わになりかけている。引っ張れば切れてしまいそうな紐が緩んでいるそこから彼はサッと目を逸らし、晒していたと気づいた瞳に野暮な眼鏡を宛がった。


「いくらご自分の邸でもそのような薄着ではいけません。お風邪を召しますわ」

「……まるで母上のような言い草ね、やめて頂戴。ところで貴方、何故ここにいるの?」


 モニカは明らかにむっとしてさらに彼に近づいて来る。

 この分からずや! と言いたいのをアニスは無理矢理に飲み込んだ。偽りの身分は彼の方が下。しかも今はそれどころではないと気づいた。


(ヘレンゲル家の書類が見られるのはまずい!)


 座りっぱなしだった彼は机の前に立ちはだかり「これはご無礼を」と、お辞儀をした。下げた頭の先で、パタと布靴の音が止まる。


「実は先ほど、ラベリ侯爵さまより使用許可をいただいたばかりでした。モニカさまには明日お耳に入れようかと思っておりましたこと、お許し下さい」

「……そう。父上が許したならばわたくしが異を唱えることではありません。お気になさらずどうぞお使いになって。でも……その紙の山は一体何ですの?」


 そう険を瞳に宿しながら、彼女はアニスの背後を睨めつけた。


(まずい)


 彼はサ、と当たり障りのない陳述書を手に取って、わざと彼女の前に示した。まだ署名をしていないものだ。

 モニカはアニスが腕を伸ばせば届く距離。怪訝な目が細かな字を捉えようと動くのを少しだけ見守った。


「……実は他言はしないでいただきたいのですが、わたくしここに滞在する間は、侯爵三家に上申する陳述書の整理を請け負っていますの。ここにありますのはヘレンゲル家のものばかりですから、詳細はお知らせできません」

「陳述書?」


 モニカはポカン、と口を開けた。

 アニスは場違いにも、そのアクの抜けた素直な反応に噴き出しそうになった。同時に晩餐で見た明るい表情の彼女を思い出す。


「アニー……さまは、文官のようなお仕事もしてますの……外務にお勤めだったかしら」

「えぇ、この度はアナベル王太子妃殿下よりこちらに遣わされましたが、元はこのような仕事ばかりしておりました。……今は少々忙しい時期ですの。お借りしているお部屋では勝手が悪く、こちらで」


 彼女は納得したような気を落としたような顔で「そうですの」と眉を寄せた。彼は内心安堵し、書類を素速く元に戻す。


(助かった、追及はないようだ)


 言われた通り近づかないものの、何故か所在なげに佇むモニカにアニスは平常心を取り戻した。彼女の様子を観察する余裕が生まれた。

 すると再び彼女の薄着姿が気になって仕方なくなる。


(ドロシィは何をしてるんだ。彼女は貧血だぞ、体を冷やしては……)


 侍医の言葉を思い出したアニスは大股で彼女に近づくと、肩から落ちそうな羽織を掛け直した。留め具がついていたのでしっかりと留める。


「本を取りに来られたのでしょうか。もう夜も深くなる時分です、程ほどになさいませ。戻られるときには侍女をお呼びしましょう」


 改めて見下ろすと、やはり心許ない薄い生地にため息が出た。風邪を引かせる訳にはいかない。姉たちはいつも「昼はお洒落のために薄着でも、夜は冷やしてはダメ」と、厚着をしていたのを思い出す。

 そ、と彼女の白く柔らかな手に触れ、羽織の端を持たせた。上半身は念入りな仕事によって完全に覆われている。

 「これで良し」と目を細め、彼はおもむろに視線を持ち上げた。


 不意に、アニスの鼓動は跳ねた。


(なっ、近い!)


 リスのようなつぶらな瞳が文字通り目の前にあった。ぱちっと至近距離で再び合わさった目。彼は自分の影がヘーゼルの水面に映っているのを見た。

 数瞬――二人同時に「わ!」と離れた。

 モニカは本を落としそうになり、ぎゅうとそれを抱え込む。


「な、なんですの。わたくし子どもじゃありませんから、お節介は結構よ」

「いえ、その。えぇと、そうですわね。その、モニカさまは年下ですので……そう、妹のように感じてしまって! 夜は冷やしてはダメと言いますし!」

「ふ、フン! わ、わたくし書庫へ参りますから。アニーさまはどうぞお仕事なさって」


 たたっと急ぎ足の音を鳴らし、モニカは奥の部屋へ入っていった。

 部屋は暗いがひとりで平気なのだろうかいやでもまだ鼓動がおかしいと、追いかけるのを逡巡していると、棚の奥からかすかに灯の気配。

 どうやら彼女に心配はいらないようだ。

 アニスは詰め物を押さえた。


(だがどうしてこんなに脈が……何に驚いたんだ)


 髪と同じく黄銅色の睫毛が瞳を縁取っていた。光彩は一色ではなく、まるで緻密にカットされた宝石のようだった。相変わらず顔色は良くないらしいが、侍女の手が入っているのか生来のものかきめの細かい白い肌。

 アニスは、まだモニカが目の前にいるような錯覚を覚え、何度も目を瞬かせた。


(おかしい、目に焼き付いたみたいだ……もしかして疲れ目か?)


 ドッと疲れが湧き、アニスは立ったまま机に寄り掛かった。いささか男性らしい仕草かと思ったが、見られなければいいと開き直る。


「今夜は休もう。そうだ、僕が彼女を離れまで送ればいいか……敷地内と言っても不埒なヤツが出ないとも限らない」


 彼はそう肯いて書庫へ向かった。


     ◇ 


「ないっ。ないわ!? どうして? ドロシィはここに片付けたって……」


 モニカは手持ちの燭台で火をかざし、棚にあるはずの本を探していた。寝室に置いていたはずの『夜明けの薔薇が開くとき夜薔薇』が勝手に片付けられていたことに気付き、こっそり抜け出してきたのだ。

 今日もスープを半分も食べられず、侍女たちに会うのも気まずくていたからだ。


(あぁわたくしのダーニャ、どこなの? どうしよう、ドロシィを呼ぶ?)


 いくら棚を上から下まで眺めても見つからない。あまりに腕を動かしたので、先程アニーが整えた羽織がまた崩れ始めていた。情緒の安定をかき、ブツブツと声が漏れる。


「あ、もしかして歴史の方に行ったのかしら。そうよ、きっともう一冊を戻すときに……」

「……モニカさま?」

「ひゃぁ!」


 突然、棚の影から誰か――アニーが姿を現わし、モニカは跳び上がった。

 「な、何よ! いきなり出て来ないで!」と、抗議しながら体勢を整えたが、羽織は遂にズレ上がりまたしても胸元が露出してしまった。

 アニーが素速く片手で目を覆い、その影からギロッと彼女を睨む。


「モニカさま……」

「煩いわね! 今、忙しいの」

「ダメです」


 アニーは強い口調でモニカに近づき、ずり上がった羽織を直した。留め具を一度外し、緩く彼女の肩を巻いていたそれをキツく留めようと試行錯誤している。

 アニーの有無を言わさぬ迫力に、ぶくっと頬を膨らませたモニカは大人しくされるがまま、目の前の細い顎や形のいい唇がへの字になっているのを眺めた。


(この人、怒ることもあるのね。いつも薄ら笑いを浮かべて気味悪いと思ってたけど!……あら? 意外に首がしっかりしてる、背が高いからかしら? まぁジャノルド殿下よりは低いけれど、女性にしてはやっぱり高いわね)


 そう思ってしまうと、飾り気なく一つに結んだ髪がまるで小説に出てくる男性のようだわ、と妄想が重なる。少ない挿絵で描かれている魅力的な登場人物たちは、皆一様にスラリと線が細く、背が高い。もちろん体格が良く力の強い筋肉男性との強引な恋(物理)も読んでいて楽しいが、彼女の好みは前者だ。線の細い美形。賢さがあると尚好い。

 そっと視線だけを上げ、モニカはアニーをうかがった。


(ダーニャもこんな風に髪を結んでいたのかしら)


 書斎で近づいたとき、眼鏡の奥に隠された瞳――色素の薄い睫毛が影を落とすその目は涼しげな切れ長で麗しい――に何故かドキリとした記憶が妄想に拍車を掛け、彼女はじわりと頬を火照らせた。


 しかし「さぁできました」と解放されると同時、モニカはハッとした。


(そうよ、わたくしのダーニャを探しに来たのよ!)


 モニカは勢いよく方向を変えて捜索を再開しようとしたが、アニーにぐいと肩を掴まれてそれは叶わなかった。「離して」と彼女は咄嗟に反抗してしまう。

 アニーは困ったように眉を下げた。


「モニカさま、何の本をお探しですか。わたくしもお手伝い致します。これ以上、火の気のない場所にいては、ほら、体が冷えて」

「……貴方には縁のない本だから、構わないで!」


(どうせこの人も頭が固いに決まってる! 下賤でふしだらな小説なんて読んじゃいけないって言うに決まってるもの!)


 ――以前の王太子妃教育はモニカの好きなことを全て禁じた。菓子も、恋愛小説も何もかも。彼女はアニーも同じだと信じて疑わない。


(親切なフリしても絶対、嘘。食事を摂れないのだって、ホントは呆れてる! 心の中ではわたくしをバカにしてるわ!)


 だから次の瞬間、彼女は息を止めた。


「お探しなのは恋愛小説でしょう? あ、もしかして『夜明けの薔薇が開くとき』でしょうか。わたくしも読もうかと拝借しておりました」

「…………は?」

「二冊ありましたので、よろしいかと思いましてあちらの部屋に……新しい方をお借りすべきでした?」

「! それは保存用だからダメえぇぇぇ……!」


 「保存、用?」と見開いたアニーに、モニカはさらに大きく丸くした目を向けた。書庫内はひどく寒いのに、彼女の背中に汗が伝う。


(し、しまった……思わず本音が)


 しぃんと静まりかえった空気に汗が冷えた瞬間。


「ふ……あっはっはは……!」

「え、あ?」

「はは……あ、いえ……その、ふふっあははは!」


 アニーは腹を抱えて笑っていた。モニカの持つ灯が放つ橙色の光が、アニーの目尻にたまる涙を知らせた。 

 モニカはポカンとしたあと、訳が分からず憤慨した。「ひどい! 笑うなんて!」と肩を怒らせたが、それで彼女を視界に入れたアニーが再び噴き出すのを見、大いに赤面した。


「もうしわ……あはは……ふふ、ございません……ふぅふふふ」

「もう! わたくし離れに帰ります!」


 モニカももはや涙目だった。自分が何に頭にきてるのか悲しくなっているのか分からず、混乱する。とても苦しくて、背を向け逃げようとした。

 しかし「お待ち下さいモニカさま」とまだ引き攣り気味の声がかかり、彼女は思わず足を止めた。

 アニーの笑い声は自分をバカにしているようには聞こえなかったからだった。


「わたくし、この本をお借りしてもよろしいですか? モニカさまがそれ程までに大事になさっているお話、とても興味がありますから」


(嘘よ)


「それに、わたくしここにある何冊かは既読ですの。そう、『嘘つき文官』は好みでしたわ。素直になれない女性が可愛らしくて」


(嘘だわ)


 わたくしも、と思いかけた言葉は飲み込んだ。得意のだまし討ちかもしれない。信じてはいけない、とモニカは羽織の端を握った。


「恋愛小説は最近読み始めましたばかりですから、モニカさまのお薦めがあれば教えて下さいませ。そうですわ、次のお茶会で好みの本を持ち合うのはどうでしょう。話が弾みそうですわ」


 晩餐のことがぎった。不思議と弾んだ会話、美味しかった料理。


「わたくし、間違っても貴方さまのお好きなお話をバカにしたりなど致しませんわ」


(……うそ、よ)


 モニカはゆっくりと振り返った。

 灯が静かに暗がりに立つアニーの髪を、頬を、唇を明るくした。まるで月が雲間から姿を現わすように。


 ――あぁ、と目を伏せた。

 アニーは微笑んでいなかった。決して完璧な淑女の表情ではなかった。


 眉は下がって、およそ笑っているとは言い難い口元。

 眼鏡越しの瞳はしかし、柔らかく静かに彼女に笑いかけていた。




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恋愛小説メモ

夜明けの薔薇が開くとき夜薔薇

よりどりみどりの男性たちから求婚される令嬢の恋のお話。

巷で人気なのは、細筋肉強引(ダーニャ)と超筋肉無口の二人。

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発売後は庭に薔薇を植える家が急増し社会現象にもなった。

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