12.微笑みは、笑顔ではない


「モニカさまは栄養不良でございます」


 ラベリ侯爵家の侍医は「もう何年もモニカを診察したことはなかった」とアニスに戸惑いを見せた。


「偏食による貧血もあるようです。一日に一度、大量の菓子の摂取を続けられたために、体が栄養を蓄えようとしてふくよかになられたようです。もちろん運動不足も要因でしょうが」

「しかし菓子以外の食事が辛いようなのです。ご本人に改善の意志はあるようですが」


 アニスの侍医は「根本的なお心の癒しが必要でしょう」と痛ましげに目を伏せた。


(癒し……)


 彼は侍医の話に聞き入った。


「お子さまの頃のモニカさまは活発で天真爛漫な方で、例え風邪を召されても治りきらないうちに遊びに飛び出してしまう溌剌さがございました。お出しした薬も『苦いから嫌』とハハハ……逃げ出されたこともありましたね。良くなられれば、私に笑ってお花を下さるような優しさもおありで。成人される前は持病もなくお元気でしたのに、あのような。痛ましいことです」


 アニスの目がかすかに歪んだ。しかしそれは眼鏡のレンズ越しには分からないくらいの変化。


「何か、モニカさまからお言葉がありませんでしたか。わたくしたちには本心を語ってはくれないのです……どのようにすれば」

「ご自分がお食事を摂れないことについて気にされておいででした。『味がしないのは舌がおかしいからなの?』と。私からは、消化にいいものを無理せず、としかお話しできませんでした。恐らく、そうなった原因があるはずです。ですが、どうか食事をすること自体を苦しみに思わぬように。お心を傷つけるような出来事をお忘れになるまでご無理を掛けないよう」


 アニスは有効な手立てを得られず、「ありがとうございます医師」とただ感謝を述べた。そして初老の侍医に、侯爵夫妻にも診察について口外せぬよう言い含める。

 侍医は気落ちした様子ながら、アニスをモニカの世話役と認識したのかあれこれ話をして応接室を出て行った。


(成果なしか……しかし体も弱っているとは。ギィトと話をせねば)


 アニスは控えの侍女にお茶を頼み、ソファの肘掛けに頬杖をついた。窓の外はあいにくの曇り空で、強い風が枝葉の赤く染まった葉を揺らしていた。


(食事が苦しみに。そうならないよう気をつけてはいるつもりだが。……秋も深まって来たか)


 既に侯爵夫妻との晩餐は三週間後に迫っていた。


「根本的な癒し、か」


 アニスはお茶が入ったと声を掛けられても、しばらく外を眺めていた。




「アニスさま。あまりご無理なさらず、もうお休みになってください」


 ピケが燭台に火を灯しながら、おずおずと彼に声を掛けた。

 「あぁ、ありがとう」と応接用のローテーブルに目を落としたまま、彼は礼を言う。

 

 ――侍医が帰ったあと、ヘレンゲル家実家から彼の側近が面会に来た。彼は泣き出さんばかりにアニスとの再会を果たし、こう言った。


「アニスさまの長期のご不在は、例え王命であってもヘレンゲル家の領地経営において障害でしかございません! 今すぐ帰ってこられないならこちらで仕事をお願い致します!」

「おい、声が大きいぞ」

「これが叫ばないでいられますか! 全然仕事になりません、早く帰って来て下さいよアニスさまぁ!」


 そして、大量の書類が担ぎ込まれた。領地の夏の決算、来春までに稟議を検討する陳述書など――実に優美な細工のテーブルには今、山が築かれている。

 しかしアニスは、女装した状態の執務に早々と呻き声を上げた。苛々とペンを放る。


「苦しい……書きづらい!」


 この部屋には広い文机や執務机がなく、お茶を飲むローテーブルで作業を行う他ない。コルセットに締め上げられ、前屈みの執務環境は最悪だ。

 彼は思わずハァ、と強くため息を吐いた。立ち上がり、窮屈な肩口を慎重に解す。


(もう夜か)


 気づけば夕食どきなのだろう、気分を変えようと立ち上がれば、細く頼りない月影が浮かんでいた。彼の豊かな睫毛が琥珀の海に影を落とし、緩く結わえて上げた金髪がささやかに光を返す。

 黒の湿り気が沈むような夜の中に黄銅色の星を見つけ、知らず、モニカの姿が彼のまぶたに浮かんだ。

 侍医の話を聞いてからアニスは自分の沈む気持ちを自覚していた。例え書類を読んでいても、胸に鋭いつかえができたようだった。


(僕のしていることは、彼女を傷つけるだけなのではないか)


 幼少期や成人前の彼女はどんなに元気だったか、とギィトや侍医から聞けば聞く程、自分の身の置き所がなくなるような感慨が湧いた。

『良くなられれば、私に笑ってお花を下さるような優しさもおありで』と、聞いたとき彼は初めて気づいた。


(モニカ嬢の笑った顔を見たことがない)


 社交的な微笑みではない、笑顔。怒り、苛立ち、困惑、驚き――彼は自分が彼女に負の感情しか与えていないことを、知った。

 罪悪感なのか後悔なのか、彼の胸に何かが爪を立てたときだった。

 小さくピケらしいノックが聞こえ、彼は振り向いた。書類に集中する内に出て行き、戻ったのだろうと入室を促す。


「夕食か」

「いえ。大変差し出がましいと存じますが、書斎部屋のご用意をして参りました。旦那さまの許可もいただいております。すぐにでもお使いいただけます」

「それは……助かる」


 「ではご案内致します」とピケが言えば、廊下から侍従たちが入室し、手分けして書類を運びだそうとし始めた。

 アニスは慌てて決して見ないように、と厳命し、ピケの心遣いに心から感謝を述べた。


「侍女が優秀で助かる。正直、やりづらさに辟易していた」

「いえ、当然の務めです」


 ピケはそっけなく一礼し、先を急ぐ様子で邸の奥へと彼を案内した。

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