閑話 前線は死守

 薄紫色の首元をレースで隠した貞淑なネグリジェに身を包み、アニスはカウチに腰掛けた。煩わしい鬘を脱ぎ、白銀の髪をさらりと背に下ろして。

 灯を絞った室内は黒と橙色のまだらで、彼の姿は幻想的な美しさを放ってまるで絵に描いたようだ。彼の生来の麗しい造形と男性ながら女性の格好をしている危うさが、露出した琥珀の瞳や赤い唇からとめどなく漂う。

 ピケは今夜のネグリジェも殿堂入りだわ、と内心で万感の拍手を自分とアニスに送りながら、定時報告を受ける彼と同僚のドロシィの背中を眺めていた。


「今日はスープを三口みくちだけ、お召し上がりになりました。かなり……お辛そうなご様子でした」

「そうか」


 モニカの生活改善が始まって四日。

 初日こそスープを一皿食べたものの、日に日に摂取量は目減りしていく。

 『すぐ食べられるようになるだろう』と安易に期待していた使用人たちも、今日の成果には落胆していた。


「ですが今日はそのまま本を探したいと仰って、離れの書斎で半日過ごされました」

「それは良かった。寝室で食事をさせないのはいい提案だった」


 ドロシィは、「はい本当に」と安堵の息を吐いた。

 ピケは二人の会話に同意しながら、離れの侍女たちの心情を思う。


(幼少の頃から慕った主人が部屋から出て来ず、日に日に様子を変えていくのを見ていることしかできないなんて……本当に苦しかったでしょうね。特にドロシィは年が近かったから殊更)


 「明日は医師から話を聞く」と話すアニスたちを余所に、彼女は晩餐のあとを思い出し頬を緩ませた。

 アニスの退室した食堂は大騒ぎになり、最後は家令と侍女頭が声を張り上げて皆を解散させた。

 ここ二年ごく限られた者とした接していなかったモニカは、その状況にひどく疲れた様子ではあったが、我慢を重ね続けた侍女たちはここぞとばかりに「お願いですからお部屋を掃除させて下さいませ!」と彼女に懇願した。

 使用人に囲まれ、涙ながらに部屋を清潔にすることの正義――ベッドで菓子を食べるなど悪魔のすることだ、日がな一日カーテンを開けないなんて地獄に落ちるべき悪事だ、と説かれたモニカは遂に根負けし、物を食べるときは隣室――居間に出てくる約束をしたのだった。


 それをアニスに報告したとき、『「分かったわよ! 出るわよ出ればいいんでしょ!」か……真っ赤になって叫んだ彼女の顔は見物だっただろうな』と呟いたアニスの表情が尊くて、ピケは目が潰れるかと思った。どんな顔して言ってるか分かってる!? と叫び出しそうになったが不敬を働いてこの使命を逃しては末代までの恥、と必死で飲み込んだ。

 このことは墓まで持っていこう、と何度か反芻しては「むふっ」などと声が漏れて他の使用人たちに変な顔をされてしまうのだが。出に腹は代えられない。


「……長期戦は承知の上だ、くれぐれも無理はさせないでくれ」

「かしこまりました。アニスさま、離れの使用人は旦那さまが何と仰ろうと、貴方さまのご指示に従う覚悟でございます。わたくしたちはお嬢さまにお元気になっていただきたいのですから」


(お嬢さまはきっとよくなるわ。アニスさまはお優しいから、きっと)


 ピケはずっと話を聞いていた体で深く肯いた。折良く、アニスから「ピケ」と声が掛かる。


「最近、僕の身辺に人が増えて動きづらい。どういう訳なんだ?」

「アニスさまのお姿を一日に一目でも、と思う者が増えております。この客室内は死守致しますので、多少はお目こぼしを」

「一日に、一目……? なんだそれは」


(その眉をひそめるの、色気……色気がアニスさま……!)


「致し方ございません。先日の晩餐で、アニスさまを慕う者が増えた結果でございます。一度でもお世話をしたい、とお茶の支度や食事の運搬、お召し物の洗濯に至るまで苛烈な勝負事に発展しております」

「……これまで旦那さまも奥さまもご不在で、お嬢さまもほとんどお世話を必要とされなかったので……」


 ドロシィがおずおずと加勢する。


「我々は今、仕える喜びを噛みしめている状況です。落ち着くまではお許し下さいませ……アニスさまの装いの秘密についてはわたくしの命に替えてもお守り致しますので、ご安心下さい」

「命? そんな大げさな。ピケの働きには今のままでも感謝しているよ、助かっている」


(はあぁぁ……! 出そう)


 僅かに口の端を上げるだけの軽薄な微笑み――それは明らかに素の笑みだとピケは気づいていた――にピケはカッ! と自らの活発な血の巡りを自覚した。しかし彼女は「もったいないお言葉です」と僅かだけ顔を伏せて礼を返す。下を向いては危険だった。


 ――あの泣き落とし作戦を経て、使用人によるアニスの評判は最高潮だ。

 遂に母屋で『婚約者VS愛人』の修羅場が繰り広げられることを期待した者もいたようだが、大半の者は晩餐の開催自体に懐疑的だったという。料理人はともかく、アニスを見たこともない――彼はできるだけ露出しないよう気をつけて生活している――者たちは『なんでわざわざ晩餐なんて。ただのお食事でいいだろう』と彼に対して不信を深めていた。

 しかし今となっては「アニスさま女神過ぎる……」「あのお嬢さまに笑顔の対応すごい」「お美しい、着替えのお世話したい」「御髪を触りたい」「お俺、寝酒お勧めしに行きたい」と大人気なのだ。


(この第一線だけは、絶対に死守する……!)


「使用人たちは仕えることに慣れている者たちですので、気をつけるに越したことはございません」

「そうか、何かあればすぐに教えてくれ。君のことは信頼している」


 ピケは「かしこまりました」と、鼻粘膜の違和感に顔を強張らせながら彼に肯いた。

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