11.『好きなものを好きなだけ』(後)

 ――しばらく談笑を交えた頃、和やかな食堂に、ワゴンの入室する音が響いた。

 大柄で濃い髭を蓄えた男――コック長だった。

 モニカが何事かとアニスの背後に視線を飛ばし、ヘーゼル色をきらりと煌めかせた。ワゴンの上の銀の大皿が目に入ったのだろう。


(さぁデザート本番だ)


 彼は緊張を隠して微笑んだ。


「モニカさま。本日はお越し下さりありがとうございました。あとはデザートを残すばかりですわ」

「えぇ」


 モニカの目はワゴンから離れない。確かに遠目に見ても甘そうな皿だった。


「デザートの前に、コック長がご挨拶申し上げたいそうです。どうかお聞き入れ下さいませ」

「……え?」


 モニカは今さら、ワゴンを運んで来た人物に気づいたようだった。

 彼女の返事を待たず、使用人たちは食堂からぞろぞろと退室していく。ワゴンを運んで来たコック長の他は皆、出て行った。残されたのは三人だけ。


 彼女は突然のことに戸惑い、分かりやすく眉間にシワを寄せた。それまで浮かべていた自然な笑みを取り払い、アニスを酒で据わりかけた瞳で睨みつける。


「な、何ですの?」

「コック長、どうぞご自由にお話なさって」


 彼の促しに、「モニカお嬢さま」と厨房服のコック長がぎこちなく頭を下げた。料理人が表に出ることなどないのだろう、見様見真似と分かる仕草。それに緊張か感激かで、彼の目は潤んでいた。


「ギィト……何の用?」


 彼女の声はひどく硬く、突然現れたギィトコック長を非難していた。

 しかし彼はそれに構わず、感極まった様子で話し始める。


「お、お嬢さま……今夜はオレ、嬉しくて。どうしてもお嬢さまとお話したかったんでさぁ」

「嬉しいって、一体」

「お嬢さまがオレの料理を久しぶりに食べて下さったんだ、こんな嬉しいことはねぇんです!」


 ――モニカは息を飲んだようだった。


「もうずうっとお嬢さまは菓子ばっかりで……オレたちみんな心配してたのに、今夜はこんなにたくさん食べれて……ホント、良がったですお嬢さま。嬉しいです」


 声も潤ませたギィトは、コック帽を脱ぐと乱暴に目元を拭って「んでも」と声を弱めた。


「お嬢さまは賢いお人だから分かってると思うけど、砂糖ばっかりは体に良くねぇ。あ、だから今夜のはほとんど砂糖は使ってねぇです。オレたちで頭捻って考えた料理だ……その、お嬢さま。味はどうだったですか、美味うまかったですか」


 すぐに返答がなく、アニスはモニカにそっと目を遣った。

 さっきまで赤かった彼女の顔は、真っ青になっていた。唇もわなわなと震えている。

 怒りか激怒か。


「お嬢さま……あぁやっぱり砂糖が入ってながったから美味くなかったんですね」


 ギィトはコック帽に顔を埋め「申し訳ないですお嬢さま」と遂に泣き声を上げた。アニスは、この男が泣き上戸なのは晩餐の打ち合わせのとき身を以て知ったので、驚きはしない。ただ大柄な男がわんわん泣く姿を見ていられず、アニスは再びモニカに目を移した。

 どうやら彼女も見ていられないようで、「やめて頂戴」などと苦虫を噛み潰したようになっている。


「すみませんお嬢さま……! オレはもうここを辞めさせてもらいますです。小っちゃい頃から見てきたお嬢さまに、不味いもん出したなんてオレぁ……辞めて責任」

「な、な……バカね! 美味しかったに決まってるじゃない! ギィトの泣き虫! 見なさいよ、ちゃんと全部食べたでしょう!?」


 モニカは勢いよく立ち上がり、喚いた。


「辞めるなんて許さないわ! ギィトのご飯じゃないと美味しくないんだもの!」

「ほ、ホントですかお嬢さま」

「本当よ!」

「よ、良がったぁ……う、うぅ」


(さて、もういいかな)


 アニスはわざとグラスの底を更にぶつけ、音を立てた。


「モニカさま、わたくしも今夜は楽しゅうございました」


 ハッとモニカが彼を見、眉をきつく寄せた。


「……貴方、何のつもり? もしかしてこれは」


 賢明な彼女の目に、剣呑な火が灯った。ギィトを連れてきた意図――泣き落とし作戦を正しく理解したのだろう。

 

(せっかく仲良くなれた気がしたが……仕方がない。ここからが彼女との勝負だ)


 アニスはひとつ瞬くと微笑みを消し、彼女を真っ直ぐに見据えた。


「二つ、提案がございます。モニカさまにはどちらか選んでいただきたいのです」

「提案、ですって?」

「一つ目は、ラベリ侯爵夫妻との晩餐を今夜と同じ献立にすること」


 同じもの? と、モニカは怪訝に目を細めた。すると、めそめそしていたギィトが顔を上げ、彼の言葉を継いだ。


「今夜お嬢さま方が食べなさった料理は甘い味付けで作ったんですが、旦那さまには塩っぱい味付けでお出しするんでさぁ。見た目が同じなら、まさか味が違うなんて思われないって、アニーさまが」

「……」

「コック長はそれを快諾してくれました。『お嬢さまが食べて下さるんなら、何でもする』と。わたくし心を打たれましたわ」


 アニスの台詞は少々棒読みだったが、モニカの表情は硬いまま。口は引き結ばれ、何かを堪えているように見えた。


(もう一押し)


「そして二つ目の提案です……ギィト、席を外して頂戴」

「へぇ。……お嬢さま。今夜はありがとうごぜぇました。デザートも全部食べて下さると嬉しいでさぁ」


 ぺこっと頭を下げ、ギィトは出て行った。

 見送ったアニスは再び彼女を見据えた。突き刺さるヘーゼル色が痛い程だ。


「あぁ提案の前に……もうお察しかと思いますが、モニカさまがお食事を召し上がらないことは、既にわたくしも存じ上げております。今夜の献立を甘くすることも、わたくしからコック長にお願いしたことです。勝手なことを、とお怒りになりますか」

「……そうね、余計なお世話よ! ギィトまで引っぱり出して来て何のつもり!?」

「貴方さまには、侯爵夫妻の前で完璧にお料理を召し上がっていただきたいのです」


 モニカはカッと言い放った。


「別に貴方には何の関係もないじゃない! 放っておいて!」

「モニカ嬢」


 彼は咄嗟に名を呼んでいた。知らず、素の声が出ていた。

 その低く静かな響きはじっとりと怒りを含んで彼女に届き、ひと呼吸の間、沈黙を作った。


「……それはわたくしが何もせずとも、モニカさまは晩餐で完璧に振る舞えるということでしょうか。侯爵夫妻との晩餐は決定事項ですが」

「もちろんよ」

「既にギィトと料理の手はずが整っておりますが、そちらはどうされますか。わたくしたちと同じ味付けでもよろしいということでしょうか」

「えぇ……構わないわ」


(掛かった)


「ですが今、現在は菓子の他は召し上がっていない様子。あとひと月ではとても無理でしょうね」


 ギリ、とモニカは顔を歪めた。


「無理じゃないわ」

「いいえ、無理です」

「うるさいわね、無理じゃないったら!」

「いいえ、せめて毎日一食でも塩気のあるお食事を摂れなければ無理ですわ」

「それくらい、簡単にできるわよ! 一食くらいならワケないわ!」


 「そうですか」と、アニスはにっこり微笑んだ。

 まるで、デザートで好物が出てきたときのモニカそっくりに。


「それはようございました。ギィト、聞きましたか?」


 「へぇ!」とアニスの背後からギィトが飛び出した。扉の隙間から話を聞いていたのだ。もうコック帽はぐしょぐしょに濡れそぼっている。


「お嬢さまぁ、よくぞ、よくぞ決断して下さいました……うぅ、オレ、嬉しくてうぅぅ……!」

「は……?」


 モニカは突然登場したギィトとアニスを交互に見、混乱に呆然とした。何が起こったのか、失言したことにも理解が及んでいない様子だ。

 アニスは殊更にっこりして、彼女に親切な解説をした。


「実はわたくしからの二つ目の提案は『毎日一食は塩気のあるお食事を摂りましょう』だったのですよ。一つ目の提案からすれば、お辛い選択かと思っていましたが……ですが、さすがモニカさま! 侯爵夫妻の前で嘘をつくよりも、茨の道を選んでも尚、誇り高くあろうとなさるなんて」

「ちょ、待って! わたくし……!」

「あぁわたくし感動致しましたわ!」


(言質はもらったし、証人もいる)


「うっううう……良がったぁよがったあ。オレ、毎日体にいいの作りますお嬢さまぁ!」


 モニカの混乱を横目にアニスが完璧な成果を喜んでいると、ギィトがモニカの側で泣き始めた。感激したのだろう。

 彼女は目に見えて狼狽しているが、あまり深く考えさせたくないのでいいぞギィトもっとやれと、彼はグラスを持ち上げた。酒でも飲みながら温かく眺めるに徹しようとした。

 するとその瞬間、わぁ! と人払いしたはずの使用人たちがなだれ込んできた。

「お嬢さまぁ……!」「私もしかと聞きましたよ!」「わたくしもです!」「お嬢さま、もっと母屋にもいらして下さいませぇぇ」

「え、あ……あの皆……?」


 彼らは一目散にモニカを取り囲み、声を掛けた。恐らく皆で成り行きを見守っていたのだろう。

 またしてもだまし討ちの言質だが、長いこと彼女を心配してきた彼らにとっては大きな一歩になったはずだ。

 もちろん彼女にとってもそうなるように、とアニスは願った。


「オレ、作ります。塩っぱいの毎日ぃ。うぅぅぅぅ……びええぇぇ!」

「モニカさま……お世話させて下さいませえぇ」


 ギィトと共にむせび泣く者の中にはドロシィの姿もあった。ピケは少し離れて涙ぐんでいるようだ。使用人たちはモニカを囲み、今やお祭り騒ぎだ。

 彼はどこかげっそりとし始めたモニカの困り顔に、ひどく笑いが込み上げてしまい口の端を上げた。


(これではデザートは食べられないな)


 ひとり立ち上がり、グラスに残った葡萄酒に気づいて飲み干した――直後、少々男臭い仕草だったと反省して、彼は総レースのドレスを翻し食堂をあとにした。

 

 喧騒を背に、彼の足取りは軽かった。

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