10.『好きなものを好きなだけ』(前)
モニカはもう随分前から菓子でないものへの食欲を失っていた。
王太子妃教育の内容がより高度になった頃。食べようと思っても食べたくない気持ちが湧き、無理して口に入れれば味を感じなくなった。
砂か無味のパンを咀嚼するような食事は辛く、彼女は見る見る内に痩せ細った。
「食べられるわ、ちょっと食べたくないだけで」
そう口癖てはいたものの、当時の彼女は皿に半分のスープで食事を終えてしまう程に小食だった。
しかし寝室に籠もるようになった頃。それまで禁じられていた菓子――小さな焼き菓子を口に放り込んだ瞬間、体中が痺れる程の甘味と喜びと幸福感に満たされた。
気づけば、彼女は甘いものしか食べられなくなっていた。
「食べようと思えば食べられるわよ」
そう強がって、何度かミートパイやチキンサンドを口に入れたこともあった。その度に彼女は嫌いな食べ物が増えていき、食事をすることが怖くなった。
モニカの目の前に、スープ皿が置かれた。
こっくりとした黄色のポタージュはかすかに湯気を立て、彼女に空腹を自覚させた。
(どうして? 甘い匂い……わたくし、とうとう鼻もおかしくなったのかしら)
じわ、と口内に唾液が溜まり、今すぐ皿ごと持ち上げてすすり上げたくなった。緊張で握りしめていた左手から力を抜き、葡萄酒を飲んだ振りで深く息を吐き出す。鼻腔を通して酒気が体に入り込み、彼女は頭がクラクラとした。
昼過ぎに起床し、ずっと晩餐の準備をしていた彼女は今日は何も口にしていなかった。
「ではいただきましょう」
聞こえた声に集中し過ぎていた意識が戻り、モニカは「えぇ」と肯いた。しかしすぐに酩酊した気分が思考を奪おうとする。甘いものを食べよ! と、血が沸騰する程の欲求が暴れて目の前をチカチカさせた。
こうなるとお腹が満足するまで訳も分からず食べ続けてしまう。
そして食べる内に『もう一口、もう一つ、もっともっと』と歯止めが効かなくなってしまうと言うことも彼女は分かっていた。
そうなってしまうのは、普通でないことも。
(アニー=ヴィンセントが見ているわ! 弱味を見せてはダメ!)
そう遠くから冷静な自分が叫ぶために、彼女はごくゆっくりとスプーンを持ち上げることができた。ただし手紙の売り言葉を、売値で買うことにした理由は、未だ彼女自身にもよく分かっていなかった。理屈ではない反抗心が彼女を駆り立てるのだ。
銀の磨き抜かれたスプーンをポタージュに浸し、背を曲げぬよう美しく見えるよう唇を寄せた。音を立てぬようにすする。
――理性が働いていたのはそこまでだった。
薔薇色に染められた口元に湯気の温かさが触れ、舌を根菜の甘味が転がった瞬間。
モニカは一心不乱に手を動かしていた。
◇
甘い冬の根菜をすり潰して作ったスープ。
前菜としては重めだが、モニカの体調を考えれば甘味の強く胃に負担を掛けないものを、と考え抜いた一品だ。極力塩気を押さえて、自然の甘味だけで作ってある。
アニスはモニカに視線を悟られぬよう、視界の中に彼女を収めて食事に集中する振りをした。
(……どうやら食べられるようだな)
モニカはそれをひと匙舐めると、まるで好物の菓子を食べたような顔になった。すぐに次をすくう様子に、不快な感情は見えない。
アニスはひとまず安心し、彼もポタージュを口に入れた。
まったりとした舌触り、喉に滑らかに落ちていく心地良さ。一瞬物足りない気がする甘さは舌の上に不思議と残り続け、あとを引く。甘味だけでなく野菜本来の滋味の深さも感じさせる逸品だった。
美味い、と彼はもうひと匙すくおうとした。
そのとき、カチャとスプーンを置くかすかな音がし、アニスは慌てて手を止めた。
(もしやダメだったか!?)
ハッと顔を上げ、固まった。
「は?」
――皿が空っぽだった。今、目を離したばかりのモニカのポタージュが一滴も、なかった。
幻かと目を瞬けば、彼女の後ろに控えるドロシィも僅かに仰け反っている。そこでバチリとドロシィと視線が合い、彼は我に返った。実に女性らしい咳払いを発し、誤魔化しに努めた。
幸か不幸かモニカは空の皿を前にし、それには気づかない。
「ん、んんっ。モニカさま、お気に召しましたか?」
すると今度はモニカが我に返る番だった。
「あ……えぇ。その、大変美味しいかったので……その」
彼女は少々呆然としたまま視線を彷徨わせた。そして最後にアニスの皿にたどり着くと、彼の並々と残るポタージュに釘付けになった。目で吸い込むつもりかと思う程見つめている。
彼は苦労して笑いを堪えなければならなかった。
「それは嬉しいこと。貴方、モニカさまにおかわりを」
「! いいの!?……あ、いえよろしいのですか」
いささか早過ぎて驚いたが、完食とおかわりは大歓迎。
アニスは侍従に指示を出し、「もちろんですわ」と肯く。
(今夜は思う存分食べてくれ、モニカ嬢)
――この晩餐の目的は二つ。
モニカから「来月の晩餐に出る」と承諾を得ること。
そして、そのために「食事を摂る努力をする」と宣言させること。
(彼女にはまず、『今夜の晩餐は美味しかった』と思わせる必要がある。さぁ楽しんでくれ)
すぐさまモニカの皿が再び満たされた。同時に、二品目も運ばれてくる。いいタイミングだ、と彼は侍従に目配せした。
二品目は
彼女はすさまじい早さ――しかも姿勢も仕草も崩さずに二杯目のポタージュを平らげ、勢いはそのまま盛り合わせに手を伸ばす。
(いいぞ!)
しかしアニスの応援空しく、その手はピンチョスを直前にして引っ込んだ。数瞬迷い、グラスを持ち上げる。
「……モニカさま、そちらの赤いソースは採れたてのベリーのものだそうですわ。ピンチョスのクロテッドクリームもまるで雪のようですわね」
「!」
酸味の利いたベリーソース、彼女の好物のクロテッドクリーム、メレンゲ仕立てのジュレ……どれも一口に収まる、見た目も菓子のように飾った冷菜。生の野菜は蜂蜜に浸け、ドレッシングで甘味を足し、できる限り食感も抑えてある。
果汁が滴る甘瓜に肉の塩漬けが隠れているのには、彼も膝を打ちたくなった程、巧妙に甘く栄養価の高い一皿だ。
アニスは彼女の方から、はぐっと音がしたのは聞こえない振りをした。
「他の侯爵家は主に南の領の産業が盛んですけれど、ラベリ家では北の開発にも力を入れておりますの」
「伯爵以下から身分を剥奪した革新的な政には、わたくしは賛成です。もちろん、当事者について顧みればごく最近まで大変な混乱期であったと考えますが。統治者として財政の安定という視点に立てば……」
「隣国にあるという大きな湖には、見たこともない程大きな動物が住むそうですよ。我が国には湖はありませんから、わたくしも一度は見に行きたいものです」
今し方、メインの肉料理――鶏ハムの極甘ハニーマスタード添え――をペロリと食べ終えたモニカの舌は滑らかだ。アニスが振るどんな話題にも楽しげに返し、時には饒舌に持論を展開する。
葡萄酒の酒気も手伝ってか、彼女の頬は紅潮して見たことのない程に血色がいい。
「わたくし隣国には何度か足を運んでおりますので、その噂は聞いたことがありますわ。何でも見上げるほど首が長いとか」
「まぁ、見てみたいですわ! アニーさまは隣国で何をされて来ましたの?」
「……仕事ですわ。見て回る暇もなく、退屈でした」
「それは残念。あぁ隣国と言えば葡萄酒も盛んですわね。ラベリ領とも交流のある……」
話題の中で自領の宣伝を織り交ぜていく社交性の高さは、正しく侯爵令嬢に相応しいと言える。自領自慢ならばと、アニスもヘレンゲル領の話題で返してしまいそうになり、何度かヒヤリとする場面もあった。
(ケンカ越しでない会話は初めてだが、案外楽しいものだな)
出会って初めて、モニカとまともな会話が成立していることに、彼は少しく高揚していた。彼女と話せば話す程、ケンカばかりしていた相手と馬が合うと分かったような、明るい期待が彼の胸には広がる。
彼女の機嫌のいい話し振りは不思議と彼の耳に心地よく届いた。
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