9.嘘つきの本音は、嘘つきにしか分からない
三日経ってもモニカからの返事は来なかった。
(侯爵との晩餐自体を断わるべきかもしれない。前回の茶会も、これからの授業の予定も……彼女を苦しめる結果にしかならない)
アニスは何度も離れに足を向けかけては、宛がわれた部屋に戻ることを繰り返した。
(僕はどうすべきなんだ)
ジャンのとの仲を取り持つための王命のはずだった。
行儀指南役として授業をしながらそれなりに仲良くなるはずだった。
つい一週間前には、彼女のアクの強さや負けん気が強い跳ねっ返りぷりに度肝を抜かれてはいたが、面白がる余裕もあった。必ず目的を達成できると疑いもしなかったのだ。
しかし今。
彼はどちらにも進めない分かれ道の前で立ち竦んでいた。選び
「アニスさま、もうお休み下さい」
「あぁ、もう少し」
明日の朝までお返事を、と約束の前夜。
彼は気を紛らわすため、モニカが以前読んでいたという恋愛小説に目を通していた。離れの書斎からドロシィが拝借して来た
相手に好意を持ちつつ相手につっかかっていく主人公が、どこかモニカ嬢と通じるようで可笑しい。時折そう眉を寄せながら、彼は返事を待っていた。
ふと、彼の集中して目を落としていた先に人影が差した。
「……アニスさま今夜はこれで失礼致します」
「あぁもうそんな時間か。ご苦労だった」
彼はそこでようやく顔を上げ、目を瞬いた。思ったよりも自分のごく近くにピケが佇んでいたことに驚いたのだ。「どうした」と問えば、「発言をお許しいただけますか」と彼女は返した。
(珍しい、モニカ嬢のことだろうか)
ピケはこれまで、モニカについて自分から話をしようとしたことはなかった。あえて控えている印象すらあった。
アニスは本に栞を挟み、姿勢を正した。着替えだ化粧だとなると興奮し過ぎるのが玉に瑕だが、もはや彼女は彼にとって信頼のおける侍女。ひとつ肯き、先を促した。
「不敬とお叱りを受ける覚悟でお伺い致します。アニスさまは、お嬢さまをどうなさるおつもりですか」
アニスは「どう、とは?」と戸惑いに言葉を濁した。人聞きの悪い言い方だ、とも思った。
「お嬢さまのご様子を、ジャノルド殿下にご報告なさいますか? 王太子妃さまにも」
内心ギクリとした。ただし彼は僅かに目を見開くだけで、それを誤魔化した。
「わたくしは、お嬢さまのお心が心配でなりません。ドロシィは以前のように元気になって欲しいと話しますが……アニスさまが王命を受けてここにおられる以上、お嬢さまの進退は貴方さまに委ねられていると考えられます」
「進退、とは」
「もし、アニスさまが王家のどなたかにラベリ家の真実を報告されれば、ご婚約は例外なく解消されるでしょう」
あぁそうだ、僕は決断を迫られている、とアニスは目の前の侍女を見つめた。
健康上、生活上に不安のある相手を王家が王太子に
「お嬢さまは、ご婚約の解消をお望みになっているでしょうか」
「分からない。僕と彼女はたった三回、会っただけの仲だ。話題にすることすら無理だ」
「そうなのです。お二人は犬猿の仲。ですが、このままお嬢さまが貴方さまとお会いになるのを拒み続けておしまいになれば……もしもお嬢さまがジャノルド殿下を真実愛しておられたとしても、ご婚約は強制的に解消されてしまうでしょう」
「は?……彼女がジャンを? そうなのか!?」
(まさか)
ピケは力なく首を振り「分かりません」と答えた。
「アニスさま。この邸にいる者たちを全て集めてもお嬢さまのお心は誰も分からないのです。そしてこのまま、お嬢さまご自身が語られない限り永遠に分からないまま。……ですがもしそうだとしたら、ご婚約を解消されてしまったお嬢さまは寝室からお出になる気力をこの先、取り戻せるでしょうか」
(もし、彼女が本当はジャンとの婚約を望んで……? 彼女の本当の気持ちだと? そんなこと、考えもしなかった)
ぐぅ、とアニスの全身にひどく重い何かがのし掛った。それは胸を潰し、呼吸を乱した。
「わたくしはずっとそれが気がかりでした。お嬢さまのお心を置き去りにしたままでわたくしたちは……。いま一度、不敬を承知で申し上げます。貴方さまは、お嬢さまの」
そのとき慌ただしい足音と同時、夜分にしては強いノックが二人の空気を一変させた。
「ドロシィでございます……!」明らかに息の上がった声に、モニカに何かあったのかと彼も血相を変えて立ち上がった。ピケが急ぎ扉を開ける。
するとドロシィは礼も取らずにアニスに駆け寄り、「これを!」と一通の封筒を差し出した。
差出人は『モニカ=ラベリ』。
アニスは侍女たちの見守る中、封を切り手紙を取り出した。
(彼女の気持ちは)
先程のピケの言葉が彼の動作をひどく緩慢にさせた。しかし何とか便箋を広げ、文字に目を滑らせた。
息苦しい沈黙。
「アニスさま」「お嬢さまは何と」
侍女たちが堪らず不安に声を掛けた瞬間、アニスはバッと顔を手で覆い立ったまま身を屈めた。小刻みに体を震わせたかと思えば、何やら呻いた。
やはり拒絶の手紙か期待が絶たれたと、二人は涙を浮かべかけた。
アニスも悲しみに泣いているのだろうかと、ドロシィはおずおずと声を掛け、すぐ驚きに動きを止めた。
「アニスさま?」
「やられた……。また、してやられた」
彼は泣いてはいなかった。
細めた琥珀色も、形のいい薄い唇も笑いを浮かべていた。唖然とした侍女たちは、彼が顔を覆う手を外したとき、その瞳に安堵を見て取った。
“ご希望なら、何度でもラベリ家自慢のミートパイをご馳走して差し上げますわ”
“次は貴方に何をお見舞いして差し上げようかしら”
(字に乱れがある。本心ではなかろう)
アニスは、未だ困惑の表情を浮かべた侍女に笑いかけた。
「ピケ。僕はモニカ嬢とは全く以て仲が良くないし、彼女がこれからどうしたいかも全然分からない。だがこの手紙を読めば、彼女が生きる気力を失っていないことくらいは、分かる」
「アニスさま……」
「晩餐は予定通り行う。明日、コック長と話したい」
“わたくし丁度、暇してましたの”
“貴方と晩餐だなんて正直に言えば気が進みませんけれど、今回だけは付き合って差し上げるわ”
(『嘘つき文官』だ。素直になれない主人公の手紙の引用。彼女は……負けん気が強くて強情っ張りの、嘘つきだ)
◇ ◇ ◇
晩餐は正装。
この状況をアニスは舐めていた。
「アニスさま! まだ
「いや、もういいだろう……」
「なぁにを仰ってるんですか! こんな完璧でお美しいお姿の正装に滾らない、じゃなくて力を入れない訳が……アッ動かないで下さいまし! 御髪が終わりましたらコルセットですからね!」
地毛もぐいぐいと引っ張り巻かれる痛みに呻き声を漏らし、鏡に映る自分の姿を見て、アニスはひどく後悔していた。
(なんでこんなに透けてるんだ……気色悪すぎる……)
晩餐の正装は、食事をするに邪魔にならない程度の袖――肩幅を隠すため絶妙なボリューム――と座りやすい腰回り。そして胸元の開いたドレスが主流だ。もちろん彼も例に違わず胸元をギリギリまで露出。さらに濃紺の総レースが所々、肌を透かしている。
「あぁ素晴らしいご衣装ですわね……! それにまるでこの詰め物! 本物のお胸のようです、これは絶対にバレませんねアニスさま」
「そうか、じゃあもう終わ」
「ではこれからお化粧の仕上げですわっ」
嫌だもうやめたい、と彼は瞑目した。
――定時、モニカは約束通り食堂に現れた。
「よくお越しくださいました、モニカさま」
「お招きいただきありがとうございます、アニーさま」
言葉は上手に取り繕っても、獣の睨み合い。正装の煌びやかさが、二人の剣呑な微笑みを引き立てる。晩餐用に飾り付けられた食堂は今、穏やかならぬ緊張感に満たされていた。
これは小規模であっても晩餐――お茶とお菓子だけの準備で事足りる会ではない。普段は顔を合わせない侍女や侍従たちも、固唾を飲んで食堂の壁に控えている。
(大方、婚約者と愛人がどうの……とまた噂になるんだろう)
アニスは眼鏡越しにモニカに微笑みかけ、席を勧めた。授業の一環であることを理解してか、令嬢然とした振る舞いを見せる彼女に彼は、内心で胸を撫で下ろした。今夜はできる限り、冷静に食事を進めたいのだ。
「モニカさま。今夜はラベリ領産の葡萄酒で乾杯致しましょう」
「まぁ、アニーさまはさすがお目が高いですわ。いつもお茶会でいただくお菓子も素晴らしいものばかりですもの、お食事も……期待しておりますわ」
(さすがモニカ嬢。『犬猿の仲』とは思えない役者ぶり。上手くやれば口さがない噂も少しは減るか……しかしやはり顔色が悪いな)
彼はグラスの葡萄酒越し、同じように席に着いた彼女をそっと眺めた。
ごく淡い橙色のドレスは、本来なら彼女の柔らかな肌をより明るく見せただろう。しかし今は血色の悪さを目立たせた結果になったようだ。
アニスはしばし目を伏せた。
これから自分は彼女に憎まれるべき苦しみを与えるのだ、と懺悔した。もう幾度となく繰り返した祈り。
(だが、もう後戻りはできない)
アニスは目を上げると同時、微笑んだ。腹は決まっていた。
「さぁ乾杯を」
――二人の晩餐が始まった。
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『
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