8.ミートパイは食べられない

 明くる朝、アニスは便箋を置いたローテーブルの前で悩んでいた。

 晩餐の招待状を出すべきか、それとも次回も茶会にしてしまうべきか。


「やはり予告通り、晩餐の招待状にしよう。彼女の自尊心を壊しかねない」


 (また何か投げられてもな)


 内心で苦笑したアニスはペン先を滑らせ、機嫌伺いの挨拶を書き連ねる。今回は同じ侯爵家からの招待状、という設定に決め、美麗な定型文で紙を埋めていく。

 しかし彼の筆は止まり、便箋は丸められて床に放られた。


(飾り言葉の味気ない招待状ほど、煩わしいものはない)


 アニスは、モニカがもう二年も邸の外に出ていない――ドロシィによればこれは事実だった――ことを思い出した。そして彼女の調査書を初めて読んだとき、自分がそれを『真似したい』と羨ましく思ったことも。


 彼はしばし思案して、新しい便箋に再びペンを走らせた。


 “先日は、最高のミートパイをご馳走下さり、ありがとうございました。大変美味しゅうございました。この先、ラベリ家のミートパイの味を忘れることはないでしょう”

 “お茶会にて話題になりました、晩餐作法の授業を行います”

 “貴方さまにお目にかかれるのを楽しみにしております”


 彼は書き上げた手紙に目を通し、封筒に『モニカさま』と姓は付けずに書いた。差出人もただ『アニー』と記した。


(罪悪感でここまで女性に気を遣うことになるとは。モニカ嬢のいつもの負けん気が幸いするといいが……ジャンは完全に尻に敷かれそうだな)


 彼女を怒らせる度に物を投げつけられ、逃げ惑うジャン――そんな愉快な絵が浮かんだはずが、アニスの気持ちは何故か沈んだ。

 衣装部屋で控えるピケを呼び、ドロシィに届けさせるよう指示する。


「五日後、晩餐を予定する。返事は前日の朝まで。それから家令にもその旨準備を、と」

「かしこまりました」

「できるだけ、彼女の好きな献立を揃えるように、と伝えてくれ。ドロシィとも詳しい話をしたい」


 「お任せ下さい」と、ピケは部屋を出て行った。

 アニスは立ち上がり窓際に寄ると、外を眺めた。見下ろす庭は秋の花、特に薔薇が手入れされて美しく朝の白やみに浮かび上がっている。


(ここに来て、一週間か。籠もりきりで気分が塞いでいるのかもしれない。体を動かしたいが、目立つことはできないしな)


 アニスはせめてもと窓を開け、少々冷える秋の風に吹かれた。


     ◇ ◇ ◇


「うぅ……眩しい。朝?」


 モニカは重苦しい目蓋を持ち上げ、カーテンから入り込む朝陽を恨めしげに睨んだ。また化粧を落とさないまま寝たので、顔中がべたついて気持ち悪い。どこかからミートソースの匂いもして、気分は最悪だわ、と彼女は唸り声を上げた。


(誰よ、カーテン開けたの……)


 しかし開けっ放しにして寝たのは自分――昨日も茶会のあとドロシィも誰も近づけず、寝室には内鍵を掛けている――で、眩しいなら自分が閉めるほかない。

 彼女は仕方なくシーツごと床に転がるようにして降り、眠気に「うぅ」とか「うえぇ」などと呻きつつ、カーテンを引っ張りにかかった。


(なんで侍女って、入り込む度にカーテンを全開にしていくの? ずっと閉めっぱなしでいいじゃない……)


 あと一枚、とお化けさながらにシーツを引きずったとき、彼女は寝室の扉の下に何かが差し込まれていることに気づいた。

 ドロシィからのメモね、と重苦しい頭で理解し、仕方なしに足を向ける。


 モニカと侍女――特にドロシィは普段、必要なことをメモで遣り取りしている。

 例えば“食事が欲しい”だの“本を持って来て”だのと、彼女が紙に書いて要求すれば、ドロシィは“ご用意できました”と書いて寄越すのだ。そして彼女は誰もいないときを見計らい隣室にそれを取りに出る。食器や戻す物は深夜、隣室に置いておくのだ。

 最近は、面倒な“招待状が来た”だの、いついつは“朝に起きて下さい”だのと頼んでもいないメモが増えていたので、彼女もそれを拾うのを先延ばしにしがちだったのだが。


(お腹減った……)


 ついでに食事も頼もう、と這いつくばるように字を読む。


“軽食とご希望の本など、ご用意してございます”


(さすがドロシィ、分かってるわね)


 モニカは扉に耳をつけ、何の物音もないことを確認して鍵を開けた。扉のすぐ脇、壁に寄せたサイドテーブルには軽食――フルーツサンドの皿と真新しい本が二冊。

 彼女は喜びにニンマリし、いそいそと部屋に戻った。そして腹が減っていたのも忘れ、ベッドに転がって新しい本の装丁に見入る。カーテンは半分くらい開けておいても良かったわね、と見えづらさに目を凝らした。


「『金の騎士と銀の魔術師』……なんて面白そうなの。こっちは『彷徨う愛の行方』うっふっふ。あぁどっちから読もうかしら!」


 選べなぁい、と『彷徨う愛の行方』を持ち上げたときだった。

 最後のページに手紙が挟まれているのに気づき、彼女は眉をひそめた。

 サッと抜き出し、顔色を変える。


(アニー……アニー=ヴィンセントから?)


 モニカはその飾り気のない『アニー』の文字に、顔を歪めた。

 考えまい、と押し込めていた昨日の記憶が溢れてくる。


 そしてあの瞬間の、何としてもアニーを傷つけてやりたいと言う強い感情と衝動をも思い出した。

 パイを投げつけたときの彼女の驚きの表情。

 直後、茶色い挽肉のフィリングが泥のように彼女を汚したこと。

 ――その結果、自分に襲いかかったひどい罪悪感と失望を。


 彼女は歯を食いしばった。

 長いこと胸に仕舞い込んでいた制御できない想いが、口から目から、全身の全ての毛穴から吹きだして狂ってしまいそうになったのだ。


「な、何よ。わたくしに文句でも言いたい訳?」モニカは必死で怒りとも戸惑いとも分からぬ声を漏らした。

「そうよ、もう辞めたいって言う手紙かもしれないわ。思ったより根性がなかったわね」乱暴に封を切り、中から便箋を取り出した。

 整った字が目に入り、少しく冷静さを取り戻す。


(招待状じゃない……これじゃまるで私信だわ)


 美麗字句な挨拶は皆無。気取った言い回しではない。字を追えば声が、アニーの少し低い穏やかな声が聞こえてくるようだった。


「五日後……晩餐の授業、ですって?」


 わななく唇から、弱々しい呟きがこぼれた。


「どうして? パイを投げつけられたのよ?」

「辞めるって言いなさいよ」

「何が“楽しみにしています”よ……嘘ばっかり!」


 最後のサインを、彼女は信じられない想いで見つめた。

 薄い便箋は震える彼女の手の中でくしゃりと皺を作っていく。


(みんなわたくしを放っておいて頂戴……! 嫌よ、晩餐なんて……わたくし、わたくしどうしたら……)


 不意に陽が翳り、寝室の空気は夜中のように暗く沈んだ。

 くしゃ、と紙のかすかな音だけが響いた。


     ◇ ◇ ◇


 ――少々長いお話になります、とドロシィは前置きした。

 アニスはドロシィの仕事が終わった夜分、モニカの話をするために彼女に椅子を勧め、向かい合っている。


「お嬢さまは月に数える程しか、寝室から外に出て来られません。鍵を掛けて、侍女も中に入れません」

「もう二年以上、まともなお食事を摂っておられません」


 しかしアニスは話が始まってすぐに、言葉を失った。ドロシィから聞かされるモニカの生活は、彼の常識では信じられないものだったからだ。


「ちょっと待て……寝室から出て来ない? 訳が分からない」

「アニーさまが来られてから、わたくしたちも久方ぶりにお嬢さまにお目にかかれたのです。……旦那さまのお言いつけもあるとは思いますが、アニーさまとは相性がいいと言うか、負けず嫌いが過ぎてしまうと申しますか……。とにかく、離れの侍女たちは、お嬢さまが外に出る機会を作っていただき本当にありがたく思っております」

「……食事や風呂は?」

「モニカさまの寝室には、浴室とご不浄がございますので、ご自分でなさっておいでです。ご要望は隣室に用意しておき、メモを扉に挟んでお知らせしております」


(信じられない……茶会の彼女は全くそんな風には……あぁ生活が乱れているとは思ってはいたが)


 そう聞かされても、あのモニカが今も寝室に籠もっているなどと考えられなかった。そしてそこまでして部屋に籠もる理由も想像がつかない。


「それは、彼女が望んで……?」


 ドロシィはただ苦しげに肯いた。


(一体、何故)


「お嬢さまは、普段は夜に起きておいでのようでした。この一週間はその生活時間が崩れ、身支度やお茶会の心労もあり、外に出ている間の他はほとんど寝ていらっしゃったようです」

「そんな、無理を?」

「体にはご負担が掛かっていると分かってはいても、わたくしは嬉しく思っておりました。以前のように話ができ、お世話ができて……」


 ドロシィは涙を堪えるように声を詰まらせた。


(……これは)


 二人の間に、沈黙が落ちた。

 アニスは頭の中が疑問符で埋め尽くされて整理のつかない状態になっていた。ドロシィはそれを察したか、息を整え話を続けた。


「お嬢さまがこうなってしまった理由は分かっておりません。旦那さまにも、奥さまも匙を投げておいででした。もう子どもではない、時間が解決するだろうと、いつか飽きて出てくるだろうと……ですが……」


(そういうことか)


 ラベリ侯爵は部屋に籠もった娘を放置したのだ、と彼は悟った。

 匙を投げ、反抗する娘から距離を置いて、別邸に住み家人に任せきりにした。


「お嬢さまは元々快活で夢見がちですが、大変賢い方です。突然始まった王太子妃教育も非常に厳しいものでしたが、毎日努力されていました。身支度もいつもお美しく見えるようにと気を遣っていらっしゃいました」

「それは察するに余る。彼女は賢く、行儀作法も申し分ない女性だ。……少々、度が過ぎるときがあるが」


「えぇ、仰る通りです」とドロシィが疲れた笑みを浮かべた。アニスの渾身の冗談は漂ってどこかへなくなった。

 彼女が「ですが」と言葉を継ぐ。


「何のきっかけか、気持ちが壊れておしまいになってから、まるで別の方になってしまわれました。……アニスさま、どうかお嬢さまをお救いになって下さい! ご結婚などされなくとも、お部屋から出て以前のようにテーブルでお食事をしていただきたいのです……」

「テーブルで?」


 アニスはハッと思い当たり、息を止めた。


(彼女はミートパイに手を付けなかった!)


 体中の血がサァッと音を立てて引いていくのを感じ、彼は額を支えた。行儀作法どころの騒ぎではない、とはっきりと理解したのだ。


「……ドロシィ、正直に教えて欲しい。モニカ嬢は、晩餐の食事を?」


 彼の予想通り、彼女は首を横に振った。





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