7.『煽るのはほどほどに』

「この野菜のプディング、ラベリ領のお茶と合いますね。モニカさんも是非」


 野菜の筋を丁寧に裏ごししたであろう、黄色くまったりとしたプディングは美味だった。優しい甘さがアニスの好みだ。ジャノルドが気を利かせたとかで届けられた逸品らしいが、ピケによるとそれによってまた良からぬ噂が立ったらしい。

 曰く、『婚約者には花、愛人にはお菓子』と。


「……えぇ、もぐっ。あとで、いふぁだきまふわ……もぐもぐ」

「何だか今日の貴方、顔色が良くない気がしますけど。寝不足ですの?」


 今日の茶会の設定は『友人同士の楽な集まり』だ。

 そうと分かっているので、お互いに容赦はない。アニスが直球で投げれば、モニカはすぐに嫌味を返す。


「その野暮ったい眼鏡、度が合ってないのでは? わたくし、昨日はぐっすりでしたわ」


(嘘つけ。目の下にクマが出てるぞ)


「あら、しっかり見えていますわ。ほら、口元にジャムが。モニカさん、ちょっと言い方がひどいですわよ」

「ムッ……ペロッ。あらぁ、わたくしたち今日はお友達でしょう? これくらい普通ですわよ」


 もぐもぐもぐもぐ。塩味のビスケットにジャムを溢れるほど乗せ、モニカは憎まれ口を叩くほかは咀嚼を繰り返している。

 アニスは気安い苦笑を浮かべ、肩に下ろした髪をゆったりと払った。今日のドレスは気軽な茶会らしく薄紅色の明るいものだ。同色のオーガンジーが腰回りにふうわりと飾られ、貞淑ながら華やかな装い。

 対するモニカは、胸下のリボンから広がる若草色のスカートが可愛らしいドレスだ。彼女のふくよかな胸元が強調され、アニスは少々、目のやり場に困っている。


 何度目か、彼は目をカップに伏せた。


(……いつ、晩餐の件を切り出そうか)



 ――例のジャンの来訪後、アニスは他の二通も目を通した。

 まずは甘い香が焚きしめられたアナベルの手紙を。嫌な予感しかしなかったが、彼は嫌いなものは先に食べる性質を持っているのだ。


 “アニーちゃん、首尾はどぉお? わたくしの印章は役に立ったかしら?”

 “ラベリ侯爵夫妻の方は、わたくしがうまく取り成してますからね。あとはアニーちゃんのお手並み拝見ね!”

 “あぁ怒らないで! アニーちゃんの女嫌いが直って欲しくて、ロティアナと相談した結果なのよ。わたくしたちのアイディアはいつも素敵でしょう?”


 ここで彼は一度呼吸を整えなければならなかった。すでに夕闇の迫る時分、燭台に火が灯され、心配そうなピケの影が揺れる。

 再び彼は目を落とした。


 “きっとアニーちゃんなら、ドラマティックで素晴らしい運命を引き寄せるって信じてるわぁ!”

 “状況が分からなくてつまらないから、お返事待ってます”


「ピケ……お茶を、くれ……」


 そうしてヤケクソで立て続けに実家――彼の侍従からの手紙を読んだ。こちらは領地の決済書類が溜まってきているという悲鳴で、その現実的な陳述のおかげで、彼は心を落ち着けることに成功した。


(実家のことはともかく、まずは晩餐に向けて対策が必要だ。モニカ嬢を説得して、晩餐の作法を確認しなければ……)


 彼は差し出されたカップを手に取った。くゆる香りの中、どのようにして事を上手く持っていくべきか考え続けた。

 そして導き出した結論は。


(……味方を、協力者を増やすしかない。僕がヘレンゲル侯爵家のアニスと知られても、ラベリ侯爵を納得させない限りは王命……いや、ジャンの結婚が成立しない)


 アニスは深いため息を吐いた末、神妙に顔を上げた。そして(なぜか頬を染めていたピケに一瞬引き攣ったが、)彼は決意した。


「ピケ、大事な話がある」



 ――そうして現在、唯一の協力者となったピケがアニスとジャンの不敬な噂の火消しに奔走している。もちろん状況は芳しくない。主人侯爵のいない邸では、口さがない噂など、家人たちの格好の餌だ。

 ただ、モニカにはまだ伝わっていないようだと見えて、彼は心から安堵していた。


「……アニーさん。わたくし、お腹いっぱいになったので、そろそろお暇してもよろしいかしら?」

「あぁ、たくさん召し上がったのですね。あら、そちらのミートパイはいいんですの? わたくし美味しくいただきましたわ」


 この邸の料理長が腕を振るったというメニューだ。てっきりモニカが好きなのだろうと思っていたが、当てが外れたアニスは首を傾げた。


「わたくし、もう結構です」


 彼女は少し気まずそうにそっぽを向く。

 その態度に彼は引っ掛かりを覚えたが、本題を話さねばと気を取り直した。


「モニカ、お耳に入れたいことがございます」

「……お茶会が終わったなら、話すことは何もないわ」


 ガタ、と音を立ててモニカは立ち上がった。アニスは貼り付けていた微笑みを消し去り、声を強めた。

 ここで時機を逃してはいけなかった。


「いいえ、貴方さまのお父上、ラベリ侯爵さまからお手紙が届きました」

「……今、何て」

「こちらがわたくしに届きました。晩餐を御一緒に、とのことです」

「は……ばん、さん? 父上と、貴方と?」


 顔が真っ青だ、とアニスは眉を寄せた。離れ付きの侍女が不安げに視線を投げかけているのが見えた。


「正確には、侯爵夫妻とわたくしと、モニカさま。……わたくしたちの行儀作法を検めに来られるとのことです」

「母上まで……」


 モニカはもはや震えていた。何が恐ろしいのか、視線も揺れ始めている。


(やはり彼女には情報が伝達されていなかったか。しかしこの様子は何だ?……今日はもうやめておくべきか)


 アニスが逡巡する間、例の侍女が彼女に優しく声を掛け、椅子に座らせた。すると、ヘーゼル色の瞳に僅か光が差した。弱々しくも、ぎろっと彼を睨む。


「……だから、どうだと言うの?」

「わたくしも雇われの身。一度で結構ですから、晩餐の行儀作法を復習させていただきたいのです」

「必要ないわ」


 モニカは今度こそ立ち上がり、彼に背を向けた。「お嬢さま!」と侍女が遠ざかる背に縋る。


「逃げるのですか、モニカさま」

「何ですって……?」


 アニスは艶然と微笑んだ。わざとだ。ロティアナが相手を挑発するときの、とっておきの笑みを拝借して。


「お逃げになるのですね、と申し上げたのです。あぁやっぱり、晩餐作法に自信がないのでしょうね。侯爵家でも正式な作法を用いた晩餐は年に一度あるかないかでしょうから……」

「今、貴方。わたくしをバカにしたの? 許されると思って?」

「いいえ。ですが、わたくしが許しを乞うのはモニカさまではなく、侯爵さまですわ」


 ぎ、と彼女の背が強張った。「モニカさま」と侍女が肩を撫で、ちらっとアニスに目を遣った。


(潮時か)


「……今回も、楽しいお茶会でしたわ、モニカさま。次回は晩餐をご一緒致しましょう。もちろんご都合が悪ければ、お断り下さいませ」


 カタリ、と彼は立ち上がった。これ以上は、彼も話すことはなかったからだ。周囲の侍女に片付けの指示を出し、自らも退室するために席を離れようとした。

 ふと見れば、突っ立っていたはずのモニカがこちらを見ていた。怒りに燃える目、歪んだ唇は今にも血が滲みそうに歯が立てられていた。


 まずい、とアニスが思った刹那、モニカが動いた。

 つかつかと今し方立ったばかりの席まで戻り、パイを皿ごと持ち上げた。

 ほとんど残されたままのミートパイ。

 モニカがそれを振りかぶったとき。

 彼女の瞳が濡れている、とアニスが気づいた瞬間。


 顔中に、香ばしく焼けたパイが叩きつけられた。


 ぐしゃぁ、と脆い衝撃。

 アニスは咄嗟に目を瞑り、後ろに飛び退いた。顔についたソースが崩れ落ち、ぼたぼたとドレスに触れる感触。薄紅色に染みていくソースの濃い匂いに、思わず顔を震った。

 ぐゎしゃん!

 皿がテーブルに落ち、割れた。


「お嬢さまあぁ!」「アニーさま!」「誰か布を!」


 眼鏡にべったりとついたソースで視界が遮られ、アニスは遅れてモニカが退室したことを知った。


     ◇ ◇ ◇


「焦りすぎたのか……」


 アニスは風呂でミートソースを洗い流し、夜着――ピケに頼んで男性用のものに着替えてカウチに沈んでいた。髪も真っ直ぐな白銀を露わにしている。琥珀の瞳だけは普段の輝きを曇らせていた。(ピケはネグリジェでいることを懇願したが、却下した。)


(泣かせてしまった……人の婚約者を)


 彼が女性を泣かせたのは、決して初めてではない。

“冷然たる琥珀”の通り、ツン過ぎる態度に業を煮やした女性が強硬手段に出た際は、彼とて容赦なく突き放す。時には姉たちも美しすぎる微笑みを以て制裁を与えれば、泣かない女性はいなかった。

 しかしその涙はどこか媚びを含むか、期待を裏切られたと粘っこい悪意に満ちていた。

「女性の涙など、心動かされるものではない」と彼は信じてきた。しかし。


(……落ち着かない)


 彼のまぶたには、何度もパイを叩きつけられる直前のモニカの表情が浮かんで仕方なかった。

 茶会の設定からか、素直にカールしてまるで絵本の妖精のように見えた髪が、乱れて頬に貼り付いていた。あれは涙が流れたからか、とぼんやり考えれば後悔に胸が重くなる。


 どれくらいそうしていたのか、控えめなノックにアニスは目を上げた。誰何すいかに応えたのはピケだ。入れ、と声を掛けたが次の瞬間、息を飲んだ。ピケではない侍女が立っていた。


「君は……」

「モニカさま付きの侍女、ドロシィでございます。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございませんアニスさま。それから、先程のモニカさまの無礼をお詫び申し上げたく、こちらに参りました。主人に代わって、心から謝罪申し上げます」


 ドロシィは小刻みに震えていた。


(ピケがここに連れてきたと言うことは、彼女がアニーの事情を知る者か。僕が侯爵に言い付けて叱責か解雇を命じられると思っているのか……)


 頭はそう回ったが、どこか端の方ではモニカ嬢も震えていたな、と彼は考えていた。


「顔を上げてくれ。謝らなければならないのは、僕の方だ。モニカ嬢の様子はどうだろうか」

「アニスさま……」


 ドロシィはおずおずと顔を上げ、同時にアニスの姿に驚いたようだった。目がまんまるになって、固まっている。ピケがそっと前に出て、「アニスさま」と視線を合わせた。


「こちらのドロシィにも、をお話し下さい。彼女はモニカさまの今のご様子を心から憂いております。きっとお力になります」

「そうか……味方が増えるのは願ってもないことだが。今のところ、分が悪すぎる。モニカ嬢付きの侍女が協力してくれれば、動きやすくなりそうではあるな」

「あの、なんのお話でしょう」


 アニスは沈んだ心のまま、彼女に問いかけた。やけっぱちもいいところだった。


「ドロシィ、君は侯爵も知らない秘密を守れるか?」


 ドロシィは訳が分からず青ざめた。それはそうだろう、と彼は半ば諦めかけた。

 女装趣味の男から怪しい話を持ち掛けられている心境は想像に難くない。

 しかしドロシィはぎゅっと口を引き結び「守ります」と深く肯いた。


「お嬢さまのためになるのなら」

「それは……善処すると、僕も約束する」


 彼は苦笑した。

 不意にどっと疲れを感じ、今すぐにでも横になりたい気分だったが、何とかそれを押し込めた。


(もうパイは投げつけられたくないしな……)



 ――この日から数日、ラベリ家では『パイ投げ』が流行語になったと聞いて、さすがのアニスも泣きたくなったのだった。

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