6.どこの馬の骨とも分からぬ相手に、心は開けない
顔中がごわつく嫌な感覚が気になって、モニカは目を覚ました。そして何ヶ月いや何年ぶりかの化粧を施したきっかけを思い出し、がばりと起き上がった。
――皆が寝静まった深夜。
(あぁ良かった、もう夜)
モニカは茶会のあと化粧も落とさずにベッドへ倒れ込んだことを思い出した。眠りに落ちる直前に、侍女のドロシィが「ドレスだけはお脱ぎ下さい!」と叫んでいたことも。
彼女は自分の着ているドレスのレースがしわくちゃになっているのを見下ろし、ため息を吐いた。
「いつもなら寝てる時間に化粧だの着替えだのしたんだもの、眠くなって当たり前よね……」
独り口を尖らせたが、頬がべたついて引き攣る。どうしてだったか、とぼんやりすればすぐに思い至った。
(あぁそういえばわたくし……!)
窓の外は月と星がさんざめいてベッドの上に格子の影を落とす藍色の中。モニカはぶるぶると震え出した。そうかと思えば突然立ち上がり「あぁーもうっ!」と大声を上げ始める。
彼女はベッドの上で地団駄を踏んだ。
「あんんの、眼鏡女史ぃぃ。なぁにが『お見事ね、モニカ』だわよ! お高く止まるのもいい加減にしなさいよおぉぉ!」
ぼふ、ぼっふとスプリングが彼女を怒りを受け止め、もう何日も変えていないシーツから埃が舞う。枕元のクッションは蹴り飛ばされ、いくつか羽根が飛び出した。
「何よ、“王太子妃”の真似なんかして、当てつけのつもり!?」
彼女は二週間前、『長いこと妃教育をしていないようだから、行儀指南役を雇った』と聞かされたとき、最後まで話も聞かず、衝動的に部屋を飛び出しのだ。
彼女の父親も母親も、彼女が目に見えて反抗するようになってから別邸に移り住んでいた。珍しく離れに顔を出したと思ったら、その話だったのだ。
それからは毎度のことながら、寝室に立てこもり侍女とすら話をしていない。
茶会での凶行についても、眠り込むまでは随分騒がれたが、モニカは全く後悔していなかった。
(フン、あの澄ました顔も少しは引き攣ったかしら)
面会も茶会も彼女にできる限りの無礼を働いたのだ。もしかしたら明日にはアニーとか言う女もいなくなっているかもしれない、と彼女は動きを止めて「くふっ」と笑った。『ベツガオ』の真似をしたのは我ながら傑作だった、と仁王立ちのまま腕組みをした。
はじめ彼女は、一介の庶民が恐れ多くも王太子妃を名乗って茶会を主催するなんて! と、アニー=ヴィンセントの正気を疑っていた。同時に「耄碌してしまったのかしら」と実の父をも疑った。
しかし蓋を開けてみれば、相手は大真面目に王太子妃の真似をしているではないか。
絶対頭がおかしいに決まってる、と彼女は眉間にしわを寄せた。
(……それにしても、仕草も王宮儀礼にも精通しているなんて、何者? あの野暮ったい眼鏡はお笑い草ですけれど)
衣装は豪奢で、本物の王太子妃が着ていても遜色ない素晴らしい刺繍のドレス。髪に飾った細工も隣国でしか手に入らない高価なものと、彼女は判断した。普通の官吏が一生掛かっても購入することはできない品々。
つまり、アニーは本当に父上の推薦する人物――ひいては、第一王太子妃、ないし王家が
「今さら父上もジャノルド殿下も何だって言うのよ!」
蹴る物もなくなり立っているのに疲れ――ただでさえ動きづらいドレスなのだ、彼女はベッドに座り込んだ。膝を抱えようとしたが、ごわつく分厚い生地と腹の肉がつっかえてゴロリと転がってしまった。
(今さらよ……もう永遠に放っておいてくれれば良かったのに)
彼女は泣き出しそうになって、ベッドに置いたままにしてある恋愛小説に手を伸ばした。引き寄せ、胸元にかき抱く。
もう一年以上、彼女に愛を与えたのは小説のヒーローたちだけだった。
月明かりに浮かぶ題字は『夜明けの薔薇が開くとき』。
「あぁわたくしの“ダーニャ”……そうよね、貴方に出会うまでは」
ぎらり、と彼女は瞳に力を込めた。
「絶対ぜぇぇったい! あんな女、追い出してやる……」
◇ ◇ ◇
モニカとの茶会の翌日、アニスが立てた計画はこうだ。
まずは婚約のことは一切触れず、彼女自身から情報を集める。
そして裏でジャンに助言をし、口説かせることを継続。
最終的にモニカに友人として信用され、親しく言葉を交す中もジャンの好感度を上げていく。
聖誕祭まであと三ヶ月弱、どれ程交流できるかが鍵となる。
(聖誕祭に参加できるかどうか、までは期待しないでおこう。結果、婚約者同士が懇意になればいいはずだ。問題は、友人関係に持って行けるか……)
昨日の茶会で彼女がなかなかの強者と分かり、アニスは「モニカ嬢には手加減しなくて済みそうだ」と胸を撫で下ろしていた。女々しく、誘いを掛けねば拗ね、ベタベタとひっついてくるようなタイプではないと判断したのだった。
むしろジャンと同じ直情的な気配に、一条の光が差し込んだような気がしてた。
(次の茶会は彼女の好みを深く探るか)
既に招待状は出し終えており、返礼状も先程届いた。素速い返事にケンカする気満々だな、と口の端が上がる。アニスがそれに目を通そうとしたときだった。
廊下の外から大勢が近づく物音が聞こえた。
(何だ、騒がしいな……この、足音は。まさか……)
既視感に彼が部屋の扉を見つめていると、忙しないノックが聞こえ、応える間もなくピケが入室した。慌ただしい一礼。
「アニスさま、お、お客さまが……!」
「嘘だ、まさか」
悪い予感が背筋を駆け巡る。
「火急の件とのことで、ジャノルド殿下が」
バァァン! と扉が開かれた。
「アニーィィィィ!」
「あぁ……」
アニスは実に女性らしく、両手で顔を覆った。
「いやぁー、すっかり女の姿が板についたな! どこからどう見てもラベリ家三女って感じだな。お茶おかわり!」
「お前、何しに来たんだ。ここはヘレンゲル家じゃないんだぞ! 自分の婚約者に会いに来るならともかく、僕に会いに来てどうする」
アニスは目をつり上げた。
「今、僕はアニーなんだぞ。変な噂が立ったらどうしてくれる」
視界の隅でピケが深く肯いた。ジャンが玄関を正面突破してくるのはいつものことだが、ラベリ侯爵家でも同じことをしてきたとなると話は変わってくる。アニスは文字通り頭を抱えた。
「おぉ、そうだった。変な噂? 大丈夫だろ、誰が噂するってんだ? お前がいると思うと、いつもの調子になっちまって。……これを届けに来たんだ」
ジャンが白い軍服の内ポケットを探り、手紙をいくつか取り出した。
それを受け取り、サッと目を走らせれば実家とアナベル、そして。
「ラベリ侯爵からか!」
「おう。今朝の朝議は遠征のことも議題に上がってたからな。アナベル
「侯爵にではなく? 姉さん?」
「あぁ。何でも侯爵とアニーの仲介役を買って出たそうだぞ。『是非、殿下が様子を見ていらして。可愛いアニーがどうしているか、教えに来て下さる?』って手紙を預けられたから、わざわざ来てやったんだぞ」
碧い瞳が人好きのする形に垂らしたジャンを眺めて、アニスは頬を引き攣らせた。ここに来てから微笑んでばかりで、表情筋が疲れているらしい。
(姉さんが……何故。そんなまどろっこしいこと……)
彼は殊更の嫌な予感に「ちょっと待っててくれ」とジャンに断わり、ピケの差し出したナイフで封を開けた。ジャンは客室を探索することにしたらしく、何やら声を上げながら見て回り始める。ピケが後ろからそっとついて回っているのを確認し、彼は手元に目を落とした。
ラベリ侯爵からのものは、“外務事務補佐 アニー=ヴィンセント殿”と、しっかり宛名の工作も万全だ。
“王命とは言え、愚娘を官吏たる貴殿に預けることは、ラベリ侯爵家始まって以来の一大事である。我が家の体面は地に墜ちたものと思う、我が胸中を察していただきたい”
“貴殿とは王太子妃殿下の推薦を信じ、一度の面会もないままで我が家に迎え入れることになった”
“優秀な人物と殿下から信頼が厚いとは聞き及ぶが、女の装いをしていても貴殿は男性。娘の側に置くには心が休まらない”
“貴殿に会っておきたい”
「……は?」
“来月、妻と時間を作り、モニカと共に晩餐の場を持つ”
“初対面で貴殿の働きぶりを試すような真似をすること、許して欲しい ”
アニスは読み進める内、冷や汗が額に滲むのを感じた。ハンカチで優しく拭う。
(これは僕宛じゃない。『アニー』宛だ。まさか……侯爵は僕がアニーだと、知らない……? 王も、姉さんも侯爵に隠してるのか!?)
脳内で鐘を撞かれたような衝撃に、アニスはふらっと卒倒しかけた。カウチの縁に手をつき、目眩が治まるのを待つ。
(そうか、分かった。侯爵は僕が女装していると知らないから……どこの馬の骨とも分からない男、アニーのことを信用していない。僕に、ヘレンゲル家にすぐ連絡がなかったのも理解できた。それに、家人たちの態度が悪かった理由も……)
恐らく
当たり前だ、顔も知らない女装野郎が王太子妃候補の娘に近づくのを、まともな親が快く思う訳がない。アニスはひどい目眩にうぅ、と唸った。
「アニー! どうした、具合が悪いのか?」
「……ジャン、もう今日はもう帰ってくれ。ちょっと頭を整理したい」
「いや、ダメだアニーは強がりだから。おい、そこの、この家に侍医は?」
「家令が医術の心得を持っております。今すぐ!」
(家令? それこそ厄介だ。今、変に誤解をされては……)
「やめて、くれ。とにかく……ジャン、君は帰って」アニスは力なく手を振り、ピケを呼び止めようとした。しかしもう遅かった。
側に跪いたジャンがアニスの手を握って叫んだ。
「アニーィ! しっかりしろぉ、俺がついてる……!」
その瞬間ガチャと扉の開く音。
顔を覆った彼の指の間、入室した家令は目を見開いた。
(あぁまた面倒なことに……)
――翌日からラベリ侯爵家では家人たちの間では、明るい場所では話せない噂が飛び交う。
『ジャノルド殿下は男色。アニー=ヴィンセントは愛人』
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